童門冬二著書
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          戦国武将に学ぶ 明補佐役の条件

■立花道雪−臆病者と噂される者の育て方

<本文から>
 臆病者と噂される者がいた。その人物が落ち込むと、道雪こういった。
 「おれのところに来て、酒をつきあえ」
 そして、酒を飲みながら、道雪はこういう。
 「いくら本人に勇気があっても、合戦というのは、なんといっても運不運がある。つまり、天が味方しなければ、手柄を立てられない。おまえにはまだ運が向いてこないのだ。だから、あせって、他人の評判を気にし、やみくもに敵陣に突っ込むようなことはするなよ。そんなことをするのは犬死にだ。だいいち、他の家から引き取ったおれに対して不忠になる。おれに対する忠義というのは、いつまでも体を大事にして、最後まで戦い抜くことだ。おまえのような人間がそばにいてくれるからこそ、おれも安泰で、敵の中に平気でおどり込めるのだ。おれだってほんとうのことをいえば、敵陣に飛び込むのは怖い。だから、ああしていつも大きな声をあげているのだ。ハッハッハ」
 そういうことばをかけるだけでなく、彼は、自分の大切にしている武具を出して与え、
 「これをやるよ。この次は、これを使って手柄を立てろ」
 とはげました。感動したその人間は、次の機会には、慎重に考えながらも、しかし勇気を奮って敵陣におどり込み、見事な手柄を立てた。
 こうして臆病だといわれていた人間が手柄を立てて帰ってくると、道雪はすぐその人間を呼び出す。そして、自分の部下が大勢いる前で、
 「こいつの働きを、みんなもよく見ただろう。おれの目に狂いはなかった。前々からいっていた通り、こいつは臆病者でもなんでもない。他の家にいたときは、手柄を立てる場が与えられなかっただけだ。あるいは、運がなかったのかも知れない。今日はよくやった。ほめてやる」
 とたたえた。それだけではない。さらにずっと自分に仕えてきて、猛将として評判の高い重役を呼んでこういう。
 「今日から、この男をおまえにあずける。もっと強い男に鍛えてやってくれ」
 つまり、はじめから猛将と呼ばれる武士にあずければ、臆病者といわれる男はひるんで、ぎこちない対応をするようになる。それを防ぐために、ナンバー1である道雪が、自ら鍛えて、ある程度ものにする。ものになったところで、今度は部下の中で猛将の誉れの高いリーダーに引き継ぐ、という人の育て方をしていたのである。    
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■石田三成にふさわしくないものがふたつある

<本文から>
 島左近は関ケ原の合戦で、かなり老体でありながら猛列に戦って、壮烈に死んだ。
 石田三成は、島が生きていたころから、こういう評判を立てられた。
「石田三成にふさわしくないものがふたつある。それは佐和山城と、島左近だ」
 つまり、
「トップからもらう給与は、いい部下を養うための費用だ」
 と考える三成は、人間だけでなく、自分の城も立派につくつたからである。つまり、いってみれば身分不相応≠フ城と部下を持っていたということである。だから、関ケ原の合戦に負けて、徳川方の井伊軍が佐和山城を徹底的に破壊したとき、佐和山城にはなんの財産も残っていなかった。本丸の三成の居室は実に粗末で、
「これが大名の住まいか?」
 と、井伊軍があきれるほどだったという。それほど三成は、自分の給与を徹底的に豊臣秀吉のために使い果たしていたのである。
 そして、その石田三成が佐和山城でナンバー1だったとすれば、それを支えたナンバー2の島左近も、最後まで三成に尽くし抜いた人物だといっていい。これもまた戦国時代の美談のひとつである。
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■山本勘助の功罪

