童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           坂本龍馬に学ぶ

■第三の道を自分で開いた坂本龍馬

<本文から>
「自分で自分を掘る時代」
 になっているからだ。その掘り方も、いままでの日本人の好きな、
「AでなければBだ」
 と、きめつける″二極対立式″の発想では、ことがすまないことを、多くの人々が知っている。
 既成のふたつの道を辿るだけでは、カタのつかない複雑な世の中になっている。その複雑な世の中で自分を掘り、生き抜く可能性を追求する、いわば、
「新しい第三の道」
 を皆が求めている.
「期待される自分像」
 の発見と確立にほ、まだ、いまの社会に確立されていない″第三の道″が必要なのだ。
 坂本龍馬は、その″第三の道″を自分で拓いた。しかも、前に掲げた″次世紀への生きのこりの条件″を、ひとりで全部そなえている。しかし、ホラ吹き、とか異能とかいわれて、その当時は、かれの発想や行動に従いて行く日本人は少なかった。
 その中で、かれに従いて行った数少ない人々が、日本を変えた。龍馬は、″第三の道″を拓いて自分を掘ったが、そのことは同時に日本を掘った。日本に″第三の道″を示した.
 人間は、どんな人間でも必ず自分の鉱山を持っている.鉱脈を持っている.そして、ほとんどの人が、その鉱脈に気がつかない。気がついていても、
「自分の鉱脈からは大した鉱物が出ない」
 とか、
「山が硬くて、とても掘れない」
 とか、掘る前にあきらめてしまっている人も多い。
 しかし、現代ほ、そういうあきらめも甘えの一種である。甘えの表だというのは、たとえ、いやでも、つらくても自分を変えなければ生きて行けない、というさし迫った状況になっているからだ。自分を変えるということは、変えられない、ときめこんでいる〃心の壁〃を割って、はめ替えることでもある。
 つまり、それぞれの人間の”心の壁”は、決して一枚板ではない。割って分解できる。捨てて新しいのととりかえることのできる壁だ。
 自分を掘る、ということはそういうことである。
 そこで、そういう視座から、もう一度改めて坂本龍間の生涯と、その軌跡の中から、私たち自身が自分を掘る方法を探ってみたい。
 即ち、きびしい現代社会を生き抜くための、
 「期待される自分像」を確立するために、
 「自分を掘った人悶」
 としての龍馬を考えてみたい。そして、龍馬の自分を掘る行為が現在と同じょうに、閉塞状況にあった、当時の日本の社会を、いかに掘ることにつながって行ったかを、みきわめたい。

■幕末の第1〜4期の時代

<本文から>
第一期の長い刀の時代は、ひとことでいえば剣術の時代である。ペリー去来航によって、国防意識がつよまり、日本を守るために、武士達は改めて武術の修行を始めた。中でも剣術の修行は壷一度に蘇り、日本中の剣術道場が再び繁盛をきわめた。少年期から青年期にあった龍馬もこの例にもれず、生まれ故郷の土佐あるいは江戸に出て積棲的に剣術を修行していた。
第二期の短い刀の時代は、”暗殺の時代”である。短刀は一人表を示す。安政の大欲の実行老である大老井伊直弼の暗殺によって、日本はかつてない過激主義あるいは過激魁想を経験し始めた。それを弾圧する藩組織に抵抗し、脱藩という形をとって、志士とよばれる周が生まれた。龍馬も、土佐藩という狭い枠から飛び出て、脱藩し、志士の一人となった。
第三期は外国の武器や文明におどろいた時代である。薩英戦争や四国連合艦隊と長州藩との戦争によって、それぞれ日本側は大敗し、西洋の科学武器に対して刀や槍では到底、撰夷は行えないという冷厳な事実を思い知らされた。
 従って、日本人の中でも、比較的西洋事情に明るい先筆者達の間には、むしろ積極的な強国によって、西洋文明を日本にとり入れ、その1で国力を強めようという意見がしきりにおこり始めた。この時期、龍馬は勝海舟に遭遇して文句なしにその影響をうける。
 第四期は、これらの苦悩を総括した形で、そういう思想を具体的に実現できる政体、即ち新しい日本国家の模索と構想が論議される時期である。龍馬はこの思想を、横井小楠や勝海舟や大久保忠寛らの影響を受けながら練り固める。そして、大政奉還という思いきった形で幕府に政権を返上させ、有力大名による共和連合政府の構想を日程にのぼらせはじめる。

