童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          さらりーまんで候

■三代の巧妙な大塩平八郎潰し戦略

<本文から>
  大塩への三人の奉行の接触の底には、決して愛情はなかったのである。そう思うと、大塩は問題児としての自分が、三代かかつて巧妙に潰されたことが、ひとつの流れとして、いま、はっきりと認識できるのである。初代の高井は「何もわからぬ、すべて先生に任せる」といった。二代目の矢部は「私はこういうことをしたい、いい知恵はないか」とよくいった。三代目の跡部は「自分でやる、おまえの手は借りない」といった。考えてみれば、代がかわるに応じて、全面委任、補完委任、全面拒否と辿っている。三人の奉行は決して大塩を潰すための相談をしたわけではなかったが、大塩からみれば自分の扱いに連続性、継続性がみられる。悪らつだ、と大塩は歯がみした。そして、(特に初代の高井様が一番悪らつだ)と思った。
 高井は高齢であつた。「私はこの職で定年になる。最終の職場でおまえを知ったことは幸せだった。どうか最後まで見捨てずに頼む」といった。いま思えば(あのジジイ)と腹が立つ。そして高井がさらに悪らつだったのは、大塩を人事で釣ったことだ。「おまえのような優秀な人材を、幕府はなぜ登用しないのか。ツテを使って必ず私が直参にしてやる」と始終いっていた。そして、喜べ、ご老中の大久保忠実さまが、おまえの登用を閣議ではかられたそうだ、とか甘い情報を間断なく伝えた。
 そして、高井自身退職の日、「例の話が煮つまりつつある。そこでどうだろう。この際、私と一緒に退職して身を軽くしておいたら。そのほうがご召命があつたときに、すぐ江戸に行ける」。
 親身な高井のことばに、大塩は一も二もなく職を退き、隠居した。そして江戸からの召命を今日か明日か、と待ち続けた。そのうちに高井は死んでしまった。直参への熱はさめた。しかし、そのときの大塩は「不運だったのでうまく行かなかつたのだ。しかし、高井様は誠心誠意自分のために努力して下さったのだ」と信じた。
 が、いま思いかえせば、一体、高井はどこまでその話を江戸へ進達したのだろう。そもそも地方の町奉行所役人が、江戸の幕府へ登用されることなどありうる話なのか。
(だまされたのだ)大塩は直感した。そういうオイシイ話に釣られて、与力の職を棒にふってしまったのだ。老猪な高井の策略で退職させられてしまった。跡部はしきりに言う。「おまえは退職した身ではないか。もう仕事に口を出すな」と。その下地はすでに高井のときに作られていた。何というお人好しだったのだろう、と、大塩は改めてホゾをかむのであつた。そして中央政府の官僚たちの、年齢の高低にかかわりのない共通するおそろしさに、いまさらながら、身をふるわせた。
 高井は幕府登用というエサで釣って大塩を現役から退け、矢部はその後遺症を少なくするために、緩衝剤として大塩を現役同様に待遇し、跡部のところでプッツリ絶つ。何と気のそろった巧妙な問題児潰しであつたろうか。
 (そういう非情な幕府はゆるせない)地方役人の意地をみせてやる、大塩の反乱動機には、窮民救済とダブッて、そういう人間的なものがあったはずである。跡部はその点、正直だった。老猪でなかったため、大事件をひきおこした。
 しかし、反乱した大塩は、むしろ単純率直な跡部をそれほど憎んではいなかった。彼がもっとも憎んだのは高井であった。その次が欠部であつた。
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■田沼詣でをやった自己嫌悪がエレルギーとなった松平定信

<本文から>
 田沼があいまいな返事しかしないので、焦立った。そこでこんなことをいった。「私は今日まで清潔な生きかたを大切にしてきました。こちらへお伺いするのにもかなりの勇気がいりました」。
 (それがどうした、そんなことならくるな。おれがこいと頼んだわけじゃない)田沼は胸の中で反発する。
 「これからも、そう幾度も伺えないと思います。何しろ目に立ちますので」。(きびしさが足りないよ、名門意識がチラチラしすぎる。自分を特別な人間だと考えすぎているのではないのか)。「ですから、できれば今日、明るいご返事をいただいて帰りたいのです」(それがおしっけがましいというのだ。老中にそうそう簡単になれるか。たった一度、それも佃煮か何かプラさげてきやがって、尊大な態度で、さあ、老中にしろ、というバカがあるか。おまえは大体、民情を知らない、人間を知らない。政治は沼の中のナマズがおこなうのだ)。
