童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国武将の人間学

■信長の論功行賞で功労者の蒲生氏郷を叱責した理由

<本文から>
  この日の論功行賞が行われた。信長は、
 「今日一番の手柄は蒲生氏郷の部下である」
 と発表した。みんなへんな顔をした。信長はおかまいなくこうつづけた。
 「今日一番の失策者は蒲生氏郷である」
 みんなどよめいた。誰もが今日一番の功労者だと思っていた氏郷が、失策者だと名ざしをされたからだ。
 「信長さまは一体何を考えているのだろうか∫
 「なぜ蒲生殿が失策者なのだ?」
 とささやきあった。蒲生氏郷自身も不満そうな顔をしていた。かれは一揆側のリーダーを何人も倒し、その首を持っていた。ほこらしげなかれの表情は次第にくらいものに変っていった。信長は氏郷をみた。
「氏郷、おれがなぜおまえの部下を今日の功労第一位とし、おまえを失策者として罰するのか、わかるか?」
「わかりません」
 氏郷は正直にいった。不満の色がその声ににじんでいた。ほかの将兵も一斉に信長を見た。信長がどんな説明をするか、全員が関心を持っていたからである。信長はいった。
「その理由を説明する。氏郷だけでなく皆もきけ」
 そう前置きして信長は説明をはじめた。
「蒲生氏郷の今日の使命は何であったかを考えよう。氏郷は旗本として大将のおれを守ることだ。おれの命令がなければ、ぜったいにおれのそばからはなれてはならない。たとえ敵が目前に迫ろうと、これは鉄則だ。今日の氏郷はそれを破った……」
 信長の口調はきびしい。氏郷は身を硬くした。信長の話を整理するとつぎのようになる。
○にもかかわらず、氏郷は信長の命令を待たずに、迫る敵の中に突入した。
○その働きはみごとだったが、置き捨てにされた氏郷の部下は混乱した。リーダーがいなくなったからだ。
○敵の一部が本陣に攻めこんでいた。この時、まごまごしていた氏郷の部下は、突然、結束して人垣をつくりおれの前面に立ちふさがった。おれを守ろうというのだ。
○この氏郷の部下の行動は、かれらの自発的なものだ。リーダーがいなくとも、自発的に、いま自分たちは何をなすべきかの責務感にめざめたのだ。そしてみごとなチームワークを生んだ。これこそ新時代に生きる、期待される現場像なのだ。
○それにひきかえ、氏郷の行動は組織から逸脱し、戦いをあくまでも個人の次元のものと考える現状から一歩も前に出ていない。もう、時代は個人のカッコよさで動くものではない。組織は個人のパフォーマンスの場ではないし、ましてや生命をかけた戦場でそんなことはゆるされない。
 信長は最後にこうしめくくった。
「だから、今日一番の功労者は、新しいチームワークを生んだ蒲生氏郷の部下たちである。それにひきかえ、蒲生氏郷はリーダー失格だ。きつく叱りおく」
 みんなことばがなかった。蒲生氏郷はうなだれっぱなしだった。その日の夜、氏郷は信長のところに行った。そして、
 「申し訳ありませんでした。考えが浅うございました」
とあやまった。
 信長はニコニコして「わかったか?」とうなずいた。
 信長は自分の娘を氏郷の妻にした。絶大の信用をおいていたからだ。
▲UP

■徳川家康の悪口の高札への対処

<本文から>
 徳川家康といえば″タヌキおやじ″といわれ、その人事管理も″分断支配″で、互いに反目させて両方がクタクタになるような使い方をするので有名だった。かれ自身、
 「部下は水と同じだ。よく舟を浮かべるが、またよく舟をひっくり返す」
 と言った。舟というのは自分のことだろう。部下にすればこうはっきりと「部下不信」の態度を示されたのではオチオチしていられない。勤めぶりは皆極度の緊張感で貫かれていた。
 家康が京都の二条城に行ったときのことである。かれを田舎大名出身の天下人とみる京都の知識人が、かれの政治を批判する文を書いて城の前に貼った。大騒ぎになった。門番が重役の所に持ってきた。重役たちは額を集めて相談した。
 家康は重役に対しても普段こういうことを言っていた。
 「主人を諌言するのは、戦場の一番槍より難しいぞ」
 聞きようによっては、
 「おれに妙な諌言をするとトバすぞ」
 という意味に聞こえる。そこで重役たちは協議の結果、「握りつぶそう」ということに決めた。ところが貼紙は翌日も出た。次の日も出た。そしてある日外出した家康が、
 「あれは何だ?」
と聞いた。進退きわまって重役たちは、
 「実はコレコレでございます」
と報告した。そして、
 「現在、犯人を厳重に探索中でございますので、なにとぞおゆるしを願います」
と言った。すると、家康は、「犯人を探索中だと?」と目を剥いた。
 「はい」
 「やめろ」
 「は?」
 「これは京の人間の正直な気持ちだ。放っておけ。ついでにわしの名で明日は何を書いてくるか、楽しみにしている、という高札を出しておけ」と笑った。重役はそのとおりにした。高札が立てられてしばらくたつと、その高札にこんな貼紙がしてあった。
 「おまえには負けた、タヌキおやじめ」
 そして以降は貼紙はプッツリなくなった。
▲UP

