童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          参謀力 直江兼続の知略

■直江兼続は風度が異常に高いがトップの決定権は絶対に侵さない

<本文から>
 直江兼続は、上杉謙信・同景勝の二代に仕えた名軍師である。豊臣秀吉でさえ兼続を愛し、豊臣の姓と、主人の景勝とは別に三十万石(実際は六万石)の大禄を与えた。しかしだからといって兼続は秀吉と直結し主人景勝の持っている「決定権」を侵そうとはしなかった。あくまでもトップの決定権は尊重したのである。つまり、
 ●自分は参謀(軍師)である
 ●したがって職務権限に限界がある
 ●選択肢の設定まではするが、その中からどれを選ぶかは主人景勝の権限である
 ●そして、主人が選んだ決定事項についてはその実現について全力を尽くす
 ●しかし、もしも物事がうまくいかなかった場合の責任は、選択肢を用意した自分にもあるという考え方をしていた。潔い。つまりトップの決定責任と、参謀の選択肢設定責任とは別個なものであって、それぞれ責任をとらなければならないものなのだ。直江兼続はこの点、主人の上杉景勝とまさに″あ・うん(「あ」は吸う息、「うん」は吐く息)″の呼吸がぴったり合っていた。もちろん組織にせよ人間にせよ、物事が成功するには、この、情報を集めることから始まり、評価に至るプロセスをたどるだけでなく、別に「天の時・地の利・人の和」という三条件がある。「天の時」というのは運であり、「地の利」というのは状況・条件のことだ。そして「人の和」というのは人間関係である。日本人は人間関係が好きだから、「良好な人間関係さえ保てば、運も条件も自然によくなる」と考える人がいる。ある意味で当たっている。たしかに、ウェットな人間関係を好む日本人は、相手によって、
「人生意気に感ず」
とか、
「以心伝心」
という。相手を気に入っていれば、多少疑問を持つようなことでも平気で協力するし、危地にも喜んで飛び込んでゆく。しかし相手が気に食わなければ、それがどんなによいことであっても協力しない。まだまだ日本人にはそういう癖がある。
 直江兼続は参謀としてまさにこの「天の時・地の利・人の和」、つまり″天地人″の三条件に恵まれていた。これは不思議だ。兼続は子供のときから非常な美男子だったという。そのために、
「上杉謙信に愛されたのもそのせいではないか」
 というような説さえある。しかしそれは措き、兼続自身のキャラクター(人間性)にも、これらの条件を自然に発生させるようなところがあったのではなかろうか。これは一種のオーラ(気)クとしかいいようがなく、誰もが持てるものではない。その点、兼続は恵まれていた。だからこそ陪臣(家臣の家臣)でありながら、天下人である豊臣秀吉に特別に愛されたのだ。その資質は、京都名寺の高僧でさえ目を見張るような、兼続自身の教養にもあったといっていい。京都名寺の高僧たちは、兼続が頼めば秘蔵の古書籍までコピーさせてくれた。そして、兼続はどんな危機に面しても必ず歌会や詩の会を催している。悠々たるものだ。これは単なるはつたりや見栄ではなく、本心からかれはそれを行っていた。こういう悠揚迫らぬ態度は、なまじつかな修行で得られるものではない。兼続は根っからの教養人だったのである。したがって、かれに対しては多くの人々が、
 「直江殿のためなら」
という″なら″という考えを持った。兼続に接しただけで、たちまち相手はその魅力にとりつかれ、この″なら″という気持ちを抱いてしまう。他人に″なら″と思わせる″らしさ″のことを、中国文学者は「風度」と呼ぶ。直江兼続はこの「風度」が異常に高かったのである。
 すぐれた軍師であったかれは、場合によっては心の中で、
 (主人に決めさせるよりも、おれが決めたほうが事が早く運ぶ)
と考えるようなこともあつたろう。しかし兼続は絶対にその禁を犯さなかった。つまり、
 「トップの持つ決定権を、参謀は絶対に侵してはならない」
というけじめは守り続けたのである。主人の景勝もそのことをよく知っていた。だから、
 「これは兼続が決めてくれたほうが楽なのだがな」
と思うような事件に面しても、自分の決定権を放棄するようなことは決してなかった。
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■参謀の役割は主人の意識変革