 田沼はそんなことまで胸の中でつぶやいていた。定信の猟官運動に、この日の田沼は、柔かい態度ではあったが、芯は非情で対した。田沼自身の政治観と定信の政治観は根本的に違っていたし、もっと田沼の心境に即していえば、(この若者は苦労が足りない、観念で政治を考えている)ということであった。名門の貴公子が、身を屈しての猟官運動に、色よい返事をしなかった田沼に、この日、定信は手ひどく面子を潰された。そしてそれは田沼への深い遺恨となった。
 その後、松平定信は待望の老中になった。しかし田沼の推挙によってではなかった。田沼を寵愛していた将軍が死んだからである。政変が起こった。三十歳の青年首相松平定信は、人事異動で田沼派を一掃した。このときに罷免した高級官僚は数十人におよび、中には死罪になった者さえいた。
 中でも、田沼意次に対する処分は過酷をきわめた。将軍の死とともに、田沼は老中を免ぜられたが、それだけですまなかった。定信は口をきわめて田沼の汚職腐敗政治をののしった。田沼は追い討ちをかけられ相良(静岡県)二万石を没収された。江戸にあった邸もすべて没収された。さらに失政ありとして蟄居させられた。悠々自適どころのさわぎではない。孫の意明にかろうじて一万石くれたが、領地は東北と越後の飢饉地だった。
 松平定信は、若い日に、血気にはやって田沼詣でをしたことを深く後悔していた。あの事件は、自分の半生についた大きなシミであつた。定信は何とかしてそのシミを落としたかった。揉んで消したかった。しかし、あの日にあまりにも多くの人間に見られていた。
 しかも、あの日に定信が味わったのは大きな屈辱であつた。田沼は柔かい態度ではあったが、手ひどく定信の面子を潰した。顔を鉛色にし、眼をつりあげて田沼の邸を出た定信は(必ず、この屈辱を返す)と心に誓った。定信が老中になっておこなったのは、人事から田沼派を一掃しただけではない。田沼がおこなった政策を全部否定した。田沼とはまったく逆な政策を展開した。
 それは、一度でも田沼詣でをやった自身への自己嫌悪と、それを増幅するあの日の屈辱感がエネルギー源になっていた。田沼への怨念がドロドロと流れていた。即ち、寛政の改革は、潰された面子、屈辱感からの報復″であった。が、これは所詮私心だ。そのために、定信の改革は失敗した。国民は「澄んだ白河より、もとの濁った田沼が恋しい」とさえいった。
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■名君から狂人にされた水野忠辰

<本文から>
 そして、さらに四年後、忠辰は完全に孤立した。脇にいた側近たちが、「この殿さまは少し本の読みすぎで頭デッカチだ。いつまでもそばにくっついていると重役たちににらまれて、子孫までひどいめにあう」と思いはじめたからである。早くいえば、忠辰は眼高手低≠ナ、理念的改革を急ぎすぎたのだ。短兵急にすぎた。
 「自分がいいと思うことは、他人もいいと思うはずだ」という、理想家にありがちなあやまちをかれも犯した。
 忠辰の下す指示は側近のところで温められ、藩庁にも届かなくなった。しまいには側近も冷笑、蔑笑で指示をうけとった。そしてそうなればなるほど、忠辰はイキリ立ち、下す指示はいよいよ理念的に尖鋭化し、それだけ現実から遊離した。そうなった忠辰を、心から支える人間もひとりもいなくなった。
 忠辰は女に溺れるようになった。それも町に出て、公然と遊興をはじめた。生母が何度も諌めたが、きかなかった。生母はついに遺言を書いて自害した。それでも忠辰はドンチャン騒ぎを続けていた。
 宝暦一年(一七五一)の冬、今日も遊びに出ようとする忠辰は、突然、重臣三人に組みつかれ、刀をとられてそのまま座敷牢にほうりこまれた。重臣たちは、「藩主発狂、相続人には養子をお認め下さい」と幕府に届け出て、多額なワイロを贈って危機を切りぬけた。
 座敷牢の中からは、毎日、「私が何をしたというのだ。それほど悪いことであつたのなら、なぜ、ひとりでもいい、ひとことでもいい、私を諌めてくれなかったのだ」という忠辰の悲痛な叫びが聞こえ続けた。