■家康のエピソード、組織統制はあくまでも秩序を保つこと

<本文から>
 こんな話がある。
 関ケ原の合戦だったか、大坂の陣のときだかの話である。家康は、全大名に命令した。
 「今度の戦いは、この徳川家康の存亡を賭けた戦いである。各大名家においては、それぞれの部下が、あなた方に尽くすのではなく、この家康に尽くすのだということをよく徹底して奮闘していただきたい」
 大名たちは、いろいろな反応を示した。
「天下人になったからといって、おれの部下を自分の部下のように考えるとはとんでもない人物だ」
「そこまで思い込んでいる徳川殿はりっぱだ。部下にもよく伝えよう」
「どの大名が、どんな反応を起こすかよく見極めたうえで、おれの行動を決めよう」
 つまり、家康の命令を批判する者、感心する者、日和る者などに分かれた。
 ある若い大名が、家康のこの言葉に感動した。自分の陣に戻ると、家康の言葉をそのまま伝えた。そして、「今度の合戦では、徳川家康公のために戦うのだということをよく認識して、みんながんばってほしい。なんでも思いきってやれ」と命じた。部下たちは心を奮い立て、いっせいに「オー!」と叫んだ。
 合戦が始まった。乱戦になった。その若い大名のまわりには、大名を守るための親衛隊がいたが、戦場が混乱状態になったので、異常に興奮してしまった。やがて、大名の脇にいた親衛隊も、一人二人とどんどん合戦の現場に飛び込んでいった。大名のまわりにはだれもいなくなってしまった。大名は不安になった。しかし、さっき家康の命令をそのまま伝えて、「おれのことなどどうでもいいから、思いきって戦え」といった手前、もうどうすることもできない。まさか、一所懸命戦っている部下たちに対して、「おれの身が危ないから、戻ってこい」とはいえない。
 が、こんなことが起こった。
 その主人の部下で、敵の大将級の首を取った者がいた。首を取った武士は、大名のところへ戻らず、直接徳川家康のところへ走った。そして、「私は何々という大名の部下でございますが、ただいま、敵将の首を取りました。まず、あなた様に見ていただきたいと存じ、駆けつけました」と報告した。
 家康は、首にチラリと視線を向けたが、こう聞いた。
 「おまえが敵と戦っている間、おまえの主人は何をしていたのだ?」
 そう聞かれるとその武士は見当がつかなくなった。
 「さあ」と答えた。家康は聞き告めた。
 「さあ、とはなんだ?」
 武士は答えた。
 「敵との戦いに夢中になっておりましたので、主人が何をしているかはわかりませんでした」
 「さっき、おまえは主人の旗本だといったな?」
 「はい」
 「旗本というのは、たとえどんなことがあっても、最後まで主人を守るのが役目だ。その旗本がなぜ主人のもとを離れたのだ?」
 「このたびの戦いは、主人のためよりもむしろ徳川様のための戦いなのだから、思いきって戦えと主人がいいましたので」
 「そうか……」
 家康はうなずいた。そしてその武士に、「陣へ戻れ。そして主人に私のところへ来るようにいえ」といった。せっかく敵の大将級の首を取ったのに、あまり褒めてもくれない家康に不満の気持ちを持ちながら、その武士は陣に戻った。そして家康の伝言を伝えた。
 家康のところにやって来た若い大名は、部下から報告を聞いて、その部下の功績を褒めてくれるのだろうと思った。そこで、「先程お伺いしました部下は、私の秘蔵っ子でございます」と自慢した。家康は苦虫をかみつぶしたような顔になった。
 「あなたは心得違いをしている」
 「はあ?」
 その大名は、けげんな表情になって家康を見返した。家康が意外に不機嫌なので、心配になってきた。家康はいった。
 「私がいかに思いきって戦えといっても、それには限度があるのだ。私もあなたも組織のうえに乗って仕事をしている。組織の秩序は重んじなければならない。思いきってやれ、いうのは、言葉の綾で、組織人には組織人のケジメがなければならない。トップがいきなり現場の兵に向かって、なんでも思いきってやれ、責任を取るなどというのは無責任だ。そんなことをいったら、間の中間管理職の立場がなくなってしまう。私があなた方に思いきってやれといったのは、あなた方を立てて、部下に奮闘努力しろという意味だ。あなた方を飛ばして、この家康に直結しろということではない。まして、立てた手柄を、主人に報告せずに、いきなり私のところに来るような人間は嫌いだ。ああいうさっき来たような者は、すぐクビにしたほうがいい」
 「…………!」
 若い大名は真っ青になった。家康の言葉がそういう含みのあるものだとは思わなかったからである。若い大名は反省した。そしてつくづく、「徳川家康様という人は、実に恐ろしい方だ」と思った。家康は、あくまでも組織の秩序を重んじた。部下を水とみなす彼には、組織を統制していく唯一の管理方法は、あくまでも秩序を保つ以外にないと考えていたのである。徳川家康の複雑さを示す話だ。
▲UP