<本文から>
「滅ぼした敵の娘を側室にするということは、いままでその敵に仕えていた連中の反感を買い、恨みを残すから」
 というのが理由だった。このとき、
「いや、それは反対です」
 と異論を唱えたのが山本勘助である。勘助はこういった。
「逆だと思います。敵の娘を側室にして、たとえばその側室との間に生まれた子供を、次の相続人にするなどということを考えれば、敵に支配されていた人々もきっと喜ぶと思います。そうすべきだと思います」
 武田信玄は、勘助のことばに従う。そして、諏訪氏の娘を側室にし、その娘の生んだ子がのちに武田勝頼になる。それだけではない。信玄は、
「勝頼の子を、おれの相続人にするように。勝頼は、後見人になれ」
 と遺言している。つまり、山本勘助がいったことをそのまま実行するのである。
 また信玄は、みんなの前で勘助にきく。
「征服した地域をうまく支配するには、どうしたらいいか?」
 勘助はこう答える。
「それには、いままで敵地であった地域で、有能な人間をどんどん登用することです。そういう連中に支配を任せれば、領民もあまり違和感を持たずに、その者のいいつけに従うでしょう。また、あなた自身が、その地域の知識人やお坊さんや、あるいは有力な農民などを呼んで、よく話をすることです。とにかくコミュニケーションが大切です。そして、信頼感を植えつけることが一番大事です」
 この方法は信玄の採用するところとなり、信玄自身のことばとしても残っている。そういう助言をしたのが勘助だという。
 しかし、山本勘助が信玄に対して最も功績を上げたのは、信玄の父信虎を駿河に追放した事件の裏方だったことだ。
 父信虎が信玄を嫌っていたことは、よく知られている。信虎は、信玄でなく信玄の弟の信繁を相続人にしたかった。しかし、信繁のほうがこれを受けず、
 「甲斐国の国主は兄以外にない」
 と思っていた。思っていただけでなく行動でも示した。そこで、この時代にはめずらしく信玄は弟を殺さなかった。織田信長も伊達政宗も弟を殺している。しかし信繁は、文字通り武田信玄のナンバー2として生涯を終えた。武田信玄にもナンバー2が何人もいたのである。
 伝えられるところによれば、駿河にいたとき山本勘助はこの裏工作をした。そして今川家に根回しをし、信虎を迎える態勢を整えた。つまり、信玄が父を追放しやすいように受け皿をつくつたのである。これが勘助の最大の功績だという。しかし、彼が最も力を発揮しなければいけない川中島の合戦は、はっきりいって作戦は失敗した。有名なキツツキ戦法≠ヘ上杉謙信のほうが一枚上手で、勘助の作戦を読み取った。そこで、上杉謙信は逆手に出た。そのために武田信玄は、一時命さえ危なかった。それだけでなく、弟の信繁も、そして山本勘助も、この川中島の合戦で戦死してしまう。
 その意味では、川中島の合戦で立てた山本勘助の作戦は失敗である。責任を取って死んだといえなくもない。だから、山本勘助の武田信玄におけるナンバー2としての存在は、なんといっても、それまでに彼が歩いてきた諸国の状況に明るかったこと。そして、それぞれの大名家の「家風」を、彼なりの鋭い分析力で、的確な情報としてつかんでいたことなどであろう。また同時に、「あるべき人事管理」について、自分の不利益になることを承知のうえで、正しい姿を人々に説き続けたということだろう。だからこそ、信玄も信繁のほかに山本勘助を、新参者ながらナンバー2として据えていたということなのだ。
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■家康の師・雪斎

