童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          盛者の群像

■諸国の人民の気持を把捉

<本文から>
 「方策のロ−リング」
 を果敢に行った。つまり、現地で反対があり、あるいは悪いと判断したことは、次々と改めていったことである。これは改革全体を柔らかい発想で行ったと言える。
 そのことは、例えば郡司のポストを国造に与えたことからも窺える。これは従来の中小企業の責任者達を、そのまま新会社の役職者に登用したと言える。しかも、この役職には実利を伴わせた。というのは、従来の既得権を半ば認めたことである。既得権というのは、私有していた土地と人民の支配を認めたということだ。つまり、従来の富をある程度温存させたのだ。加えて、これに新会社の位階を与え、名刺の肩書きにさせた。これは、地方豪族の気持を大いにくすぐったことだろう。
 しかし、改新政府が地方家族の既得権を半ば認めたこと、同時に新会社の肩書きを与えたということは、本来は相反する。が、この矛盾する二つのことが、二つながら実現し得たということは、それまで地方家族に支配されていた人民達のつまり社員達の気持がどういうものであったかをものがたっている。つまり、地方家族の支配下にあった人民達は、理屈は判らないながらも、なんとなく従来の支配のされ方に抵抗を覚えていたのであろう。だから、現状不満や、新しい期待(ニーズ)に応えるものが、たまたまさし伸ばされた改新政府の手の中にあったということかもしれない。
 経営改革というのはいつでも同じで、単に経営者の思いつきや、あるいは、
 「改革こそ正義である」
 というような善悪観だけでは片がつかない。そういう底のない改革は必ず失敗する。やはり、改革される側の気分というものを、きちんと把捉していなければ成功しない。その意味では、改新政府の改革派達は、当時としてはかなり正確に諸国の人民の気持を把捉していたと言える。そういう、言わば、打てば響くような反応がなければ、経営改革はできない。改新政府がどんどんと大きく太鼓を叩けば、各地方の人民(あるいは家族の中にもいたかもしれない)が、どんどんと自分の鼓を打ち返す。つまり、大太鼓・小太鼓の共鳴があってはじめて経営改革は成功するのだ。
 だから、改新政府が改革に踏み切った時には、かなりこの太鼓の音が聞こえていたとみていいだろう。だからこそ、中大兄も蘇我入鹿を殺すというような行為に出られたのである。
▲UP

■破壊型、建設型、維持管理型

<本文から>
  一 破壊型
 二 建設型
 三 維持管理型
  に分けられる。
  この三つの型を、もっと砕いた言い方をすると、
 一は、新状況に適応できない古い体質や、死んでしまった体質を思い切って捨てることである。つまり、自己組織内に潜む古い部分を切って捨てるということだ。破壊の対象は、従って、ハード面では自己組織内にあるセクションであり、ソフト面では従業員の意識のことである。組織として、古いものを捨て、新しいセクショソを作る。そして、古い仕事をしている人々を新しいセクションに回す、ということである。
 この建設というのは、新しく起ってきた状況に適応するということである。新しく起ってきた状況というのは、もちろん、客側のニーズの変化を言う。そのために、新しいセクショソを作り、新しい意識をもってそれに応えていくということだ。
 三の維持管理というのは、組織である以上、その経営には連続性・継続性がなければならない。何もかも捨てて全部新しく変える、ということは、実際問題としてあり得ない。今まで守ってきた経営方法の中にも、充分対応していけるものがある。それを、大切にして、あくまでも、維持していくのが維持管理の型である。経常的な、ルーチソ仕事には、こういうものがたくさんある。改革を急いで、そういう過去の良いものまでも全部捨ててしまうのは即断である。
大化改新が、まがりなりにもうまくいったのは、この破壊・建設・維持管理の三位一体がうまくいったということに他ならない。何といっても、改革でカッコイイのは、破壊である。壊すということは人間の快感を呼ぶし、ま
た、それまで欝属していた怨念の発散対象として、破壊という行為は人間を喜ばせる。が、往々にして、図にのりすぎた破壊は、今までの良いところを壊してしまう。それだけでなく、
「壊すことが方法でなく、目的になる」
 ことがある。ということは、壊すことに熱中して、
「壊した後どうするのか?」
 ということを、全く考えないのだ。破壊後の構想をもたないで、破壊だけに終始する経営改革行為は、おうおうにして見られる。だから、壊してしまった後、瓦礫の山の上で何をどうしていいか途方に暮れる。歴史にもたくさんの事例がある。無計算のまま、壊すだけ壊してしまって、その後の建設に対する計画や構想を全くもたないから、その破壊行為だけが目立って、人々にそっぽを向かれてしまうような経営者がたくさんいる。歴史の上で、単発で終った反乱行為の多くはそういう頼だ。
▲UP