 彼の放埒は生母が何度も諌めているのだから、叫びはそのことではあるまい。かれの政治のとりかたのことをいっているのにちがいない。しかし、家中は冷然と忠辰の叫びを聞き流した。旗本水野平十郎の子忠任を養子に迎えて、整然と藩政を行っていった。
 水野忠辰の悲劇は、かれが″藩主機関説″に利用されたことに気づかなかったことである。それまでの不満分子が忠辰を機関として自分たちのやりたいことをさせた。が、実行過程で、忠辰を操るグループは、忠辰が理想デッカチで、かなり現実性を欠いていることに気がついた。敏い係長層はたちまち、忠辰を放棄し、去って行った。その点、重臣群のほうがまだ誠実であつた。かれらはかれらなりに、水野家をつぶさない対策を考えた。そして実行した。
 非情、といえばどっちが非情だったのだろうか。係長層はひとことでいえば藩主を利用し、そして使い捨て、自分たちは再び潜在不満層のゾーンに戻って行った。こういう層の存在はいつの時代でもどこか不気味である。
 悲劇の主因は、しかし、本の中から政治を考えた忠辰の非現実性にあつたのかも知れない。
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■幕府の統制乱すと使い捨てられまい派≠フ標的になった大久保長安

<本文から>
 徳川幕府草創期は、駿府(静岡)にいる家康とそのブレーン、江戸にいる将軍秀忠とそのブレーンとによる二元立体的政治だった。ところが、このプレーン同士で焼烈な権力闘争を始めた。いきおい、駿府は駿府で、江戸は江戸で、ブレーンたちは結束した。こうなると家康は「そんな馬鹿なことはやめろ」とはいわない。ニヤニヤ笑いながら黙ってみている。家康は自分の足もとで、能臣たちが死力をつくして争い、力つきた者が自滅して行くさまをみるのが大好きだ。いずれ使い捨てる者が自分からほろんでくれたほうが手がかからなくていい。闘技場の死闘を観るネロのような心理が家康にはある。ところが、武功派と吏僚派という形で展開された、このプレーン同士の死闘に、大久保長安だけは加わらない。長安は「おれは家康公のために仕事をしているので、幕府のために仕事をしているのではない」とうそぶき、自分の判断でどんどん佐渡の鉱山などをひらく。これには駿府派も江戸派も目をむいた。共に、長安がひとりだけ勝手なことをしているように思えたのだ。
 大体、反徳川牢人を使ったり、華美な町づくりをしたり、あまつさえ鉱物の利益を勝手に分配したりするのは、幕府の統制を無視し、さからうものだという見方が強まった。官僚組織は統制に服さないものを憎む。憎むだけでなく、潰しにかかる。大久保長安は、期せずして駿府・江戸両派ブレーンの共同の標的とされてしまった。特に外国人宣教師との交流が、強い疑惑の眼でみられた。
 しかし、なぜか長安は生きているうちは反攻をうけず、死んだ直後から大弾圧をくらう。長安は慶長十八年(一六三四月二十音、徴毒で死んだ。死ぬ時、「おれの遺体は金の棺に納め、甲州で盛大な葬儀をおこなってくれ」と遺言した。が、長安の死の数日後、家康はその葬儀の中止を命じた。理由は「生前に反逆の陰謀があつた」ということである。生前の反逆の陰謀とは、「ポルトガル国と組み、幕府を転覆させようとした」ことだという。考えられないことだが、これには連累者がいて、幕府転覆軍の総大将には、家康の第六子忠輝の名や、長安に大久保の姓を与えた武功派の総帥大久保忠隣などの名もあった。
 忠隣は改易、長安と親交のあつた大名旗本もそれぞれ切腹や改易の罰をくらった。そして、長安の子七人は全員切腹させられたり、殺害されたりした。
 結果として、この事件は幕府新官僚(文官)の、旧官僚(武官)ぼく滅の意図から起こった。
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■幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画

<本文から>
 政権が不安定なとき、政権の座にある者がもっとも気にし、嫌がるのは批判だ。何をいっているかを気にし、誰がいっているかを気にする。この時代は、浪人問題だけでなく、庶民の感情も不安定で、幕閣は日夜その波立ちに神経を使っていた。
 中根正盛は、こういうときにこそ自身の職務が活用されるべきであり、それは、絞って幕政批判の根を絶つことだ、と思っていた。その意味では、いわゆる忍びの者中心の隠密活動とは一線を画していた。
