童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
 「左遷」をバネにする生き方  勝機をつかんだ知将・闘将の"自己変革"の方法

■勝海舟の復活は捨て身の態度にある

<本文から>
 彼は再び旧幕府に呼び出される。そして、徳川慶喜から、「官軍に恭順の意を表して、江戸を焼かれないようにしてほしい」と頼まれる。海舟に再び出場が来たのだ。歴史的シーンの登場である。海舟は、この大任を全うした。見事に敗者は復活した。それは、旧友の西郷隆盛が、官軍の総参謀になって来た、ということも幸いした。しかしそれだけではない。勝海舟も、また時代の流れに対していさぎよかった。先読みの利く彼は、自分の出場と、そうでないことをよく知っていた。だからポストに恋々としなかった。
 元治元年に、クビになった時には、
 「二度と、俺の出場はない」と思ったかも知れない。だからこそ、西郷に、秘密を漏らし、あなた方の手で幕府を滅してくれなどといったのだ。しかし、時代は、彼に再び登場を求めた。敗者は復活した。
 しかし、勝に敗者復活のきっかけを与えたのは、単に歴史的情況だけではない。彼自身の物の考え方にもあった。彼自身の物の考え方で、その基礎になったのは、意外なことに剣術である。彼は剣の達人だった。そして禅も学んだ。度胸が座っていた。彼が終始一貫していい続けたのは、
「いつでも、死ねる覚悟をしてさえいれば、怖いものはない」ということであった。だからこそ、彼は、それまでの日本人には珍しい磯密漏洩や内部告発をしてまでも、平然と生き続けた。もし、そのことがバレて、腹を切らせられるならば、いさぎよく腹を切ろう、と心底思っていたからである。この、いわば、「捨て身の態度」が、彼を何度も危地から救ったといっていい。勝海舟もまた、
「決して自分を安売りはしない」というタイブの人間である。桂小五郎に似ている。そして、勝の自信を支えていたのは、自分の外国の情況に対する知識の深さである。しかも、それを単に知識として扱ったのではなく、実施したということだ。日本最初の商船大学といってもいい兵庫神戸の海軍操練所の創設は、今までの歴史になかったことである。そういう事業を、彼は成し遂げたのだ。そして、多くの人材がそこから育って行った。その人材たちは、もう幕府のためだとか、天皇のためだとかという思想を捨てていた。そうではなくて、
「日本のために」育っていったのである。勝は、満足だった。吉田松陰は、自ら一粒の麦になることによって、多くの人材を生んだ、勝は、さらに実行者であった。もちろん教育者として勝の方が優れているとはいえない。しかし、勝は、あくまでも実践する人間として、精一杯努力した。明治以後の日本は、彼の思う通りの国に変わっていったといっていい。
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■桂小五郎の復活は「俺の出番が来る」という意思を持ち続けたこと

