童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂本龍馬の人生訓

■自己変革をなしとげた龍馬

<本文から>
 坂本龍馬が友人の檜垣清治と行きあうたびに、自分を変革していた話は有名だ。
 つまり、
 「長い刀から短い刀」「短い刀からピストル」「ピストルから万国公法」というように、古い武器から新しい武器、新しい武器から法律(あるいは民主主義といってもいい)に、変化の象徴を求めながら、自分自身の体質変革を告げた話である。
 この自己変革の過程は、かれの生涯にも、そのままあてはまる。わずか三十三年の生涯ではあったが、多くの伝記作者は、坂本龍馬の生涯を、三つないし四つの時代に分けて考える。
 第一の時代 龍馬が土佐の町人郷士の子として、育った時代
 第二の時代 龍馬が尊王壊夷の志士として活躍した時代
 第三の時代 ヨーロッパ航海術の修業の時代
 第四の時代 日本の新しい国家体制を模索し、構想し、その実現のための政治思想を完成させる時代である。第一、第二が刀、第三がピストル、第四が万国公法ということになろう。
 日本にとっては第一期はペリーの来航に始まる未曾有の国難に遭遇した時代で、特に武士達がその責務を強く感じた時代である。
 第二期は、日本が真っ二つに割れ、保守と過激の二派に分かれて血で血を洗うような、騒乱の時代であった。
 第三期は、いかにしても外国を武力で撰つことは無理だという考え、すなわち攘夷は不可能だという認識が行きわたって、理性が激情に取って代わる時代である。
 第四期は、地球的な認識で、日本の政体をどうすればいいのかという統一国家を志向する時代であった。
 いずれにしても、坂本龍馬の生涯は、日本が遭遇したこれらの一期から四期までの歴史的状況にそのままオーバーラップする。
 そして彼は、この歴史状況に極めて忠実に生き抜いた。いや、当時の日本人で、日本が遭遇したこの歴史状況に、自己の生涯を坂本龍馬ほど忠実にオーバーラップさせて生き抜いた人物はいない。多くの人は、歴史状況に対して、たじろぎ、震え、あるいは逃げ、あるいは逆らい、いずれにしても個という小さな枠からなかなか脱皮できない状況の中で、龍馬は、自己を日本人として見詰め直し、また、見詰め直す自己を自分の中に第三者として存在させるだけの器量を持っていた。
 なぜ、彼に限ってそういうことをなし得たのか。
 「彼は昨日の彼ならず」
 という言葉がある。今日の坂本龍馬は昨日の坂本龍馬ではなかった。龍馬にとって、明日になれば今日は即昨日に変わった。つまり、龍馬は、日々新たなりの言葉通り、自己を果てしなく変革していった。自己変革とは、脱皮につぐ脱皮の行為だ。龍馬は昨日の自己に何の未練ももたなかったし、捨てても惜しいとは思わなかった。この連続性のある脱皮精神が龍馬を龍馬たらしめた。現代に最も欠けている精神だ。
 即ち、龍馬は二千年前の中国の思想家が口々に唱えた、
 「社会を変革する者は、まず自己の変革者でなければならない」
 という言葉を、そのまま実践したのである。
 同時に坂本龍馬は、歴史の彼のうねりの中に生きた。うねりの上に浮かんだ小さな波、つまり、さざ波を一切気にしなかった。その意味では彼の生涯は、こせこせ、ちまちました一生ではなかった。太い丸太棒のような、時世にとっての大切なモチーフを包含する、大づかみな生き方であった。
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■応用拡大の人

<本文から>
 龍馬の発想は、
○すぐれた他人の考えを、そのまま自分のものとする。
○すぐれた他人の考えを、ふくらませて自分の考えにする。
○すぐれた他人が、その考えを自ら否定する場合も、龍馬が代わって実行する。
 などに分けられるが、いずれにしても龍馬は、
 「独創力の人」
  ではない。むしろ、
 「応用拡大の人」
 だ。″第三の道″を辿る人物である。
 それにしても、他人の考えを応用拡大するには、それ相応のすぐれた他人と出会わなければならない。
 龍馬の一生は、その意味で、
 「すぐれた他人との出会いの一生」
 である。すぐれた他人とめ遭遇をくりかえすことによって、龍馬の発想方法は磨かれぬいた。
 くりかえすが、龍馬は、決して、自分から何かを創り出す人間ではなく、他人に影響され、得たヒントを最大限に活用する人間であった。
 そのことを、マメに、丹念にやりぬいた人間なのである。
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■城を無視したので縛られなかった