<本文から>
 秀吉の天下事業は、いってみれば「地域情報の集積」によって作戦が立てられている。そういう知恵を出しているのは石田三成に違いない。同じ参謀的役割を果たしているとはいえ、直江兼続はこのとき石田三成の参謀力と、自分の参謀カとに大きな差があることを知った。しかし降伏したわけではない。兼続の競争心はいよいよ燃えた。そして、
 ●自分と石田三成とはク義兄弟クとはいえ、全面的に重なり合うわけではない
 ●つまり、三成が補佐する秀吉公の天下事業と、自分が補佐する上杉景勝公の地域事業との間に、承認することのできない利害関係が生ずれば自分は景勝公の側に立つ
 ●そのときは、石田三成は敵になる
 という分析判断をした。新発田重家にしてもかつて、
 「新発田は織田信長と通じている」
 という噂があった。景勝と兼続ははじめは信用しなかった。越後の一実力者がそこまでやるまいと思っていたからである。これは、
 「越後人同士の信頼感」
 が底にあったためだ。つまり、
 「越後国内のゴタゴタは、越後人同士で片付ける」
という気持ちがあるはずだと思っていた。しかし今日の石田三成の言葉はそれを否定していた。新発田重家はすでに織田信長と通じていたのだ。そのために秀吉はいきなり上杉景勝に対して、
 「新発田重家は自由に処分されよ」
とは言わない。代理人として派遣する木村清久の指示に従えと言う。ということは、すでに新発田重家の領有する地域は関白の左右できる土地であって、上杉景勝が自由にできないということだ。たとえ上杉軍が独自に新発田重家を討漉し得たとしても、その後の処分は、
 「いかがいたしましょうか」
と秀吉にうかがいを立てなければならないということだ。秀吉の意向は、信長の意向をそのまま踏襲するということではない。
 「それぞれの国内における争乱の処分については、あくまでも関白の指示に従え」
という権力の誇示である。これらのことを兼続と同じように正確に理解した景勝は宿所である本国寺に戻ってくると、
 「悔しいぞ」
と唇を噛んだ。兼続は慰める言葉を持たない。獣州って天井を仰いでいた。そんな兼続に不満を持ったのだろう、景勝が言った。
 「与六、悔しくはないのか」
と執拗にきいた。兼続は景勝を見返した。
 「悔しうございます」
 「ならば、このまま引き下がるのか」
 「やむを得ません」
 「なぜだ。国もとの重役たちが言ったように、この上は越後国に戻って一戦構えたいと思うが」
 「おやめください。そんなことをするくらいなら、はじめから上洛などいたしません」
 「しかし、なんとも腹が治まらぬ」
 「それはわたくしも同様でございます。しかし、情勢が大きく変わりました」
 「というと?」
 「いまのこの国では、どんな片隅にいてももはや関白殿下の意思に逆らうことはできないということを、今回の上洛でまざまざと知りました」
 「そんなことはない。わしだけではないぞ。小田原の北条、奥州の伊達などと手を組めば、秀吉に対する一大抵抗軍が編めるはずだ。わしはもう一度そのことを考えたい。国を出るときに重役どもが言ったことにも一理ある」
 「まちがいです」
 兼続はきっぱりと言った。それは兼続自身が、国内の状況変化に対し正確な認識をし、同時に、
 「それを無視できない」
 という角度の大きな意識変革を行っていたからである。この点兼続の思考は柔軟だった。しかし主人の景勝は違った。やはり養父謙信以来の誇りがあるから、示された四条件を鵜呑みにするのは腹立たしかった。帰国の途中、景勝はぶつぶつ文句を言い続けた。兼続はそれを柔らかく受け止め、
 (どうすれば主人の考えを変えることができるか)
と、そのことばかりを頭の中に置いていた。参謀の役割は、
 「主人の意識変革」
もその一つだ。兼続は、
 (越後に着く前に何とかして景勝棟のお考えを変えさせないと、えらいことになる)
 と思っていた。えらいことになるというのは、帰国挨拶のときに会った秀吉と石田三成の態度から、
 (秀吉公と石田殿は場合によっては上杉家を潰すことも想定内に置いている)
 と感じたからだ。
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■姉さん女房のお船は兼続のカウンセリング役