■恩賞の与え方−明智光秀の心ない名将のエピソード

<本文から>
「今まで提供した情報で、どれだけ細川様が得をしたかわからないはずです。もう少し給与を上げて下さいよ」
 しかし米田は首を横に振った。
「おまえのいう理由は通らない。それに細川家はまだ貧乏でおまえのような放浪者出身の雇い人に、多くの給料を与えるわけにはいかない。嫌なら出ていけ」
といった。光秀は、
 「そうですか、では出ていきます」
 といって、細川家を飛び出してしまった。
 やがて、明智光秀は再び細川幽斎に巡り合った。このころの光秀は、越前の大名朝倉義景の客分として一乗谷の館にいた。ここへ、足利義昭をいただく細川幽斎が転がり込んできた。光秀は幽斎と相談して、義昭を将軍にする働きかけを織田信長にした。信長は快諾した。そして、武力で京に攻め上り、足利義昭を見事に将軍に仕立てあげた。これによって、明智光秀と細川幽斎は共に織田信長の有力な大名に出世した。
 そうなったとき、信長は、「幽斎の息子忠輿に、光秀の娘を嫁にやれ」と命じた。
 この婚姻が成立して、幽斎の息子と光秀の娘お玉が夫婦になった。
 このとき、細川家に行った光秀は、廊下を歩いて行くと、前から来たある老武士がいきなり立ち止まり、くるりと反転して逃げ出すのを見た。
 (はてな?)
 と考える光秀は、思い出した。
 (米田だ!)
 光秀は、祝い事が済むと、幽斎にいった。
「米田という男がまだおりますか?」
「おります。なにかご存じよりで?」
 幽斎の間に、光秀は若いころの話をした。幽斎は恐縮した。
「それはちっとも知りませんでした。私にご言おっしゃって下されば、あなたのような有能な人物には、当然給与を増額敦しましたのに。これは米田の計らいが悪く、とんだご迷惑をおかけ致しました」
 そう詫びる幽斎に、光秀は手を振った。こういった。
「いや、昔の恨みを申し上げているのではありません。私は逆に米田殿に感謝しているのです。米田殿に拒絶されたからこそ、発情して織田信長様にお仕えし、あなたとこうして同じ立場に立つことができました。お願いがあります」
「なんでしょう?」
「私からと申して、米田殿の給与を引き上げて下さいませんか。昔の恩を光秀はまだ忘れていないとお告げ下さい」
「なるほど……」
 幽斎はうなずいた。しかし、彼は心の中で考え込んだ。
(はたして、そうすることがいいか悪いか、ここは充分に思案しなければならない)
 と思ったからである。
 しかし、明智光秀の言葉を幽斎の他にも聞いた者がいた。そのとき、座に連なっていた者がいたからだ。こういう連中がその後、米田に聞いた。
「米田殿、ご加増はありましたか?」
 米田は何のことかわからずにポカンと相手を見返した。相手は、実はこの間こういうことがあったのだと話した。米田は、すぐ幽斎のところに行った。そして、
「こういう話を聞きましたが、事実でございますか?」
「事実だ」
 幽斎はうなずいた。米田はいった。
「それでは、なぜ私の給与を増額して下さらないのですか?」
 米田をじっと見返して幽斎はこう答えた。
「そんな理由で加増すれば、おまえは生涯苦しむことになるぞ」
「は?」
 米田には幽斎のいうことがわからない。幽斎は説明した。
「明智殿は、今は出世をしたからそういうことをおっしゃるのだ。もし、昔と同じ立場にいたら、おそらく今まで持ち続けているおまえへの恨みを今後も持ち続けるだろう。今は器量が大きくおなりだから、そういう勝者の寛容でおまえの給与を上げてやってくれと私にいうことができる。しかし、もしこれを理由にしておまえの給与を上げれば、こんどはおまえはいつも考えるだろう。なぜ、自分の給与は上がったのだろう、と。そうなると昔、おまえが明智殿にとった仕打ちを、いちいちおまえは思いださなければいけないことになる。つまり、この事件は、明智殿にとっても、おまえにとっても心のきずなのだ。明智殿は、出世によって、このきずにカサブタをはることができた。癒すことができた。しかしおまえは違う。おまえの立場は依然として私の部下だ。そうなれば、こんどはおまえの心の傷のほうが大きく広がってしまう。それが不憫で、私はおまえの給与を上げなかったのだ」
 幽斎の言葉に米田は恥じ入った。
「私の考えがあさはかでございました。おはずかしゅうございます」
「いい。わすれて今まで通り励んでほしい」
「はっ」
 米田は平伏した。
 このへんが、実をいえば細川幽斎と明智光秀の、トップとしての心構えの差だ。幽斎からいわせれば、明智光秀は、昔のことなどいい出すべきではなかった。米田が廊下でくるりと逃げたのなら、黙ってそれを見過ごすべきであった。それを、自分が今は偉くなったのも、あの男のおかげだなどといわれては、米田の立場はない。また、そういう部下を抱えていた幽斎の立場もなくなる。その意味で、細川幽斎は、
(明智光秀は、心ない男だ。名将ではあるが、やはりどこか欠けているところがある)
 と感じたのである。恩賞の与え方にも、こういうひとひねりした変化球があったというエピソードである。
▲UP

