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<本文から> 出陣の命令が下る前に、秀吉は長浜城内の広間で自分が経験した槍の試合を例にこういう説明を続けた。そして、
「わかったか」
ときく。部下たちがわかりましたと応ずると、秀吉はにっこり笑い、
「よし、ご苦労だった。では酒を振る舞ってやる」
と酒宴に移った。この辺の秀吉の管理衝は実に巧妙だ。
こういう秀吉のようなリーダーに出会ったのは、山内一豊にとってはまさに、
「目から鱗が落ちるような日々」
であった。一豊は感心のしっぱなしだった。だから、このときの詰も正確に千代に伝えた。千代は澄んだ目を曇らせることなくじつと静かに夫の話を開き続けた。一豊が話し終わって、
「とにかく羽柴様は大したものだよ。おれはあんな人にはじめて出会った」
といかにも幸福そうに語るのを見て優しく微笑んだ。しかしこういった。
「でも、かりそめにも伊右衛門様は羽柴様の真似をしようなどと思ってはなりませぬ」
「ほう、なぜだ」
層を寄せてきくと千代は媛やかに首を振った。そして、
「何度も申し上げるように、伊右衛門様と羽柴様とはお人柄が違います。サル真似はしないほうがようございます」
これを聞くと一豊は顔色を変えた。そして目を尖らせ、
「サルなどという言葉を使うな」
と怒鳴った。千代はびっくりした。しかしすぐ気がついた。それは羽柴秀吉の面貌がサルに似ているので、信長をはじめ周囲の連中が秀吉のことを"サル"と呼んでいたからだ。律義な一豊にすれば、そういう呼び方は秀吉に対して失礼だと思っていたのだろう。だから千代に対しても怒ったのだ。千代は、
「ごめんなさい」
と素直に謝った。しかし千代にすれば、夫の一豊に、
「羽柴様の真似をなさらないでください」
と、夫のよい性格の保持に警告を与えつつも、本心はやはり唸っていた。
(羽柴様は次々と新しい人の用い方をご発明になる)
と感心していたのである。それだけに、
(到底、伊右衛門様には真似ができない。羽柴様とは器量の大きさが違う)
と思っていた。はっきりいえば千代は、
(羽柴様が一流なら、夫の伊右衛門様は三流の人物だ)
と思っている。だから、一流を目指す主人の織田信長や羽柴秀吉のような立場には絶対に立たない。いや、立てない。能力が不足している。しかし千代はそれでいいと思っている。夫に天下人になってもらおうなどという大それた気持は全く無い。ただ、
(伊右衛門様が自分の生き方に納得して、一歩一歩とその地歩を固めていけばよいのだ)
と思っていた。千代も子供のときから苦労しているから高望みはしない。なかにはそういう貧しく辛い暮らしから脱するために、一挙に高望みをして、空に向かって自分を押し上げていく人間がいる。今の戦国はそういう人物が多い。しかし千代は違った。琵琶湖畔の家に育って、そこそこの暮らしをしてきた。今の貧しさは自ら買って出たようなところがある。つまり生家の親が、
「痩せ我慢をしないで、いつでも足りない物があったら言いなさい」
と言ってぐれるが、千代は首を横に振る。そして、
「夫の収入で頑張ります」
と微笑む。父と母は顔を見合わせ、
「全く芯の強い娘だ」
と目で語り合う。しかし千代はそれでよかった。 |
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