<本文から>
 「桂は、池田屋事変には遅刻し、禁門の変にも参加しなかった。大事な時にはいつも逃げる男だ」と噂された。卑怯者のレッテルが、桂小五郎に貼られた。幕府は、しかしその卑怯者の桂を依然として狙っていた。故郷に帰ろうにも、故郷では卑怯者として迎え入れてくれない。この頃の桂は、正に身の置き所がなかったのである。その彼が、敗者復活の扱会を掴んだのは、実は親友の高杉晋作の友情による。
 長州藩の政府は、いつも保守派と革新派が交替で政権を奪いあっていた。高杉晋作は革新派である。彼自身も、保守派が政権を取った時は、やはり追われて、四国に亡命したりしているが、そのつど戻っては、自分の勢力を挽回した。禁門の変後、長州藩は、保守派によって政権が握られ、禁門の変に参加した連中及び、過激派は、全部罰された。窓際に追いやられたのである。その意味では、たとえ卑怯者のレッテルがなくても、桂小五郎が長州藩に帰ってもポストがなかった。保守派は、桂も狙っていたからである。第一次長州征伐では、幕軍は、
 「桂小五郎と高杉晋作を引き渡せ」と要求した。桂は指名手配中だった。ところが、さすがに長州藩の保守派も桂たちを引き渡すことは出来なかった。高杉晋作は亡命させられ、また、桂は、
 「彼は戦死しました」と報告された。本心は、長州藩の保守派も、桂のような男は死んでしまってくれた方がいい、と思っていた。
 やがて、戻ってきた高杉晋作は、クーデターを起し、藩庁から保守派を全部追い払う。が、彼は、腹心の伊藤俊輔(博文)にこういった。
「俺は破壊者だ。だから古い体制を崩すのには向いているが、新しい体制が出来て、その体制を維持するような政治は苦手だ。これから長州藩の政治を執るのは、桂小五郎以外ない。捜して、おまえが連れてこい」。
 鼻の利く伊藤俊輔は、やがて桂小五郎が但馬出石に潜んでいることを知った。そこで、出石にやってきた。
 「桂さん、長州に戻ってください」と頼んだ。長州藩の空気は、桂小五郎に必ずしも好意的ではなかったが、高杉晋作の押えがきいた。「小さなことに拘るな。日本のことを考えて、桂に政府を任そう」
 桂は、高杉たちの期待に答えた。彼は、どちらかといえば破壊看ではなく、創造建設者であり、また維持管理者だった。政治家のタイブでいえは、高杉晋作は織田信長であり、伊藤俊輔は豊臣秀吉であり、桂小五郎は徳川家康といっていいだろう。そういう老檜な落ちつきが桂にはあった。しかし、桂小五郎の名で政府のポストに着く訳にはいかない。というのは、幕府に対して、政府が慨に、
 「桂小五郎は戦死してしまいました」と報告していたからである。そこで、桂は名前を変えた。木戸貫治、後に木戸準一郎と名乗る。さらに木戸孝允と変える。桂小五郎はこの段階で完全に死んだのである。新しい木戸ナニガシが生まれた。
 桂小五郎すなわち木戸孝允の、敗者復活ぶりを振り返ってみよう。彼は、徹底して、
 「自分の出番を待っていた」といえる。どんなに厳しい情況に置かれても、慌てたり、狼狽することをしなかった。じっと、社会の流れを見つめていた。その意味では、
 「社会の動き、つまり、世の中の潮流」を見抜く鋭いカを持っていたといっていい。この辺は、徳川家康によく似ている。家康も、どんな厳しい情況に置かれても決して保てなかった。
 「やがては、俺の出番がくる」と信じていた。桂小五郎も同じである。そういう点で、
 「自分を信じる気持」が強かったといっていい。それは、逆にいえば、
 「決して自分を安売りはしない」ということでもある。己を信じる心が、他人に比して、かなり強かったのである。これが成功した。彼の敗者復活のきっかけは、この、
 「自分の出番を待ち続ける」という一年間の亡命期間にあったといっていい。それは、かつて、″志士のチャンピオン″とか″長州藩の星″と呼はれた大スターが、いきなり、一介の乞食に転落し、無名の亡命者に成り下ってからも、彼は、そういう境遇に属しなかった。頭を抱えこみもしなかったし、また落ち込みもしなかった。じつと、時世の流れを待っていた。そして、
 「必ず、俺の出番が来る」という意思を持ち続けていた。勿論、彼の復活には、親友の高杉晋作が手を貸して、彼のために主役の脚本を書き、また上演する舞台を用意してくれた、ということもいえるだろう。が、またそうさせる何かが桂小五郎自身にあったことも事実である。つまり、桂小五郎は、依然として、「長州薄が求め続け、また日本が求め続ける人物の一人」であったことは確かなのだ。そういう自覚が、彼にあった。自覚というのはどんな窮境にも負けない、自分を信じるという心のことだ。
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■水野の復活は自己変革にある

