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<本文から> 彼は再び旧幕府に呼び出される。そして、徳川慶喜から、「官軍に恭順の意を表して、江戸を焼かれないようにしてほしい」と頼まれる。海舟に再び出場が来たのだ。歴史的シーンの登場である。海舟は、この大任を全うした。見事に敗者は復活した。それは、旧友の西郷隆盛が、官軍の総参謀になって来た、ということも幸いした。しかしそれだけではない。勝海舟も、また時代の流れに対していさぎよかった。先読みの利く彼は、自分の出場と、そうでないことをよく知っていた。だからポストに恋々としなかった。
元治元年に、クビになった時には、
「二度と、俺の出場はない」と思ったかも知れない。だからこそ、西郷に、秘密を漏らし、あなた方の手で幕府を滅してくれなどといったのだ。しかし、時代は、彼に再び登場を求めた。敗者は復活した。
しかし、勝に敗者復活のきっかけを与えたのは、単に歴史的情況だけではない。彼自身の物の考え方にもあった。彼自身の物の考え方で、その基礎になったのは、意外なことに剣術である。彼は剣の達人だった。そして禅も学んだ。度胸が座っていた。彼が終始一貫していい続けたのは、
「いつでも、死ねる覚悟をしてさえいれば、怖いものはない」ということであった。だからこそ、彼は、それまでの日本人には珍しい磯密漏洩や内部告発をしてまでも、平然と生き続けた。もし、そのことがバレて、腹を切らせられるならば、いさぎよく腹を切ろう、と心底思っていたからである。この、いわば、「捨て身の態度」が、彼を何度も危地から救ったといっていい。勝海舟もまた、
「決して自分を安売りはしない」というタイブの人間である。桂小五郎に似ている。そして、勝の自信を支えていたのは、自分の外国の情況に対する知識の深さである。しかも、それを単に知識として扱ったのではなく、実施したということだ。日本最初の商船大学といってもいい兵庫神戸の海軍操練所の創設は、今までの歴史になかったことである。そういう事業を、彼は成し遂げたのだ。そして、多くの人材がそこから育って行った。その人材たちは、もう幕府のためだとか、天皇のためだとかという思想を捨てていた。そうではなくて、
「日本のために」育っていったのである。勝は、満足だった。吉田松陰は、自ら一粒の麦になることによって、多くの人材を生んだ、勝は、さらに実行者であった。もちろん教育者として勝の方が優れているとはいえない。しかし、勝は、あくまでも実践する人間として、精一杯努力した。明治以後の日本は、彼の思う通りの国に変わっていったといっていい。 |
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