<本文から>
 雪斎のやったことで最大の功績は、考えようによっては今川義元を補佐したことではなく、徳川家康を育てたことだったかも知れない。静岡に連れてこられた家康は、静岡にいる間じゅう、ほとんど雪斎について勉強した。雪斎は、その性格から、ただ本を読むことや、字を書くことを敢えていただけではない。徳川家康が将来独立した武将になった場合に必要な知識や技術を、それも戦略を中心にした知識をとことん教え込んだ。家康は、一所懸命勉強した。
 雪斎にすれば、主人の義元よりも、家康のほうがはるかに教え甲斐のある弟子だったのだろう。したがって彼は、自分の知っていることを全部家康に注ぎ込んだ。
 のちに「野戦の堆」と呼ばれた徳川家康の基礎は、むしろこの時代に築かれたといっていいのだ。その意味では、子供のころの徳川家康にとって雪斎は、今川義元の場合と同様に、家康のナンバー2でもあったのである。
 今川義元の子は、氏真といった。しかし、彼は父の仇を討とうとはせず、父と同じように風流三昧で暮らした。徳川家康は何度か、
 「織田を滅ぼしましょう」
 と持ちかけたが、氏実は応じなかった。やがて武田信玄に攻められて、国を追われ、徳川家康を頼った。その後は北条家に身を寄せて、居候の身になった。が、そこもいづらくなって、最後は諸国を放浪して歩いたのち、のたれ死に同様に死んだという。まったく「不肖の子」であったのである。しかし、このことも考えてみれば、あまりにも太原雪斎一辺倒で今川家の経営が行なわれていたことに原因があるのかも知れない。ナンバー1であった今川義元も、安心しきって雪斎に何もかも任せ、自分の後継者づくりにもいそしまなかったからである。
 「雪斎さんが居てくれるうちは、なんとでもなる」
 と考えていたことが、結局は今川家を滅ぼしてしまったのだといえる。その意味では、雪斎というお坊さんも結構罪なことをしたものだと思う。しかし、そうはいうものの、坊主頭にはちまきをして、鎧を着て、戦場を駆けずり回っていた雪斎が、やがて京都の妙心寺に呼ばれて、名のある寺の住職におさまったというのも面白い。やはり戦国時代だからこそ、そういう現象が起きたのだろう。
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■本多正信はトボケの名手

<本文から>
 本多正信がいかに謀臣であったかを示したのが、関ケ原の合戦前後の彼の行動だ。
 豊臣秀吉は、慶長三年(一五九八)八月に死んだ。しかし、秀吉が死んでも、秀吉の遺志を受け止めている前田利家という強力なナンバー2がいて、徳川家康は同じナンバー2でも、利家がいる限り、ナンバー1にのし上がることは不可能だった。ところが、やはり運というのがあるらしく、この利家が慶長四年(一五九九)三月に死んだ。絶好のチャンスである。このころ、世間では、前田利長が突然領地の加賀に帰ったので、こう噂した。
 「いよいよ、利長様が家康様に反乱を起こすようだ」
 実をいえば、利長を加賀に戻したのは家康である。家康はおためごかしに、
 「父上が亡くなられて、国許でもいろいろと御用がおありだろうから、一度帰国なさってはどうか」
 と勧めたのである。はやくいえば、邪魔者を大坂から追っ払ってしまったということだ。が、世間ではそう見なかった。そして家康自身も、前田利長がそういう噂を立てられていることを利用した。
 家康はある日、本多正信をよんで、ひとりごとのようにつぶやいた。
 「故郷へ帰った利長をひとつ征伐してやるかな。おれに歯向かうということになるから」
 家康がこういう話をしはじめると、本多正信は途端にうつらうつら居眠りをはじめた。コクリコクリとやっている正信を、家康はイライラした気持ちで見つめていた。しかし、正信の居眠りが続いているうちに、家康は考え直した。
(そうか、正信の奴は反対なのだ。利長を敵に回すよりも、むしろ味方にしたほうがいいといっているのだ)
 と気づいた。そこで、またひとりごとをいった。
 「やっぱり加賀に軍を出すのはやめよう。それよりも前田利長を味方にしたほうが、これからのおれにどれほど力になるかわからない」
 このつぶやきが終わるころ、本多正信は居眠りからさめた。そして、
 「ああ」
と大きな伸びをした。脇に家康がいたことにはじめて気づいたふりをして、
 「おや、そこにおいででしたか」
といった。家康は、
 (このとぼけおやじめ)
 と思ったが、ニヤニヤ笑っていた。そして、
 「どうだ? 何かいい夢でも見たか?」
ときいた。
 「はい、とてもいい夢を見ました」
 正信は答え、こういった。
 「道を歩いておりますとな、突然咆えるかかる犬に会いました。大きな犬でございました。しかし、もっていた餌をやりますと、犬は吠えるのをやめ、尻尾を振ってなついてまいりました」
 家康は、もう一度、
 (このとぼけおやじめ)
 と思った。夢にかこつけて、前田利長の扱いについて忠告したのである。家康は、ニコニコ笑いながら座を立った。そのうしろ姿に本多正信は黙って平伏した。
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■伊達政宗の暴走を止める片倉景綱

