童門冬二著書
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          三国志 赤壁の戦い 天下分け目の群雄大決戦

■孔明は劉備に備わる″人の和″の力に賭けた

<本文から>
 孔明は黙ってそんな劉備を見返した。軽蔑したわけではない。疲れ果てた劉備の心情がよく理解できたからである。
 琢漆県のような遠くからここまで辿り着く旅程を考えれば、気が遠くなるような道のりだ。しかも一人ではない。なぜか慕い寄る人々に祭り上げられて、常にリーダーの役割を果たさなければならなかった。
 しかし本人にガバナビリティ(統率能力)が無いから、戦っても必ず負ける。勝った例はあまり無い。しかし不思議なことに魅力があった。そのために、あちこちの実力者がかれを呼んでは、新しいポストを与えたりあるいは自分のポストを譲ったりした。
 しかしせっかく貰ったポストもすぐ投げ出さなければならないようなことを劉備はした。そしてそこから逃げ出す。が、逃げ出すときに必ず同行者がいた。それは劉備を慕う関羽や張飛のような補佐者だけではない。道程で劉備に出会った連中が、劉備が逃げ出すときに必ず、
 「わたしたちも連れて行ってください」
 と同行を願い出るのであるく
 これは孔明の知る限りでは、曹操にも孫権にもない特性だ。理屈を越えた一種の人心掌握力が劉備にはあった。学問の深い孔明は、
「これこそ、天・地・人の人だ」
 と思った。孔明は易学に造詣が深い。天・地・人の三才が一人の人間に備わっていればこれに越したことはないが、そんなことは天が認めない。孔明は判断した。
「曹操には天の時があり、孫権には地の利がある。そして劉備には人の和がある」
 であれば、その″人の和″を武器として、強引に天の時と地の利を得ることができるかもしれない、と思った。同時に、
(劉備殿にそれを得させるのが、おれの役割かもしれない。おれの役割は天が命じたものなのだ) と考えた。
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■天下二分か、三分か

<本文から>
  こうしていよいよ″赤壁の戦い″の幕が切って落とされる。しかし実質的に赤壁で戦ったのは周瑜軍であって、劉備軍はほとんど手を出していない。文字通り、
「高みの見物」
 を行い続けたのである。したがってこの作戦に関しては、諸葛孔明の智謀はまさに、
 「漁夫の利を得るべき汝滑な戦略」
 であったと言っていい。しかしこの戦いで、単に諸葛孔明の滑稽さだけをあげつらうわけにはいかない。おそらく孔明にはこのとき次のような考えがあったのではなかろうか。
 それは、多くの良識人が″理想郷″と夢見ていた荊州の地が、曹操と孫権の両軍に荒らされてしまったことである。政治的混乱や社会の汚濁に耐えかねて、
 「清涼な天地」
 を求めて定住の地を発見した人々が、結局はまた大混乱によって追い立てられるような状況に変わってしまったからである。言ってみれば、荊州は
 「覇者によって荒らされた花園」
と成り果ててしまった。孔明自身長い間この地に住んで、小さな住居の中で悠々自適の生活を送っていた。しかし青雲の志がないわけではなく、かれはこの地を自己充電の地とし、かれにとっては同時に、
 「天下三分の計を練り上げる」
 という構想の地でもあった。その荊州の地が、北方から南下してくる曹操の大軍と、東方から西行して来る孫権軍によって巨大な修羅場と化してしまった。穏やかだった荊州の地は喧騒の戦場と化したのである。孔明は絶望したに違いない。そして、
・理想郷だった荊州の地が、結果的には覇権争いの戦場と変わってしまった
・この戦争によって失われた荊州のよさは、二度と戻らないだろう
・荊州で夢見ていた二十余年の夢も、微塵に砕かれてしまい、元へは戻らない
 この絶望感から孔明の胸の中には次第に、
 「もはや荊州は永住の地ではない」
 という諦念が湧きはじめた。そのことは彼が立てた″天下三分の計″による、三分の一の天地の性格を失ったということである。
 三顧の礼によって劉備に仕えたものの、劉備に関りを持つ曹操や孫権の人物像を見ているうちに、これら覇者たちの容易ならざる底力を知った。孔明は思った。
 (結局、天下を動かすのは人間なのだ)
 ということを。
 南下してきた曹操軍と西行して来た孫権軍は、孔明の夢を無残に砕いた。孔明が立てた
″天下三分の計″は、
 「この荊州を一つの拠点にして、天下を三分にした一つを守り抜く」
 という考えであった。そしてその盟主に、逃れてきた劉備を戴こうと考えたのである。
 この時代にも、
 「大義名分を重んずる」
 という気風は多分に残されていた。曹操はその先頭に立っている。曹操の大義名分は、
 「まず漠王室を復興する」
 ということである。しかし復興した後の漢王室では、
 「自分がその支配者になる」
 と考えている。つまり曹操は漠の皇帝になることを目指している。
 劉備も同じだ。劉という姓の通り、かれの家柄は漢王室の血筋に当たると称している。うそか本当かはわからないが、当時はこういう主張がかなり物を言った。
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■関帝廟にみる関羽の人気

<本文から>
 関帝廟は、古代から活躍した山西商人が、同郷人の関羽を崇めて廟を造ったのがはじまりだという。清朝は、
 「清朝設立に際し、関羽の加護を受けた」
 という。関羽は死後神となって、数々の恩恵を施した。その基準は、
 「義に則る」
 ということだったと言われる。関羽は常に、
 「自分の損得を考えない義に篤い情の人」
 と言われた。
 関帝廟があるのは日本だけではない。
 「華人(中国人)のいるところ必ず関帝廟あり」
 と言われて、世界中に散在している華人の街には、必ずかれの廟がある。それほど人気が高い。やはり、そうなるにはなるだけの理由があったからだろう。
 つまりかれの人柄がそうさせたのだ。その点では、主人だった劉備も関羽の人気にはかなわない。
 もともと関羽が曹操の捕虜になったのは、劉備の妻子を守るためだった。劉備はよく逃げる。しかもその逃げるときに家族を放り出して逃げる。冷たい面がある。だが、関羽はそういうことは認めない。
 「劉備殿が妻子を置き去りにするのは、今の状況ではやむを得ない。そこで自分が代わって劉備殿の家族を守ろう」
 という義侠心に燃えて、何とかして劉備の家族を逃がそうとした。が、力尽きてついに捕虜になってしまった。そういういきさつがあるから、劉備にしても関羽には頭が上がらない。常に一目置く。
 「わたしが今日あるのは、すべておぬしのお陰だ」
 と、若いころの″桃園の誓い″を口にしては、関羽に感謝する。閑羽はそんなことは意に介さない。
 「あの状況では当然のことです」
 と謙虚に自分の功績を押さえ込む。決して誇らない。
 しかしだからといって関羽は卑屈な人物ではない。
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