■島原の乱で一切言い訳はしない石谷十蔵

<本文から>
 そして、その年が押しせまった大晦日、重昌は十蔵に密かにいった。
 「私はこれから城を総攻撃する」
 「?」
 十蔵は驚いて重昌を見返したが、何もいわずに領いた。目が、
 (わかります)
 と告げていた。しかし、石谷十蔵はその攻撃に加わらなかった。板倉重昌は自分の軍を引き連れて、原城に突入して行った。半分は、
 「明朝は新年のことなので、敵も油断しているだろう」
 と踏んでいた。ところがキリシタン農民たちは少しも油断していなかった。逆に、
 「大晦日から新年にかけて、幕府軍は必ずわれわれを襲って来る。油断するな」
 と警戒を強めていた。待ち構えていた。そこへ板倉軍が突入した。板倉軍は散々に破れた。そして大将の重昌は壮烈な戦死を遂げてしまった。
 板倉重昌戦死の報告を受けて、石谷十蔵は胸を重くした。
 (あたら立派な武士を失った)
 と残念だった。
 その直後、江戸から大将の松平信綱が赴任して来た。かれは、前任の板倉重昌が自分が着く前に原城に突入し、戦死したことを聞くと、
 「しまった」
と呟いた。そして、非難の目で副大将の石谷十蔵を見た。十蔵も何も言い訳しなかった。
 桧平信綱は、
 「石谷は江戸に戻れ。審問を受けろ」
と命じた。十蔵は、
 「かしこまりました」
と静かに答えた。石谷十蔵はこの乱でほとんど何もしなかったのである。かれがした唯一のことは、上司である大将の根倉畳昌を原城に突入させ、死なせてしまったことであった。
 江戸城に召喚された十蔵は、厳しく調べられた。
「大潮の板倉重昌が暴走しようとした時に、副大将であるおまえはなぜ止めなかったのか?」
 審問はその一点にしぼられた。が、十蔵は答えなかった。終始一貫して黙秘した。首脳部はついに匙を投げた。
 「強情な奴だ」
 十蔵は謹慎を命ぜられた。十蔵は何も弁解しなかった。自宅に籠ったまま、じつと死んだ板倉重昌のことを考え続けた。しかし、それにしても石谷十蔵はなぜ答えなかったのだろうか?
 石谷十蔵はこう考えていた。
 「そもそも、身分の低い板倉様を大将に命じたことが、幕府首脳部の間違いだった。だから九州の大名はいうことをきかなかった。そのことに気付いた幕府首脳部は、今度は板倉様を他の大名に取り替えた。これも間違いだ。一日命じた以上は、板倉様の命令を九州の大名がきくように、幕府首脳部が九州の大名を叱るべきだったのだ。それをしないで、安易な人事で板倉様を更迭し、松平様を新しい大将として送り込んできた。武士として、そんな侮辱に耐える者がいるだろうか。だから板倉様は、松平様が来る前に一揆を鎮圧しようとして猪突した。そして戦死してしまった。非は幕府にある。しかし自分がそういうことをいえば、おまえは責任逃れをするためにそういう言い訳をするのだろう、卑怯な武士だ、というに違いない。俺は卑怯者ではない。だから一言も口をきかない。まして、幕府首脳部の過ちを天下に知らせるようなことになれば、俺は幕府に対して忠義な臣ではなくなる。だから絶対に弁明じみたことはいわない」
