童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          さらりーまん事情 株式会社 江戸幕府

■大久保長安は公山と私山に分けて稼ぐ

<本文から>
  新技法を駆使し、プロジェクトチームで仕事を進める長安は、どこに行っても仕事を楽しくした。プロジェクトチーム員の給与や待遇を破格なものにし、生活を豊かなものにするために諸国から各種商人をよんだ。遊女屋も盛んにした。
 当時、女の入坑は縁起が悪いときらわれたが、長安はおかまいなしにどんどん女を坑内に入れた。彼は鉱山を″公山″と″私山″に分け、公山で掘った金銀は家康に献じたが、私山のほうで掘った分は、プロジェクトチーム員に分配した。そして、さらに私山発掘には商人、遊女たちの出資を認め、それに応じた配当をした。だから長安の赴いた土地は、突然、異様なにぎわいを呈するのであった。が、喜ぶ住民たちに長安は「金銀が出る間だけだぞ。いつまでもというわけにはいかない。有頂天になるな」といった。
 長安は、行く先々で"現地妻"をつくり、最高の処遇をした。当然、夢見心地になる女に、これまた「おれがいる間だけだ。おれが去ればおまえも終わりだ。よそには連れて行かない。よそに行けば、おれはその土地で新しい女を探す」と冷たい宣言をした。
 長安は、生涯、一つの土地にしがみつかなかったし、精神面でもしがみつきをきらった。彼にとって永遠とか絶対とかいうものは存在しなかった。すべて消え去るもの、過ぎ去るものであった。
 だから彼は、その遍性のものに全生命を燃焼し続けた。しかし、時代の流れはそういう長安を放っておかなかった。
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■大久保彦左衛門の三河物語に武功派や不満旗本は拍手を送った

<本文から>
「戦争なんて知らないよ」というこの世代は、戦争しか知らない武功派には目もくれなかった。徳川戦争史はどんどん風化し、同時に武功派の武功そのものも風化していった。新興幕府官僚は、そういうオールド=ボーイのセンチメンタリズムを鼻で冷笑し去ったのである。
 大久保彦左衛門の『三河物語』は、この"風化″に対する抵抗であった。徳川戦争史の復元であり、その戦争を戦い抜いた武功派の存在意識の主張であった。一読して、それは愚痴と嘆きに満ちた″恨み節″であったが、寛永窓際族は、むしろ恨み節であるがゆえに、その怨歌に魅せられた。カラオケこそなかったが、不満旗本群はそろってこの怨歌を口ずさんだ。ごまめの歯ぎしりと、犬の遠吠えと、引かれ者の小唄でつづられた歌詞を、共感こめて暗諭し、書き写して他に回した。
 とくに、「わが子らよ、よくきいておけ」と、自分の子に語りかける語法を使いながら、突然、「おれは、いまのご主人をありがたいと思ったことは一度もない」などといいきる大久保彦左衛門の勇気に、いちように溜飲を下げた。ほとんどの武功派がそう思っていたからだ。
 さらに、次のような「いまの世で立身する人間のタイプ」と「立身しない人間のタイプ」の分析には、そろって共感の拍手を送った。
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■頭脳官僚は大久保彦左衛門を″道化″として扱った

<本文から>
 大久保彦左衛門ごとき老いぼれの言葉など、だれ一人として聞く耳はもたぬ。聞かぬ意見などいくら市中に流れてもよい。大久保彦左衛門はわれらの妨げになっているのではない。逆に一方で旗本たちの、一方で庶民の不満を解消させる役割を担っているのだ。それならばそっとしておいたほうがよい。大久保が世の不満を支えていてくれる合い間に、われらはわれらの仕事を進めればよいのだ……」
 「………」
 一座は信綱の解釈に唖然とした。が、頭の鋭い吏僚群だ。たちまち信綱の言葉の意味を理解した。堀田正盛も苦笑した。
 「なるほど。すると、大久保彦左衛門は″道化″というわけか」
 「そうだ」
 信綱は冷然と領いた。そしてつけ加えた。
 「あんな老いぼれを中心にした武功派の反乱など、たとえ起こったとしてもわれらでただちにたたき漬せる。合戦の経験がまったくなくてもな。なぜなら……」
 信綱はいった。
 「『三河物語』は個人の愚痴の書だからだ。世の中をどうしようとするのか、たとえば庶民のために幕政をどう変えろというのか、そういう政策構想が何もない。そんなものではだれも反乱には加担しない。庶民が字が読めなくてむしろ大久保は幸いだ。もし、庶民が字が読めて、『三河物語』にいったい何が書いてあるかを知ったら、庶民はたちまち大久保彦左衛門を見捨てるだろう」
 ″知恵伊豆"らしい冷徹な松平信綱の言葉であった。『三河物語』とその著者大久保彦左衛門に対する扱いは、この松平信綱の考えに決まった。
 だから、その後もコニ河物語しはいよいよ不満旗本の間で読まれ、市民の間で、″天下の御意見番″の噂はますます高くなっていった。そして、そのことによって、武功派は自分で気づかないうちに反乱の牙を抜かれ、庶民は正しい幕政批判の回路を失っていった。松平信綱たち頭脳官僚は、その間隙を縫って着々自分たちの政策を実行していった。
 その後、島原の乱や由井正雪の乱が起こつたが、片方は信仰一揆であり、片方は山師的浪人群の反乱であった。大久保彦左衛門の強調する″武功派″は、もう反乱を起こす気力も失っていた。世は泰平の道をひと筋に進むのである。
 その意味では、大久保彦左衛門は、裏面からその泰平化に手を貸した″道化″であった。しかもその道化ぶりをだれよりもよく知っていたのが、あるいは彦左衛門自身であったかもしれない。
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■高井らは大塩を幕府登用の餌で問題を潰した