<本文から>
 とくに、その中でも水野は警戒心を強め、
 「日本の国力を強め、海防力を強めるためには、外国の知識や技術をどんどん導入しなければ駄目だ」といっていた。そして、それに共感する学者たちは、外国の学問を学んだ。ところが、水野の改革路線は、必ずしもこういうものを歓迎するものではない。とくに、かれの下で、江戸町奉行を勤めていた鳥居という男は、国学者の家に生れたので、外国の学問を徹底的に嫌った。そして、外国の学問を勉強している連中を弾圧してしまった。本当なら、そういう弾圧を水野は避けるべきだった。しかし、そこが、かれの改革への意欲のほうが先にたって、この弾圧を認めてしまったのである。趣旨からすれば矛盾しているのだが、やむを得なかった。
 水野が復活したのは、この矛盾を自分の手で解きほぐしたということだろう。つまり、改革時には矛盾していたことを、きちんと分類して、自分の本来に戻ったということである。改革の方針と、国を守るという方針とは明らかに食い違っていた。そこで、敗者復活戦には、水野は、この国を守るという方針だけに徹したのだ。そして、改革に対する意欲を捨てた。それはそれで失敗して、かれは罰を受けている。市民のツブテを浴びるというすさまじい罰だ。そのことを、かれは謙虚に反省した。だから、
 「ガラに合わないことはやめる」という態度をとったのである。これはいわば一種の自己変革といっていいだろう。つまり、
「ガラに合ったことだけを行なおう」ということに、自分の気持ちを集中したのである。はやくいえは、座標軸を変えたといっていい。そういう自己変質を遂げていたのだ。それが成功した。かれは国防問題の第一人者として徳川幕府の老中に返り咲き、その面での特別大臣になった。もちろん、かれがとった海防策はその後の日本を守り得るようなものではなかったが、それにしても、この時期に、そういう観点で政治を行なっていた政治家がいたということは、徳川幕府にとっては大きなカであった。水野の敗者復活は、
 「自己内部における矛盾点を解明して、ひとつにしぼった」という自己改革によって行なわれたのである。
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■日蓮の勝因は大衆に語りかけたこと

<本文から>
 日蓮の勝因は、辻説法である。権力者にコネがなく、有力者の庇護も受けられない日蓮は、大衆に直接訴え、大衆の支持をば得ようとしたのである。
 この戦法は成功した。長い年月をかけて、日蓮の主張は徐々に大衆の間に浸透していった。
 漫透した理由は、日蓮の予言が的中したからである。内乱の予言は、北条時宗・時輔の異母兄弟間の争いという形で、外敵侵入の予言は歪という形で、いずれも現実のものとなった。
 日蓮はまた、雄弁でもあった。いや、録音が残っているわけではないので推測するほかないが、次のような手紙を書く人の演説が、人の心を打たぬわけはない。自分が佐渡に流されようとする前後、は土牢にいる弟子にあてた手続である。
「日蓮は、明日佐渡の国へまかるなり、今夜の寒さにつけても、ろう(牢)のうちのありさま思ひやられて、いたはしくこそ候、(中略)ろうをは出でさせ給ひ候はば、とくときたり給へ、見たてまつり、見たてまつらん」
 さらに日蓮の、いくら迫害を受けても屈せずに立ち上がり、石つぶてによって額に血を流しながらも大きな声で辻説法を続ける不撓不屈の雄姿が鎌倉武士の共感を呼んだという側面もある。
 京都遊学中の弟子にあてた手紙で、
「東国の田舎の僧だということにひけ目を感じる必要もない。言葉は田舎言葉といわれても東国の言葉でいるがよい」
 と日蓮は説いている。この精神は、京の天皇政府と対抗する鎌倉武士たちの心に訴えたに違いない。
 日蓮は、辻説法という大衆に対する直接話法による世論喚起によって、自らの身を守ったばか"
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