■龍馬の応用の人、すぐれた人との出会いの一生

<本文から>
しかし、龍馬の壮大な発想は、いつもかれの独創ではない。かれの発想ほ必ずといっていいほど、他人の考えにヒソトを得ている。
 龍馬の発想は、
○すぐれた他人の考えを、そのまま自分のものとする。
○すぐれた他人の考えを、ふくらませて自分の考えにする。
○すぐれた他人が、その考えを自ら否定する場合も、龍馬が代わって実行する。
 などに分けられるが、いずれにしても触燭は、
「独創力の人」
 ではない。むしろ、
「応用拡大の人」
だ。″節三の道″を辿る人物である。
 それにしても、他人の考えを応用拡大するにほ、それ相応のすぐれた他人と出会わなければならない。
 龍馬の一生ほ、その意味で、
「すぐれた他人との出会いの一生」
である。すぐれた他人との遭遇をくりかえすことによって、龍馬の発想方法は磨かれぬいた。

■基礎練習をしていた龍馬

<本文から>
 いずれにしても、このころの龍馬は、まだ自分独自の道を少いていたのではなく、多くの青年と同じように剣術を習い、武市瑞山の主唱する土佐勤王党に名をつらねる平凡な生きかたをしていた。
 つまり、
「常識の中に生きていた」
 のである。
 これは、高杉や桂も同じで、剣術という基礎修練をみっちりやったということは、現代の、たとえば高校野球で、ランニソグとキャッチボールやバッティソグの基礎修練にいそしむのと同じことである。
 ことばを変えれば、維新の人材は、すべて、こういう基礎修練を決してないがしろにしなかった、ということだ。
 天悔のごとき龍馬も、天をかける前に、地上でみっちり基礎修練をしたのだ。

■武市と違い藩主と親しくないため藩主への忠義を感じない

<本文から>
  龍馬は、この地点から毎日、入れてもらえぬ城を眺めて、恐らく、
「フン」
と思っていたことだろう。
 だが、半平太のほうは城に出入りすることができた。容堂にも会えた。
 それが間違いのもとだった。
信用に値せぬ藩主を信じたがため、その藩主によって捕らえられた半平太は、獄中にあってもなお殿への忠義を説いている。
「御国を捨てて出る人もあれば、世の中のことを聞いて、又、御国にもどってお上に申し上げるつもりで出る者もいる。
 この日本国は、天子様があって、その下に将軍があり、将軍の下に大名があり、大名の下に家宅・士と順序があるゆえ、天子様は神々へ御忠孝を尽くし、将軍、大名は天子様へ忠誠を尽くし、家老・士などは、めいめい御主人の大名へ忠義を尽くすわけである。
 先祖代々の御高思を忘れ、父母妻子を捨て、先祖の家名を絶やして出奔して、不出不孝である」
 脱滞してはだめだ、忠義を尽くせ、というのである。

■勝との出会いはタイミングがよかった

<本文から>
  龍馬が世界の海へと目を向けたきっかけは、同郷の士・河田小槌との出会いであった。
 そしてその海洋への夢を現実のものとしたのは勝海舟である。
 龍馬が勝と初めて会ったのは文久二年八月のことである。これも有名な話で、開国論老勝を斬りに行って、逆に勝の所説に感銘を受け、その場で入門したことになっている。
 そのことの真偽はともかくとして、龍馬を勝に紹介したのは松平容嶽だという。春嶽が明治になって土佐の土方久元にあてた手紙の中で、文久年間に、突然、龍馬が訪ねてきたので、いったんは腹心の中根雪江に会わせたが、のちに直接会うと、勝、横井(小鏑)を紹介せよというので応じた、とある。
 ほかに、横井小楠→松平容嶽→勝海舟というルート説もあるし、千葉重太郎→春獄というルート説もある.
 しかし、どのようなルートで遭遇したにせよ、肝腎なのは、天の配剤が良かったということだ。二人の天才の出会いのタイミソグはひじょうに良かった。
 そのとき龍馬は二十八歳、脱藩して約半年、土佐を出てから九州を回遊して関西を経、江戸に入ったときであった。脱藩によって龍馬は狭い一藩勤王主義を捨てたが、その後の見聞により単純接夷主義からも決別しつつあった。
 一方の勝は、四十歳。
 すでに二年前に成臨丸でアメリカを訪れ、近代資本主義国家の政治・軍事・経済、そして社会を垣間見てきている。攘夷か開国かという次元ではなく、それを超えて、富国強兵の必要性を現実的に肌で感じ取ってきている。