 (おれの仕事は政治そのものだ)という自恃のきもちをもっていた。だから配下の与力たちにも、いつも、「幕府のためである。大名の腐臭・腐肉を探り出すことでおのれを卑しむな。むしろ誇りをもて」と激励していた。
 おれとおれの配下の廻国者で組織している隠密機関は、甲賀者や伊賀者などの、忍びの技術を主体とする諜報活動者よりも、はるかに高度で知的なものだ、という自信をもっていたのである。それは、忍びの者たちの将軍への私的接続とはちがって、幕閣という政府組織の一角に、はっきり機関≠ニしての位置づけがある、と信じていたからである。
 松平定政の処分が発表された七月十八日ころから、由井正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷貞清のところに、つぎつぎとぞなわれているという情報が正盛のところに入ってきた。密告者の多くは、正盛や信綱が前々から神田連雀町の裏店にある由井正雪の学塾に、門人として潜入させておいたものばかりである。
 が、これは早くいえば、やらせ訴人″であって、「訴人があった」ということを天下に知らせるための道具でしかない。
 中根正盛はもっと別なうごきかたをしている。かれは配下の廻国者を、かなり前別から、駿河・河内・大和・紀伊・京都などへ派遣していた。由井正雪の素性・学問歴などを調べさせていたのだが、もうひとつ、正盛は正雪が唱える楠木流の軍学というものに、改めて関心をもっていた。楠木流の軍学とは一体何なのか、ということと同時に、学祖である楠木正成とはどういう人間だったのか、また、その子孫がどうつづいたのかを、河内・大和・京都などで調べさせたのである。それは由井正雪がなぜ楠木流軍学なのかを知るためであった。
 訴人によって発覚している正雪の、
 ○江戸を火薬爆発で焼く
 ○その騒ぎにまぎれて要人を殺し、江戸城を乗っ取る、そして将軍を擁する
 ○京都でも呼応し、二条城、大坂城を乗っ取る
 ○由井正雪は久龍山で総指揮をとり、軍用金を用意する、やがて将軍を人質に天下に号令する
などという計画は、正雪には悪いが、まあ実現の可能性はない。もともと鎮圧する気ならいつでも潰せる計画である。それをいま慎重に正盛がことをはこんでいるのは、定政よりももっと巨きな幕府批判者紀伊頼宣を、この際一挙に叩きつぶそう、という謀計が、松平信綱と中根正盛にあつたからである。
 紀伊頼宣、つまり紀州藩主徳川頗宣は、徳川家康の第三子で、豪放かつ英明な器量人であつた。幕政が次第に、合戦を知らない若者吏僚の手で運営されることに反撥し、浪人をすすんで抱えた。いきおい、外様大名や浪人・庶民からひじょうに好感の眼でみられていた。文治派閣僚はそういう頼宣に警戒の姿勢を固くした。
 特に松平信綱は、もつとも鋭いまなざしで紀州をにらんでいた。
 中根正盛が配下の廻国者を紀州に派したのも、紀伊頼宣と由井正雪との関係を何としてでも立証しようというためであつた。正盛は紀州潜入組に、「たとえ火のない煙でもいい、探り出せ」と厳命した。まるで、火のないところに煙を立ててこい、といわんばかりである。
 それでなくても、江戸には大久保彦左衛門のような武功派がこの間まで生きていて、陰でしきりに文治派攻撃をやっていた。かれの書いた『三河物語』など、武功派の不平、憤懣集のようなもので、共鳴する旗本はしきりに書写してまわし読みをしているという。
 松平信綱にすれば、「浪人よりも、むしろ幕府内の武功派旗本とこれに同調する大名のほうが問題だ」ということになる。その武功派の盟主が頼宣なのだ。しかも外部から浪人群が支持している。これは潰さなければならない。このへんの事情を正盛は知りつくしていた。
 正盛は、「日本国内では、再び干支をまじえぬ」という幕府の方針を正しいと信じている。いつまで経っても戦争の夢を忘れられない亡者共は、尻尾の先まで息の板をとめなければならぬ。若い者ならいざ知らず、年老いた者が再び合戦を、などと喚くのは一体どういう了簡だ。もう亡霊共は政治の場からひっこめ、合戦の一切を否定する松平信綱のような、若手文治派に政治をまかせてどこが悪いのだ、正盛はそう思っていた。
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