■後醍醐帝は僧兵を無意識に活用

<本文から>
 そして、この後醍醐帝の第一次親政は、元亨元年(一三二一)から元徳三年(元弘元年・一三三一)にかけてのほぼ十年間続いた。これに比べて、いわゆる「建武新政」あるいは「建武中興」と言われる帝の第二次親政は、僅か二年半にすぎない。帝が流された隠岐の島から京都に戻って、再び政治を開始した元弘三年(一三三三)から、延元元年(建武三年・一三三六)にかけての短い期間である。しかし、後世この第二次親政の方が喧伝されて有名になっている。が、後醍醐帝にとっては第一次親政の方が大きな意味をもっているのだ。またそれだけの実績もあった。
 もう一つ、第一次親政で面白いことがある。それは、帝が社寺勢力を放置したために、僧兵が育ったことである。この僧兵達は、何かあると御輿を担ぎだして強訴に及んだ。この強訴は必ず成功した。御白河法皇でさえ、
 「朕の思いのままにならないのは、鴨川の水と、さいころの目と、僧兵だ」
 と言ったその僧兵である。
 ややこじつけかもしれないが、この僧兵の強訴はどこか総会屋に似ている。どこかで企業のトップと連携をしながら、一見、恐怖を覚えさせるような行動にでるからである。その意味では、後醍醐社長は、充分にこの僧兵の動きを把握していて、無意識のうちに活用したということが言えるだろう。
▲UP

■日本の歴史は常に「経営権」を巡って上と下が争っている

<本文から>
 第一の尊氏の反乱は、彼の大敗で片がつく。前に書いたように、九州に下った彼はすぐ捲土重来の勢いで都を落し、遂に北朝を成立させる。後醍醐帝は都を落ちて、奈良に入りそこで南朝を開く。しかし、力関係は誰の日にも明らかであった。やがて足利尊氏の孫、義満の時代になって、南北朝は合一する。しかし、今の天皇が北朝系であることは歴然としている。南朝は滅びた。つまり後醍醐帝の王朝は滅び去ったのである。それを悼んで、江戸時代に水戸光圀が、『大日本史』を書き、南朝正統論を展開したのは有名だ。また、明治になって南北朝論が論議の対象になり、北朝を支持した学者や政治家が次々と追われたのも有名な事件だ。が、考えてみればこれはおかしい。と
いうのは、明治天皇自体が北朝出身であり、現天皇も北朝の出であるからだ。南朝を正統とし北朝を擁護する政治家や軍人達は、一体何を考えていたのだろうか。
 足利尊氏が開いた足利幕府は十五代で消滅する。消滅させたのは織田信長である。なぜ織田信長が足利幕府を消滅させたのか?
 それは、足利将軍家がいつの間にか武士の本分を忘れ貴族化していたからである。源頼朝は、決して京都に拠点を構えなかった。支店は設けたが本社はあくまでも鎌倉に置いていた。京都というのは武士にとって魔の都である。武士が貴族化すると必ず堕落する。堕落するということは、武士経営者としての本念を忘れてしまうということである。それは、部下の生活を保障する責務を忘れ、事業経営の公共性を忘れるということである。平滑盛や、木曽義仲や、源義経はそのいい例であった。そして、足利将軍家もこの誤ちを犯した。下克上の理念に燃える織田信長は、経営権の下降はそのまま歴史の法則だととった。一地方豪族の出身である彼が、将軍家を廃して武家政権を確立するきっかけを作ったのは、さながら足利尊氏が関東の一豪族から出て天下をとったのと同じ文脈をもっている。
 ということは、太古以来、日本の歴史は常にこの、
 「経営権」
を巡って上と下が争っているということだ。そして、一時は上がこれを取り戻すことがあっても、結局は下降する。つまり、
 「水は低きに流れいく」
なのである。川と同じなのだ。一時、海水のあまりが川の水を逆行させることがあっても、しかし、それはやがて自然の法則に従い、水は低い方へ流れる。それが歴史の鉄則である。主権あるいは経営権についても同じである。
▲UP