■思いつきでなく、世論を見抜いて実行した

<本文から>
当時としてはまだ大勢とならず、あるいは主流とならなかったが、一部には確固として流れていた世論が神戸海軍操練所を支えていたのである。龍馬はそういう世論を見抜くカを持っていた。何度も返す通り、龍馬は決して無唐無稽なことを思いつき、思いつきだけを実行する人間ではなかった。彼が一度実行するとなる時には、必ずそれを裏打ちする事実が社会にあった。彼はその社会の支持を敏感に見抜いた。そして時にはそれを針小棒大に拡大することもあったが、決して彼は空理空論を実行する徒ではなかった。必ず現実に根を置いていた。そういう意味のリアリストであり、また、実証主義者でもあった。それが龍馬の強さであっただろう。

■不遇の一流の人に目をつけて自分のものにした

<本文から>
 阿部は、非常に若い老中であったにもかかわらず、身分にかかわらず、茄臣や、外械大名の家来の中から、有能な人材を登用した。
 それが先にあげた勝海舟、大久保一翁、川路聖朕、岩瀬忠震らである.
しかし、これらの人材は、殆ど十四代将軍の擁立問題の時に、水戸斉昭の息子である一橋慶喜を推した。ところが、大老となった井伊直弼は、紀伊藩主であった徳川慶福を推したため、これらの開明派官僚を、悉く追放したり、隠居させたり、あるいは蟹居させたりした。大久保、勝、岩瀬、永井らは、全てその犠牲になって、不遇をかこつような身になってしまった。
 坂本龍馬は、こういう不遇老達に目をつけた。一級の人物が、不遇な時に、そのまま黙っているはずがないと似ったからである。一流の人物が、自分の能力を伸ばす場を与えられなければ、当然その持っている能力は、不完全燃焼現象を起こす。そこへ、たまたま龍馬のような聞き上手が現れれば、腹ふくれているこの連中は、何でも良いから、とに角、自分の考えていることを、誰かに伝え、伝えたその誰かが実行してくれれば良いと願う。坂本龍馬はこの手を使った。従って彼がこの時期に得たヒントは、当代一流の人物達が、世に現す場を失っていたにもかかわらず、坂本龍馬という恰好の媒体を得て、自分の持つものを全て龍馬に注入したのであった。
 その意味では、龍馬は、人間の一級品を選ぷと同時に、しかもそれが、権勢の頂点にあって、我が世の春を謳っている人々ではなくて、逆に、不遇を託っているような連中から、思いの丈を、底の底まで凌い立てて、全部自分のものにしてしまったということがいえよう。
 当時、既に大久保一翁ほ、大政奉還の構想を持っていたし、これは龍馬を経て、具体的には永井尚志に引き継がれる。徳川慶喜の大政奉還の文章を書いていたのは、永井尚志である。
松平春嶽や、横井小楠の挫折については、改めて書くまでもない。井伊大老の安政の大獄によって、松平春嶽は、忽ち隠居させられたし、しかも蟹居させられた。井伊大老にすれば、一橋慶喜を将軍に推しながら、幕政に対して、あれこれ臍を挟む松平春獄のような存在は、蟹居中に餓死でもしてくれれば良いと願っていたに違いない。横井小楠は、その松平林嶽のブレーンである。

■幻の志士の蝦夷への退避計画

<本文から>
 つまり、血気にはやる志士群を一時、北海道に退避させて、土地の開墾に従事させる。未開の蝦夷地を開発するという目的よりも、未開の蝦夷他の冷たい天地に触れさせて、早く言えば、
「馬鹿な熱をさませよう」
 という事であったろう。この着想は卓抜である。そして、龍間が考えたように、京摂にいた志士達が、この言に従って、蝦夷に移住したならば、明約維新は逆にもっと早まったかもしれない。
 龍間の考えたのは、若い志士達の、今後役に立つ貴重な生命の温存策であり、血気にはやって、京都に火をつけるなどという暴発行為は、彼にすれば、あまりにも無謀な計画であった。勝海舟の日誌に出てくる老中水野美浪守は、この頃、大坂城や二条城にいたが、龍馬は、海舟の斡旋によってこの移住計由の了解を得ていた。つまり、一介の浪士が時の幕府閣僚に、浪士移住の確約を取り付けていたのだ。
 しかし、この計由はうまくいかなかった.