<本文から>
 その権威の象徴であり、続治権力の表現が城である。
 土佐にあっては高知城だ。
 もともとは戦国時代に長宗我部元親が土佐を平定し、ここに築城した。天正十六年のことである。しかし、数年で浦戸に移った。今の桂浜の近くである。
 関ケ原の役で長宗我部氏は滅び、山内一豊が遠州掛川六万石から土佐二十四万石に封ぜられ、再び高知城を築いた。その後、町から出た火によって大半焼失したが、宝暦三年、再築した。
 今でも天守閣と追手門がそのまま残っている。
 追手門は切り石を積んだ石垣に囲まれ、大きく堂々とした木割りの豪壮なものである。
 龍馬は、この門から中へ入ったことはないはずだ。また、入る気もなかったろう。そういえば、龍馬と城という結びつきは、まったくない。龍馬は生涯、城を黙殺して生きた。
 天守は小規模ではあるが、二層六階、白亜の優雅なものである。周辺の緑とよく調和している。殿様が人と謁見する部屋をはじめ本丸書院を今でもそのまま見ることができる。
 城山と天守の高さを併せて六十メートル余り、高知の街のどこからも仰ぎ見ることができる。
 城から国道三十三号線に出ておよそ二十分も歩くと龍馬の生家だ。とでん(土佐電鉄)上町一丁目停留所の脇、上町病院のそばに「坂本龍馬先生誕生之地」という碑が立っている。
 龍馬は、この地点から毎日、入れてもらえぬ城を眺めて、恐らく、
 「フン」
 と思っていたことだろう。
 だが、半平大のほうは城に出入りすることができた。容堂にも会えた。
 それが間違いのもとだった。
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■龍馬の動機は経済の重視

<本文から>
 明治維新の始期は一体何時からか、ということがよく論議される。
 ある人は単純にペリーの日本来航の時からだ、と言い、ある人は、いや天保改革からだ、と言う。あるいは、文化・文政の時にその基がある、と言う人もいるし、そうではない、徳川幕府が開設された時から、維新の芽は既にあった、と言う人もいる。
 いずれが正しいのか、ここでは深く追究はしない。
 しかし、坂本龍馬の行動の軌跡を辿ってみると、明らかに一つの流れがある。それは、龍馬が徳川幕府を解体再編成し、あるいは消滅させて新しい政体を創設する、という政体変革闘争に、全生命を燃焼させたことは事実である。しかし、果たしてその行為を政治的側面からだけで見て良いのだろうか。
 龍馬の動機は、むしろ経済の重視ではなかったかと思われる。つまり、龍馬にとって、倒幕闘争は、
 「政治闘争よりもむしろ経済闘争であった」
 のである。
 はっきり言うならば、当時の幕府が独占していた貿易権を、雄藩が奪取しようという闘争であった。
 彼は、浪人という立場上、他人の褌を大いに活用しながら維新実現という大相撲をとった男だ。その他人の褌である薩摩と長州は、かなり前から、藩政改革、特に経済改革を成し遂げていた。言うならば、厳しい行政改革によって、財政再建を成し遂げていた。財政を再建しただけでなく、大量の洋式武器を買える程の余剰金まで持っていた。薩摩と長州が、倒幕闘争に勝利し得たのは、この余剰金による洋式武器購入が可能だったからである。この両藩が、依然として、旧来の日本の武器しか持てなかったならば、到底、幕府は倒れなかった。そういう武器ならば、むしろ幕府の方が、多くの量を持っていたからだ。
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■自力で経済的基盤を確立したから思想と行動が自由たり得た

