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<本文から> 「自分で自分を掘る時代」
になっているからだ。その掘り方も、いままでの日本人の好きな、
「AでなければBだ」
と、きめつける″二極対立式″の発想では、ことがすまないことを、多くの人々が知っている。
既成のふたつの道を辿るだけでは、カタのつかない複雑な世の中になっている。その複雑な世の中で自分を掘り、生き抜く可能性を追求する、いわば、
「新しい第三の道」
を皆が求めている.
「期待される自分像」
の発見と確立にほ、まだ、いまの社会に確立されていない″第三の道″が必要なのだ。
坂本龍馬は、その″第三の道″を自分で拓いた。しかも、前に掲げた″次世紀への生きのこりの条件″を、ひとりで全部そなえている。しかし、ホラ吹き、とか異能とかいわれて、その当時は、かれの発想や行動に従いて行く日本人は少なかった。
その中で、かれに従いて行った数少ない人々が、日本を変えた。龍馬は、″第三の道″を拓いて自分を掘ったが、そのことは同時に日本を掘った。日本に″第三の道″を示した.
人間は、どんな人間でも必ず自分の鉱山を持っている.鉱脈を持っている.そして、ほとんどの人が、その鉱脈に気がつかない。気がついていても、
「自分の鉱脈からは大した鉱物が出ない」
とか、
「山が硬くて、とても掘れない」
とか、掘る前にあきらめてしまっている人も多い。
しかし、現代ほ、そういうあきらめも甘えの一種である。甘えの表だというのは、たとえ、いやでも、つらくても自分を変えなければ生きて行けない、というさし迫った状況になっているからだ。自分を変えるということは、変えられない、ときめこんでいる〃心の壁〃を割って、はめ替えることでもある。
つまり、それぞれの人間の”心の壁”は、決して一枚板ではない。割って分解できる。捨てて新しいのととりかえることのできる壁だ。
自分を掘る、ということはそういうことである。
そこで、そういう視座から、もう一度改めて坂本龍間の生涯と、その軌跡の中から、私たち自身が自分を掘る方法を探ってみたい。
即ち、きびしい現代社会を生き抜くための、
「期待される自分像」を確立するために、
「自分を掘った人悶」
としての龍馬を考えてみたい。そして、龍馬の自分を掘る行為が現在と同じょうに、閉塞状況にあった、当時の日本の社会を、いかに掘ることにつながって行ったかを、みきわめたい。
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