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<本文から>
そして、そういう芽を出す、時代の空気を変えつつあるのは、ものいわぬおぴただしい戦国の民衆であった。その存在を、華鹿の方がより早く気づき、信長は、まだ高い雲の上にいたということである。山の頂を極めようとあせる信長は、籐吉郎がふもとの方でシコシコと、こういう戦国民衆のニーズを組織していることに気づかなかった。
もちろん、籐吉郎自身も、それに気づいていたかどうかはわからない。しかし、持ち前のカンのよさで、籐吉郎はそういう空気の変化を、肌で感じたゾそして、その空気が、かれの潜在していた適応能力を掘り起こした。墨俣城を築くために、尾張国北西部の土豪たちと接触したとき、この感じは確かな手ごたえになった。あの大湿地帯に城を築くということは、並大抵のことではない。しかし、籐吉郎は、
(おれにはできる)
という確信をもった。その確信は、時代の空気がもたせた。
そういう籐吉郎の自信とは逆に、織田信長が感じたのは、
(やがて、おれの時代ではなくなるのではないか)
という予感であった.
世の中は、いつも破壊と建設とその維持の三つの要素で成り立っている。信長が無意識に考えたのは、
(おれは破壊産であり、藤吉郎は建設屋ではないか)
ということであった。建設屋というのは、ただ墨俣城のように建造物をつくるという目に見えることだけではない。ソフトなことも入る。つまり、「物の世の中」でなく、「人間の世の中」ということである。沢彦から、
「井ノロは、岐阜という地名にお変えなさい」
という話をききながら、織田僧兵の心の半分は、そういう思いにとらえられていた。
沢彦は、そういう信長の心理を見抜いたのかどうか、こんなこともいった。
「これからお使いになる印は、天下布武という四文字になさったらどうですか?」 |
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