 この時の経験は、石谷十蔵にその後自分にどんな不利なことが起こっても、絶対に言い訳はしないという信念を生ませる。かれはこれを守り抜く。
 十蔵にすれば、これがかれなりの「忠誠心」なのだ。かれは、
「忠義だ、忠義だと大声で叫ぶのは本当の忠義ではない。たとえ卑怯者といわれても、身命を惜しみながら、命の続く限り主人に忠義を尽くすのが本当の忠義なのだ。同時にそれが人間としての誠なのだ。身命を惜しんで忠を尽くすということは、不惜身命をこえる誠なのだ」
 と思っていた。この考えが遺憾なく発揮されたのが今度の島原の乱であった。
 一番簡単な道は、石谷十蔵も板倉重昌と一緒に原城に突入してしまうことである。そして戦死してしまえば、こんな名誉なことはない。残った人々は、
 「板倉重昌も立派だし、石谷十蔵も立派だった」
 と誉め称えるに違いない。しかし、これは明らかに徳川幕府の命に反くことになる。すでに、後任者が決められて、赴任するまで待機せよと命ぜられているにもかかわらず、その直前に攻撃を行なうのは、幕府に対するいやがらせであり、不満の表明に他ならなくなる。十蔵は、
 「幕府の命令には従わなければならない」
 ということを大前提とした。しかしだからといって、板倉重昌を止めなかったのは、重昌の気持ちがよくわかったからである。石谷十蔵が、板倉重昌の猪突を黙認したのは、十蔵なりに、
 「板倉殿に、死に場を与えてさしあげよう」
 と思ったからだ。板倉重昌は、十蔵のような柔軟な考え方をする武士ではない。与えられた侮辱に対しては、真向から向き合う。それが重昌の純粋なところだ。生き残っても、重昌はその屈辱を生涯負い続けて、耐えきれないに違いない。それほどの柔軟性は重昌にはない。十蔵はそのことをよく知っていた。そこで、
 (板倉殿の突入を止めまい。板倉殿は板倉殿なりの道を選んだ。俺は俺の道を行く)
と思った。
 桧平信綱によって島原の乱は鎮圧された。信綱たちは凱旋して来た。信綱は、戦争の経験はない。にもかかわらず乱を鎮圧して一躍名をあげた。かれは知恵伊豆″と呼ばれて、頭の良さで名が高かった。現在の将軍徳川家光の信任が厚く、新しい政治の方針はほとんど信綱の頭から出た。そのため反発する者もいた。しかし、島原の乱を鎮圧してからは皆も一目置くようになった。
 対照的に、
「あれだけ戦争の経験がありながら、島原の乱では大将の板倉棟を見殺しにした卑怯者だ」
 といわれたのが石谷十蔵である。しかし十蔵は沈黙した。一切言い訳をしなかった。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