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<本文から>
大塩への三人の奉行の接触の底には、決して愛情はなかったのである。そう思うと、大塩は問題児としての自分が、三代かかつて巧妙に潰されたことが、ひとつの流れとして、いま、はっきりと認識できるのである。初代の高井は「何もわからぬ、すべて先生に任せる」といった。二代目の矢部は「私はこういうことをしたい、いい知恵はないか」とよくいった。三代目の跡部は「自分でやる、おまえの手は借りない」といった。考えてみれば、代がかわるに応じて、全面委任、補完委任、全面拒否と辿っている。三人の奉行は決して大塩を潰すための相談をしたわけではなかったが、大塩からみれば自分の扱いに連続性、継続性がみられる。悪らつだ、と大塩は歯がみした。そして、(特に初代の高井様が一番悪らつだ)と思った。
高井は高齢であつた。「私はこの職で定年になる。最終の職場でおまえを知ったことは幸せだった。どうか最後まで見捨てずに頼む」といった。いま思えば(あのジジイ)と腹が立つ。そして高井がさらに悪らつだったのは、大塩を人事で釣ったことだ。「おまえのような優秀な人材を、幕府はなぜ登用しないのか。ツテを使って必ず私が直参にしてやる」と始終いっていた。そして、喜べ、ご老中の大久保忠実さまが、おまえの登用を閣議ではかられたそうだ、とか甘い情報を間断なく伝えた。
そして、高井自身退職の日、「例の話が煮つまりつつある。そこでどうだろう。この際、私と一緒に退職して身を軽くしておいたら。そのほうがご召命があつたときに、すぐ江戸に行ける」。
親身な高井のことばに、大塩は一も二もなく職を退き、隠居した。そして江戸からの召命を今日か明日か、と待ち続けた。そのうちに高井は死んでしまった。直参への熱はさめた。しかし、そのときの大塩は「不運だったのでうまく行かなかつたのだ。しかし、高井様は誠心誠意自分のために努力して下さったのだ」と信じた。
が、いま思いかえせば、一体、高井はどこまでその話を江戸へ進達したのだろう。そもそも地方の町奉行所役人が、江戸の幕府へ登用されることなどありうる話なのか。
(だまされたのだ)大塩は直感した。そういうオイシイ話に釣られて、与力の職を棒にふってしまったのだ。老猪な高井の策略で退職させられてしまった。跡部はしきりに言う。「おまえは退職した身ではないか。もう仕事に口を出すな」と。その下地はすでに高井のときに作られていた。何というお人好しだったのだろう、と、大塩は改めてホゾをかむのであつた。そして中央政府の官僚たちの、年齢の高低にかかわりのない共通するおそろしさに、いまさらながら、身をふるわせた。
高井は幕府登用というエサで釣って大塩を現役から退け、矢部はその後遺症を少なくするために、緩衝剤として大塩を現役同様に待遇し、跡部のところでプッツリ絶つ。何と気のそろった巧妙な問題児潰しであつたろうか。
(そういう非情な幕府はゆるせない)地方役人の意地をみせてやる、大塩の反乱動機には、窮民救済とダブッて、そういう人間的なものがあったはずである。跡部はその点、正直だった。老猪でなかったため、大事件をひきおこした。
しかし、反乱した大塩は、むしろ単純率直な跡部をそれほど憎んではいなかった。彼がもっとも憎んだのは高井であった。その次が欠部であつた。 |
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