■尊氏兄弟の争いから泥沼状になった

<本文から>
 考えてみれば、
 大化改新も、
 「地方豪族の手から、天皇の手に経営権を取り戻す変革」
 であり、建武新政も、
 「武士の手に渡った経営権を、再び天皇の手に戻す運動」
 であった。そして、一時期はそれが実現する。しかし、また経営権はどんどん下降してしまう。つまり水は低きに流れゆくという歴史の原則に従ってしまうのだ。明治維新も、結局はこの、
「武士の手に移っていた経営権を、もう一度天皇の手に取り戻そう」
 という運動である。だから、明治維新が別の言い方で、
「王政復古」
 と呼ばれるのもそのためだ。一学者や一志士達が当初唱えたこの主張が、学者や志士がグループを作り、朝廷や有力大名に働きかけをすると、意外なことに、この諭に賛同する者がたくさん出てきた。というのは、当時幕府の外国への対応策がゆきづまっていて、壁にぶち当たっていたからである。そこで一種の精神主義が治頭し、その精神主義は天皇に帰一した。そして、見果てぬ夢ではあったが、一挙に、
「ここで、幕府よりも、天皇の政府を作った方が、対外政策も打開できるのではないか」
 と考えたのである。天皇を中心にする対外政策というのは、はっきり言えは鎖国の続行である。撰夷というのは日本に近づく外国を全部打ち払って、相変わらず国を閉じたままの姿勢を貰こうということだ。歴史の流れに逆行する考え方なのだが、考えている方は本気で考えていた。
 もう一つ、世の中の人々というのは、どちらかというと、
 「判りにくい論よりも、判り易い諭」と、
 「威勢の悪い論よりも、威勢のいい論」
に傾むく。つまり、判り易くて威勢のいい論議に付和雷同する癖がある。この時も同じだった。尊皇演奏論は、実に勢いが良かった。そのことが、では、一人一人の市民にとって、どういう生活上の利益がもたらされるか、ということは考えなかった。というのは、当時の世論を指導するいわゆるオピニオンリーダーには、まだまだ一般の市民が参加するまでには至らなかったからである。
 ある程度財力があり、あるいは学力がなければ、世論の指導者にはなれなかった。日本人の大部分はまだ文盲である。ろくに字も読めないし、字も書けなかった。だから、そういう層に語りかけるのには、やはり判り易く、しかも景気のいい議論でなければならない。尊皇壌夷論は、日本の国論を真二つに割り、一大勢力を築きあげた。
 そうなると、今迄馬鹿にしてきた京都朝廷のカが再び蘇り、無視できないものになってきた。京都朝廷は、単なる日本の古文化の保持者ではなくなったのである。政治の前面に出てきた。そして、それを利用する実力者も出てきた。こういう現象が起ると、すばしこい連中はたちまち京都に押しかける。拠点を設ける。それが各大名の京都支店の設置である。つまり京都藩邸を設けることであった。
▲UP

■無視できない怒りの怨念パワー

<本文から>
 このことは、現代の企業経営にも、しばしば起る現象ではないだろうか。単に政治の面からだけ見れば、ああそうかと簡単に済んでしまういきさつも、実は経済や経営というどろどろした面から見れば、はるかに人間の苦労がそこに浸み込み、今日の私達に多くの教訓を与えてくれる。
 島津重豪による調所笑左衛門の重用は、強い人間的信頼に結びついていた。調所が二十数年にも亘って、非難轟々たる中でその改革を実施し得たのも、生前、死後を通じて重蒙の支持が、彼の背後にあると思えばこそ、彼はあくまでも自分の考えを貫き通し得たのである。そういう彼には誰も手出しはできなかった。しかし、島津斉彬は、
 「日本に共和政府を樹立するためには、自分が薩摩藩主にならなければならない。そのためには、調所笑左衛門一派を粛清しなければならない」
 と考えた。斉彬の、この頃の行動には、多分に謀略的なところがあり、自らことを構えて調所を陥れるようなことも、しばしはしている。また、そういうことも書いている。しかし、その彼もさすがに、
「今日、自分がこれだけの開明政策がとれるのも、結局は調所達が行った天保の改革によるところが多い」
 ということは率直に認めている。また、調所笑左衛門の人間についても、
「他の人間は、とるべきところがない悪人だが、調所だけはやはり一種の器量人である」
 ということも認めている。
 維新のような大事業が、僅かな人間で成し遂げられることはあり得ない。これは、大化の改新にせよ、建武の新政にせよ、それを推進した人間はもちろんだが、それ以上に、その時代の空気を形成した多くの人々のニーズがものを言った、ということは何度も書いてきた。明治維新も同じである。明治維新が成功したということは、当時の日本に、
 「そういう経営を期待する人々」
 が、たくさんいたからである。だからこそ、その後、明治新政府に対し、
 「新政府は、我々の期待を裏切った」
 と抗議し、糾弾する層が輩出した。それは、あるいは自由民権運動となり、あるいは反乱となった。西潮隆盛の士族の反乱もその一つである。
族階級にとどめたいということに他ならないのであって、民衆への下降という歴史の流れをとどめた。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