■常識的経験を独創的飛躍への土台にする龍馬の行動哲学

<本文から>
かれのそれまでの行動パターンである。まず、常識的次元に身をおく→そして、常識はあくまでも常識であることを自ら確かめる→これではどうにもならないことを改めて知り、見切りをつける→そこで、かねて胸中にあるかれの独創的な道へ歩み出す、という経路を、このときもきちんと歩いていることだ。
 決して、いきなり独創の道へは突き進まない。常識というのは、龍馬にとっては、もっともハメ替えのきく心の壁だが、かれは、いつでも必ず、その常識を経験し、見据える。そして、
「やはりクダらない」
と苦笑して見限るのだ。
 この実証精神は、侍のものではない。商人のものだ。
 その意味では、せっかくの勝・西郷の厚情による、
「薩摩の居候」
も、”居候の常識”をこえるものではなかった。事実を知った西郷にどなりつけられて改めたが、西郷の妻でさえ、龍馬に西郷のフンドシのお古を与えていたほどだ。
 龍馬のことだから、三杯目のお代わりをそっと出すようなマネはしなかったろうが、それにしても、碁を打っている龍馬をみて、薩摩は、
「浪人のくせに、碁を打ちよる」
と悪口するような土地柄であった。居心地がよかったとはいえまい。
(人に、生活の厄介になってはだめだ)
と、龍馬はひとしお感じたにちがいあるまい。が、
「人の厄介にならない」
とは思っても、かれは、当座の生活の道さえ立てばいい、というちまちましい自立の方法をとらなかった。
 突然、亀山社中のような気宇壮大な着想を実現してしまうのだ。つまり”小さな動機”を”大きな実現”に変えてします。これが龍馬の独創だ。
 そして、ことことは、迂遠なようでも、かれが一旦、常識次元に身を置いてすごした時間を、一挙にとりもどしてしまう。いや、とりもどるだけでなく、十分なおつりがくるほど、先のほうへ飛躍するのだ。
「常識的経験を独創的飛躍への土台にする」
これが龍馬の行動哲学だった。

■海援隊規約を現代風にすると

<本文から>
 短い規約であるが、この中には、かなり思い切った考え方が幾つも入っている。即ち、
○「脱藩の者、海外開拓に志ある老皆しの隊に入る」というのは明らかにタテ社会からヨコ社会への移行を目指している。この考えの中には、既に幕藩体制という組織秩序はない。その人間の入隊資格は、藩を脱して、自己を解放し、全く自由な立場に立ちながら、海外開拓に志を持つという共通志向を持つ者に限られている。これは明らかに、坂本龍馬の当時の日本の社会秩序に対するアンチテーゼであり、また、そこから脱してくる勇気ある青年群の、連帯による集合体を目指している。
○「国に付せず、暗に出崎官に属する」というのは、現在で言う現場あるいは出先機関に対する権限の全面移譲を意味している。しかも後に出てくるように、出先機関の事業収入が欠如した場合には、本社から資金を補給するというのだから、まあ、考えようによってはかなり条件が良いというか、虫の良い扱いを決めたという事も出来よう。しかし、いずれにしても、本藩の支配から脱して、出先機関に完全権限を付与したというのは、やはり似いきった着想と言うべきだろう。
○海援隊の事業というのは、この規約に書かれたとおり、「運輸射利、応援出没、海島を拓き、五州の与情を察する等のこと」をなすとある。運輸射利はメーンになる事業だと言えようが、応援出没というのは暗に軍事行為を指しているだろう。また、海島を開きというのは新しい領土拡張を意味しているのかも知れない。問題は最後の五州の与情を察するという言兼で、これは朗らかに、謀報活動、情報収集活動を指している。もちろん、海を油じての運輸射利を行うには、その時々の物流や物価の状況、あるいはその頃最も何が求められているのかという需給状況等が欠く事の出来ない情報であることは確かである。しかし、ここで言う五州の与情を察する等のことというのは、それだけではあるまい。むしろ、政治情報の収集を意味していると思える。
○「仰ぐところの銭量、常にこれを給せず、その自営自取に任す。但し、時に臨んで官すなわちこれを給す。もとより定額なし」というのは、一面、本藩から見た海援隊の性格を示している。完全に権限を移譲した出先機関の支配下にある海援隊は、基本的には自給自足しろという意味である。しかし、時に臨んで、即ち思わぬ資金欠乏を生じた時には、本藩の方で面倒を見ますよ、しかし、その筋は別に決めておかないという意味である。