<本文から>
 高井は高齢であった。「私はこの職で定年になる。最終の職場でおまえを知ったことは幸せだった。どうか最後まで見捨てずに頼む」といった。いま思えば″あのじじい″と腹が立つ。そして高井がさらに悪辣だったのは、大塩を人事で釣ったことだ。
 ″おまえのような優秀な人材を、幕府はなぜ登用しないのか。伝を使って必ず私が直参にしてやる″と始終いっていた。そして、喜べ、御老中の大久保忠真さまが、おまえの登用を閣議ではかられたそうだとか、甘い情報を間断なく伝えた。
 そして高井自身退職の日、「例の話は煮つまりつつある。そこでどうだろう。この際、私といっしょに退職して身を軽くしておいたら。そのほうがご召致があったときすぐ江戸に行ける」
 親身な高井の言葉に、大塩は一も二もなく職を退き、隠居した。そして江戸からの召命を今日か明日か、と待ち続けた。そのうちに高井は死んでしまった。直参への熱は冷めた。しかし、そのときの大塩は、「不運だったのでうまくいかなかったのだ。しかし、高井様は誠心誠意、自分のために努力してくださったのだ」と信じた。
 が、いま思い返せば、いったい、高井はどこまでその話を江戸へ進達したのだろう。そもそも地方の町奉行所役人が、江戸の幕府へ登用されることなどありうる話なのか。
(騙されたのだ)
 大塩は直感した。そういうおいしい話に釣られて、与力の職を棒に振ってしまったのだ。老檜な高井の策略で退職させられてしまった。跡部はしきりにいう。″おまえは退職した身ではないか。もう仕事に口を出すな″と。その下地はすでに高井のときにつくられていた。なんというお人よしだったのだろう、と大塩はあらためて臍をかむのであった。そして中央政府の官僚たちの、年齢の高低にかかわりのない共通する恐ろしさに、いまさらながら、身を震わせた。
 高井は幕府登用という餌で釣って大塩を現役から退け、矢部はその後遺症を少なくするために、緩衝剤として大塩を現役同様に待遇し、跡部のところでぶっつり絶つ。なんと気のそろった巧妙な問題児潰しであったろうか。
 (そういう非情な幕府は許せない)
 地方役人の意地をみせてやる。大塩の反乱動機には、窮民救済とダプって、そういう人間的なものがあったはずである。跡部はその点、正直だった。老檜でなかったため、大事件をひき起こした。
 しかし、反乱した大塩は、むしろ単純率直な跡部をそれほど憎んではいなかった。彼が最も憎んだのは高井であった。その次が矢部であった。それにしても、かれは上司からなぜ愛されなかったのか、大塩平八郎は捕更に囲まれて自刃するまで、ついに気がつかなかった。
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■遠山金四郎は改革失敗と心中しないように何もしなかった

<本文から>
 こういう苛酷な取り締まりの中で、遠山金四郎はなにをしていたのか。金四郎は改革がはじまって間もなく、"この改革は遠からず失敗する″と予見した。若いころ無頼の群れとも接触のあった金四郎には、改革下の庶民の心、声にならない声、すなわち世論がひんぴんと入ってくる。改革の理念と実態のあまりにも隔たった実相が、手にとるようにわかるのだ。
 (おれは、そんな改革と心中したくない)
 遠山金四郎はそう思った。
 また、″民の支持がなくては、町奉行は絶対に勤まらない″とも思う。遠山金四郎もまだまだ将来に無限の可能性を秘めるエリート官僚である。こんなばかな改革に入れ込んで一生を棒に振ってたまるか、と考えた。
 そうかといって、真っ向から水野老中に反対し、楯突くのはこれも愚である。なんといっても、いまの水野は権力の頂点にいる。現代の地位でいえば首相である。水野に従っている風情をみせながら、しかも庶民の支持を失わないようにすることだ。そういう方法をつくり出すことだ。遠山金四郎は北町奉行所の与力、同心に示達した。
 「新しい禁令はすぐに出すな。一方月くらい手もとに温めておけ」
 「禁令違反者を町中で取り調べるな。必ず奉行所に連れて来て調べよ」
 「袖の下は厳禁する」
 つまり、遠山金四郎は水野改革の速度をゆるめる慢性サボタージュに出たのである。与力、同心の中には異論をとなえる者がいる。
 「お触れを一カ月も温めては、ご老中からお答めがありませんか」
 「あってもいい。いいお触れなので、より実効が上がるよう慎重に吟味中ですと答えろ。責任はおれが負う」
 「南町と比較され、北町はなにもしないといわれて、お奉行のお立場が悪くなりませんか」
 「そういうことにもなろう。しかし、町奉行は江戸市民のためのものだ。いま答めを受けても、いずれは天がおれを裁くだろう」
 そう答えて金四郎は示達を実行させた。町奉行所は一カ月交代でその職務を行なう。金四郎は、このルールをも活用した。つまり自分が当番になった月はあまり厳しい取り締まりをやらないのだ。それでなくても前の月は南町奉行所の鳥居輝蔵が、これでもか、これでもかと市民を痛めつけている。
 なにもやらないということは、痛んだ市民の傷を蒲の穂で柔らかくいたわっているようなものだ。なにもやらなくても、相対的に金四郎の名が上がるのは当然である。つまり金四郎は″やりすぎる″鳥居に対して″やらない″ことで対応していったのだ。
 「名奉行」「さすが遠山の金さんだ」という拍手はこんなところから起こった。
▲UP

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