<本文から>
 氏郷は証拠として、伊達政宗が書いた一揆煽動の文書を提出した。こういうふうに証拠がそろっていては、いい逃れることはできまいと思ったのに、政宗は堂々といい抜けた。彼は、
 「確かにその文書の文字はわたくしのに似ておりますが、判が違います」
 といった。
 「判が違うというのはどういうことだ?」
 きき返す秀吉に、政宗はこう答えた。
 「わたくしの判は、鳥のセキレイをかたどっております。そのセキレイの目に、小さな穴をあけております。お手元の判のセキレイには、目に穴があいておりましょうか?」
 秀吉は目をこらして判をみたが、やがて「なるほど、穴がない」とつぶやいた。これによって、政宗は第二の危機を脱出した。しかしヒヤヒヤだった。この知恵は片倉景綱が前もって吹き込んだものだ。もちろん、秀吉が手にしていた文書は、伊達政宗が書いたものである。が、発見されたときのことを考えて、こういう手を打っていたのかも知れない。
 しかし、一揆によっても豊臣秀吉軍を防げなかった伊達政宗は、以後、秀吉に仕え、さらにポスト秀吉になった徳川家康の忠節な部下大名に変わってゆく。これは時代の流れだ。
 片倉景綱がナンバー2として偉かったのは、この時代の流れ≠きちんと受け止めていたことである。
「この時代の流れの中で、伊達政宗が生き残っていくためにはどうすればいいか」
 ということを、彼はいつも考えていた。政宗にしても、自分の性格をよく知っていたから、事に当たると、すぐ前へ出ようとする悪癖があることをわきまえていた。そしてそのたびに、
 (それを止めてくれるのは景綱だ)
と思っていたのである。
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■小早川隆景−すすんで不便な地に築城し危険を避ける

<本文から>
 毛利本家を守り抜こうとする隆景のナンバー2ぶりは、次のような話でも発揮された。それは毛利家の本城を広島に築いた時のことだ。毛利家の領土は、そのころ山陰山陽にわたって九つの国に広がっていた。石高は百二十万石に達していたという。そこで、どこに城を築くかが論議されたが、結局毛利家の出身地である広島にしようということになった。そのころ、この地域は広島と呼ばれていない。が、太田川の下流にある三角州の村に、城を築くことを隆景が提案した。当主の毛利輝元は、不満に思った。彼は、もっと山の上に大きな城を築きたかったのである。しかし、隆景は首を振った。
 「ここのほうがいいのです。いまにわかります」
といった。
 城の設計は黒田如水(官兵衛)が行なった。隆景が頼んだのである。如水はこの三角州を見て、ニヤリと笑った。そして隆景に、
 「さすがあなただ。鋭い」
 といった。ふたりのやりとりをきいても、毛利輝元にはなんのことかわからなかった。
 城ができると、朝鮮侵略を実行しょうとしていた豊臣秀吉が、九州に向かう途中で、広島城に立ち寄った。城好きの彼は、丹念にくまなく中を歩き回った。そして、帰りがけにこんなことをいった。
「建物はなかなか立派で美しいが、地の利が非常に悪いな。こんなところでは、おれの得意な水攻めにでも遭えば、たちまち落城してしまうぞ」
 うなずきながら秀吉のことばをきいていた隆景は、そっと秀吉の目の底を見た。つまり、秀吉が本気でそういっているのか、あるいは警戒心を持ちながらそういっているのか、確かめたかったのである。が、秀吉は得意そうだった。つまり、この城にはまったく警戒心を持っていなかったのである。隆景はホッとした。
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