■海援隊規約には第三の道の思考を入れている

<本文から>
これもまたAかBという二極選択を好む日本人の思考から言えば、明らかに第三の道を選んでいる。
その証拠に、海援隊を作った後、京都に出た龍馬は、後藤象二郎、福岡藤次、佐々木三四郎、毛利荒次郎、中岡慎太郎、望月清平らと国家の事を論じたが、その時に、
「好物役人に騙されたとお笑いにならないで下さい。私一人が五百人や七百人の人を率いて、天下のために働くよりも、二十四万石を率いて、天下国家のために尽くした方が甚だよろしいと考え、恐れながらこれらのところは、乙様の御心には、すこし心が及ぶことと思います」
と乙女に返事を書いている。龍馬を理解すること、母親の如くであった乙女は、恐らくこれによって龍馬の真意を知ったことであろう。

■無資本の龍馬が偉業を成し遂げたのは人間関係主義による

<本文から>
 坂本龍馬は、幾つかの偉業を成し遂げた人物だが、そのほとんどが、今流の言い方をするならば、無資本で行ったと言える。早く言えば、龍馬は、彼の偉業を、ほとんど他人の袖で成し遂げたと言える。彼自身は、そういう偉業を成し遂げる組織とか資本力とか、必要資材とかをほとんど持っていなかった。
 何故、それが出来たのか。
 それはやはり、彼の独創的な人間関係主義による。独創的な人間閑係主裁というのは、
○人との出会いを重視する。
〇従って出会う人を選ぶ。
○即ち、人間の一級品主義を貫いた。
〇二流品、三流品、四流品の人間はほとんど黙殺した。
〇社内よりも、社外の人脈の設定の妙手であった。しかも、それを日本的規模でネットワークを張った。
○しかし、決して人に執着せず、状況にょって人を見限るタイミングの良さも持っていた。つまり、見捨てる非情の精神の実行者でもあった。
○先輩に優れた人物が多かった(勝・大久保・桃井・西郷・桂等々)。
○龍馬は、他人が自分で気が付かない妙手妙案を引き出す能力に優れていた。つまり、龍馬は、他人から社会のためのアイデアを引き出す誘発剤的機能を持っていた。
○この事は、龍馬は話上手でもあったが、並行して聞き上手でもあった。人々は龍馬に、巧みに自分のアイデアを引き出された。
〇龍馬は、他人のアイデアを増幅して、実現する機関的実践着であった。
 しかし、何故、龍馬は、この事が可能であったのだろうか。それは、やはり龍馬自身の人間的魅力に帰着せざるを村ない。
 龍馬の人間的魅力というのは、例えば、
○底にいつも市民精神が流れていたこと。
○歴史のうねりに乗ってはいるが、そのうねりの上にあるさざ披を一向に気にしなかったこと。
○エネルギッシュであったこと。
〇いつも女に好かれ、女を愛していたこと。
○自己変串を続け、脱皮に次ぐ脱皮を続けたこと。
○剛胆で、何時も生命がけであったこと。
○ヒューマニズムを打き、自己愛よりも他人への愛を持ち続けたこと。
○巨大な未完成品の印象を与えたこと。
○傲慢のように見えるが、実は非常に謙虚であったこと。自己の限界を良く認識していたこと。
などであろう。こういう魅力が、龍馬という人間像を、当時の日本人から際立たせ、多面性を持たせ、それだけに多角的な立場からの支持者を多く糾合したという事が言えよう。