<本文から>
 天正十五(一五八七)年十一月二十二日、関白秀吉から手紙が来た。それは、
 「新発田重家討減を祝賀する」
 というものであった。そして新発田領の領有を認める朱印状も併せて寄越した。しかし朱印状の宛名は直江兼続になっていた。上杉景勝は首をかしげた。
 「どういう意味だろう?」
 「さあ」
 さすがの兼続も秀吉の真意を測りかねた。しかし予感がした。
 (関白殿下はおれを一本釣りで直臣に組み込むつもりなのだ)
 この勘は当たる。しかし兼続はそれに応じょうと思っていた。考えがあったからである。このころの兼続は″忙中閑あり″あるいは″陣中閑あり″を文字どおり実行して、春日山城内で『古文真宝抄』の講義を受けている。指導者は了阿という僧だった。了阿はこのとき、
「いま教材にしている『古文真宝抄』は写本であって、本物は京都の妙心寺の前住職南化和尚がお持ちです。もし、上洛の機会があったら是非本物をご覧になるように」
 と勧めた。また翌天正十六(妄八八)年の丁月末には、上杉家の家臣字津江朝清の邸で漢和(漢詩と和歌)の連句会を開いている。直江兼続の教養は、かれ自身の性癖と努力によってもたらされたものだが、もう一つ妻のお船の勧めにもよる。お船は、兼続が養子に入った直江家の家付き娘であり、バツイチであり、同時に年上の姉様女房でもあった。が、性格が大らかでそんな過去に微塵も未練を残していない。自分が一旦嫁に行き、その夫に死なれたことなどケロリと忘れていた。あっけらかんとした性格である。それが養子の兼続にとっては救いになった。しかも姉さん女房として、兼続がいろいろ思索にふけっていると、
 「下手な考え休むに似たり、ここへいらっしゃい」
 と言って、自分の膝をぼんぼんと叩く。そして膝を枕にさせながら、兼続の悩みを聞く。結果、
「そんなことは、男子が悩むことではありません。お忘れなさい」
 と言う。いまで言えばトップリーダーのカウンセリングを見事にやってのける。だからお船の存在は、上杉景勝の参謀役を務める兼続の、女性参謀といってよかった。お船がいるために、兼続はどれだけ助かったかわからない。お船は苦労してきただけに、兼続の苦しみをよく知っていた。そして兼続が、大変な能力を持ちながらも徹底して、
 「主人景勝様の分身になろう」
と努めていることを高く評価していた。
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■兼続への米沢三十万石の疑問

<本文から>
 「おそれながら、太閤殿下の天下はそれほど長続きはしないと思います」
という思い切った進言をしている。景勝はびっくりした。
 「ほんとうか?」
と目を見張り、その理論的根拠を示せといった。兼続は笑った。
 「勘です。しかしわたくしの勘は必ず当たります」
  と自信たっぷりで言った。この三日が景勝に移封への抵抗を諦めさせたといっていい。
 「長続きしない天下人なら、あまりむきになって抵抗することもない。天下人が死んだら、また越後へ戻ればいい」
 そう言った。兼続はうなずいた。
 「そのとおりでございます」
 兼続自身もそう思っていた。そして腹の底では、
(上杉家の越後から会津への移封は、おそらく石田三成の入れ知恵だろう)
 と思っていた。兼続は石田三成に対して、
 「義兄弟としての友情は友情、しかし政略は政略でまた別なものだ」
と思っている。石田三成は天下人の側近だ。したがってその職責は、
 「天下人を安泰の座に置く」
 ということに死力を尽くすことだ。反対に直江兼続のほうは、
 「主人上杉景勝と上杉家を安奉の座に置く」
 ということに死力を尽くす。したがって利害関係が相反する場合は、どうしても争わなければならない。そんな日が来てはほしくないが、しかしいざとなったときに兼続は、
 「たとえ義兄弟でも石田三成と敵対することもあり得る」
 と思っていた。このへんは戦国を走り抜ける過程で身につけた一種のクールさである。人のいいことをしていたのではたちまち乗ぜられる。滅ぼされてしまう。上杉景勝をそんな目に遭わせたくはなかった。
 ところで、ここで問題が一つある。それはいままでずっと伝えられてきた、
 「会津移封に際し、直江兼続は豊臣秀吉から直接米沢三十万石を与えられた」
 という説だ。この説の根拠は、新井白石が六代将軍家宣のときに全大名の家の由来などを申告させた『藩翰譜』に記載されたところによる。しかし違う記録によれば(たとえばここに書いた支城主の城将名簿二ハ万石であり、あるいは三万石であったともいう。大体、秀吉が兼続に与えたという三十万石は、上杉景勝が移封された九十二万石の中に含まれるものなのか、それとも秀吉は、
 「上杉殿とは別に米沢で三十万石を与える」
 と言ったものなのかはっきりしない。ここに掲げた会津地方支城将の収入高を見てみると、やはり直江兼続の六万石というのは多すぎる気がする。三万石あたりが妥当だ。また兼続の人柄からしても、
 「そんな大禄は辞退したい」
 と告げたはずだ。後に上杉景勝が関ケ原合戦後の罰を受けて米沢三十万石に移封されたとき
 に、景勝は兼続に六万石を与えた。しかし兼続は即座に辞退し、
 「五千石をくだされば結構でございます。あとは他の家臣にお与えください」
 と告げている。そういう潔癖な兼続の性格からしても、米沢三十万石は多すぎる。大体米沢領である置賜郡の総石高を合計しても、十七万石ぐらいにしかならない。それを兼続が自分の判断で上杉家の家臣たちに分配するということは考えられない。あくまでも藩主は上杉景勝なのだから、景勝から家臣に与えるというのが筋だ。したがって、直江兼続の米沢三十万石という説は、かなりうさんくさい。最近多くの研究者たちが、疑問を持つのも当然だ。
▲UP