■女性に支えられた龍馬

<本文から>
  女性は天の半分を支えている。
したがって女性の支持を和られないようなタイブの男性では、出世はともかく、何ごとかを為し得ないことはたしかである。                .
 しかし、可能なら、
@スキャソダルは少ない。もしくは無い。
Sしかし、女性の支持がある。そして協力してくれる。
 という二条件を満たすのが理想的的である。昔も今も同じだ。
 龍馬はその理想型に近い。
龍馬には、女性に関するエピソードが結構たくさんある。しかし、それらはいずれも、いわゆる浮き名を流したとか、艶っぼい話だとかの類いではない。
 代表的なのはおりょう(龍)との愛、あとは江戸千葉道場のさな子とのほのかな恋、そして長崎の芸妓お元との交情などである。
 そのほか、これは恋愛とはいえないが、乙女姉をはじめとしてお栄姉、寺田屋お登勢などの多彩な女性群がいる。
 龍馬は、それほど女性に対んて積極的だったわけでもないし、特にモテるタイブだったわけでもなかった。

■人を憎んだという例はない


<本文から>
 彼の数々のエピソードにおいて、その三十三年の短い生涯において、人を憎んだというような例は全くない。彼は他を愛し続けることによって、自分の生命を、最後まで燃やし続けた人間であった。
従って、彼のいわゆる大事業である、例えば薩長連合にしても、海援隊の創設にしても、あるいは大政奉還にしても、あるいは自己自身が斬られてしまうあの暗殺の夜にしても、全て私の心なく、公の心に基づいた、他を愛する動機によって起こった本件であったといえよう。坂本龍馬は最後の最後まで、他を愛することによって生き抜き、そしてまた、そのために自ら滅びていった人間であった。
 こういうような、他愛によって、自己を貫き通すというようなリーダーは、現今ではなかなか発見できない。そういう意味では、他を咎める前に、まず自己を振り返るというようなことを、現代人の全てが、もう一度考えてみる必要があるだろう。他を愛さずして、自分だけを愛せ、というのは、エゴイズムにすぎない。
「目別の一本の木に捉われず、その奥にある林や森全体を展望する」
 ということであろう。彼にとって、京都にいる若い青年群は、これからの日本を背負う貴重な人材の群れであった。如何に状況の切迫とはいえ、京都に火を放って町を炊き、町民苦しめ、そして佐幕派の領袖達を殺すなどという計画には、到底賛同しがたかったのである。龍馬は、森の彼方に海を見ていた。海の彼方に外国を見ていた。地球を見ていた。彼の脳中には、既に、日本の将来の構想があり、それを担って立つべき青年郡のイメージがあった。それは速成で生まれるのではなく、実際に今、京都で苦しみ、足撒き、時に突出しようとする青年群そのものであった。彼にとってに常に大切なのは、若い生命、即ち人材の群れであったのである。

■船中八策

<本文から>
 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事。
一、上下義政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議をとり、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折求し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍よろしく拡張すべき事。
一、御鋭兵を置き帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるなし。いやしくもこの数策を断行せば、皇国を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するもまた敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下を更始一新せん。
 この新しい政権構想のプログラムは、四カ月後に大政奉還として実現したのみならず、翌年にほ五力条誓文へと発展していくのであった。

■複眼の思想をもつ

<本文から>
 「龍馬は単純な勤王家ではなかった」
 点と相通じる。
 これも複眼の思想、といって良い。薩長連合の約定でも、
一、戦争になったらどうする。
一、勝ち戦になりそうだったらこうする。
一、負けそうならああする。
 という風に、様々な場合を想定している。
 決して、革命戦争に酔っていない。冷静なのである。
龍馬は単純な反戦主義者ではなかったし、無論、臆病者でもなかった。その証拠に慶応二年、第二次幕長戦争中では長州藩側に立って参戦し、ユニオン号を操って強力かつ多数の幕艦と戦い、高杉普作を助けている。
龍馬が恐れたのは、ほかでもない。内戦の長期化によって植民地主義列強の進出を許すことである。
 以上の情勢分析の上に立ち、しかも薩長藩閥政権を避ける−という秘策が、
「大政奉還」
 だったのである。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