■直江状は乱暴な内容はなかった

<本文から>
 承免の手紙もそうだが、直江兼続の返書もいまでいえばそれほど険しい調子のものではない。むしろ槍の穂先を布で包んだタンポ槍的表現だ。やはりこのころには一定の節度があるので、問う方も答える方もいわゆる分限を越えない。持を守って問答するということだ。まして、承免も兼続も当時の日本最高の知識人なのだから、長屋の八つぁん熊さんのような乱暴なやりとりにはならない。しかし兼続のこの返書は、″直江状″といわれて真っ向から徳川家康の意向に反するものとされた。いってみれば、
「来るなら来い」
 という挑戦状だ。しかしこれは前にも書いたように、兼続は、″事なかれ主義″ではなく、″事あれ主義″を貫こうとしていたのだから、やむを得ない。かれは自分の書いた返書が天下大乱の起因になってほしかった。そして天下に大乱が起こったら、そのどさくさに紛れて上杉家は越後国に帰還しようと策していたのである。いわゆる″直江状″といわれる兼続の返書が上方に届いたのは、慶長五(一六〇〇)年五月三日のことであった。
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■家康が米沢三十万石を上杉景勝に

<本文から>
「いや、上杉家の伝統は″義″の一字にございます。義を重んじて、みすみす敗れる合戦に赴く例は、おそれながら徳川殿にもその経験がございましょう。徳川殿が浜松城主であったころ、北方を通過する武田軍に対し、当時織田信長殿と盟約を結んでおられた徳川殿が、寡兵にもかかわらず猛然と出撃して行ったのは、まさに″義″に準じた結果でございましょう」
 「……」
 正純は詰まった。思わず徳川家康の顔を見た。家康は目を細めニヤニヤ笑っていた。腹の中で、
 (直江め、なかなか食えぬやつだ)
 と思っていたに違いない。しかしこの回答によって、直江兼続が最上家を攻め立てた理由は一応理屈が立った。それは兼続が何度も主張するとおり、
 「上杉家は越後国に戻りたかった」
 という悲願である。兼続はその理由を、
 ●上杉家の越後から会津への移動は、故太閤殿下の行った人事異動であって、徳川殿は全く関わりがなかったこと
 ●したがって、越後国帰還は上杉家の悲願であって、それをこの際思い切って実現したかったこと
 ●そのことであって、徳川公に対しても、また大坂城の豊臣秀頼公に対しても叛意は全くないこと。あくまでも上杉家の純粋な悲願実行であったこと
 このことを強く主張した。
 「では、この度の費任をどのようにとるつもりか」
 本多正純は語調を変えて迫った。兼続はうなずいた。
 「上杉家がお預かりしております会津百二十万石は返上いたします」
 「なに」
 徳川家康が細めていた目を開いて思わず兼続を凝視した。眼の底が鋭い。まるで睨みつけているようだ。兼続は正純を見、そして家康を見た。正信が日で、
 「どうなさいますか」
 と家康にきいた。家康は軽くうなずいた。正信が言った。
 「やむを得まい。会津における上杉家の領地は没収する」
 「さらに」
 兼続は言った。
 「わたくしが故太閤殿下から頂戴した米沢三十万石も返上いたします」
 「ふむ」
 家康が再び兼続を見た。このとき兼続は突然ニコリと笑った。そしてこう言った。
 「徳川様にお願いがございます」
 「なんだ」
 「わたくしが返上いたします米沢三十万石を、そのまま主人上杉景勝にお与えいただきとうございます」
 「なんと」
 本多正純がうなるような声を立てた。とんでもないといった語調だった。父親の正信はにやりとした。家康も苦笑した。話が途切れ、座に異様な沈黙が漂った。やがて本多正信が家康にきいた。
 「ただいまの直江兼続の申しいで、いかがなさいますか」
 「認めよう」
 家康が即座に答えた。まるで″あ・うん″の呼吸だ。家康・正信主従はすでにそういう呼吸を互いの技としていた。余計なことは言わない。以心伝心なのである。
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