<本文から>
 幕府の浪士狩りに対して、単なる薩摩藩の食客に堕せず、船に関する知識を活かした自主的な商売を行った点に龍馬の面目がある。
 しかも操船技術ではなく、それを基礎にして海外と商取引をしたこと、龍馬が政治・外交に飛びまわっていても、上杉、高松らが商いを成立させるなど亀山社中がカンパニーとして機能し始めたこと、さらにそれを基盤に龍馬が政治家として飛躍を遂げることなどが、この時期の龍馬を取り巻く状況変化の特徴である。
 勝の手を離れた龍馬が自己の政治的立場を自力で確立するのである。
 そして、その翌年には早くも、かつて勝が江戸城大広間で説いて実現しなかった大政奉還を、弟子の龍馬が実現する。
 龍馬は書に依らず、耳学問と天性の勘に依って、近づく近代資本主義経済を先取りしていた。
 だから剣に頼らず、軍艦・兵器の商売に頼り、幕府や藩に頼らず、自前のカンパニーに頼った。そしてその卓抜した政治手腕も、独創的な努力による経済的実績と、海のような人格的魅力を兼ね備えたからこそ発揮できた。
 ひとことでいえば、坂本龍馬は、自力で経済的基盤を確立していたからこそ、思想と行動が自由たり得た、といえるのだ。
 考えてみれば、明快な理なのだが、当時はまだまだ賤商″の気風があり、特に侍が商売をするなどということは考えられなかった。しかし、そんな考えは、龍馬にすれば、
 「はめ替えのきく心の壁の一枚」
 であって、いとも簡単にとりはずせる。
 龍馬が積極的に破って行ったのは、つねにこの意識の壁である。ちょっとした発想の転換によって、どうにも破れる心の壁であった。だから龍馬は破った。
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■独創的人間関係をつくりだした龍馬の魅力

<本文から>
 坂本龍馬は、幾つかの偉業を成し遂げた人物だが、そのほとんどが、今流の言い方をするならば、無資本で行ったと言える。早く言えば、龍馬は、彼の偉業を、ほとんど他人の禅で成し遂げたと言える。彼自身は、そういう偉業を成し遂げる組織とか資本力とか、必要資材とかをほとんど持っていなかった。
 何故、それが出来たのか。
 それはやはり、彼の独創的な人間関係主義による。独創的な人間関係主義というのは、
 ○人との出会いを重視する。
 ○従って出会う人を選ぶ。
○即ち、人間の一級品主義を貫いた。
〇二流品、三流品、四流品の人間はほとんど黙殺した。
○社内よりも、社外の人脈の設定の妙手であった。しかも、それを日本的規模でネットワークを張った。
○しかし、決して人に執着せず、状況によって人を見限るタイミングの良さも持っていた。つまり、見捨てる、見限る非情の精神の実行者でもあった。
○先輩に優れた人物が多かった(勝・大久保・横井・西郷・桂等々)。
○龍馬は、他人が自分で気が付かない妙手妙案を引き出す能力に優れていた。つまり、龍馬は、他人から社会のためのアイデアを引き出す誘発剤的機能を持っていた。
○この事は、龍馬は話上手でもあったが、並行して聞き上手でもあった。人々は龍馬に、巧みに自分のアイデアを引き出された。
○龍馬は、他人のアイデアを増幅して、実現する機関的実践者であった。
 しかし、何故、龍馬は、この事が可能であったのだろうか。それは、やはり龍馬自身の人間的魅力に帰着せざるを得ない。
 龍馬の人間的魅力というのは、例えば、
○底にいつも市民精神が流れていたこと。
○歴史のうねりに乗ってはいるが、そのうね吟の上にあるさざ波を一向に気にしなかったこと。
○エネルギッシュであったこと。
○いつも女に好かれ、女を愛していたこと。
○自己変革を続け、脱皮に次ぐ脱皮を続けたこと。
○剛胆で、何時も生命がけであったこと。
○ヒューマニズムを貫き、自己愛よりも他人への愛を持ち続けたこと。
○巨大な未完成品の印象を与えたこと。
○倣慢のように見えるが、実は非常に謙虚であったこと。自己の限界を良く認識していたこと。
 などであろう。こういう魅力が、龍馬という人間像を、当時の日本人から際立たせ、多面性を持たせ、それだけに多角的な立場からの支持者を多く糾合したという事が言えよう。
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■女性を常に一個の人格として能力者として尊重

<本文から>
 いずれにしても、この時の龍馬はすでに二十七歳である。しかし、この頃の龍馬の思想は、まだ混沌としていて、カオス状態にある。思想が思想として確立し、行動の方法までともなうには、普通、気体から液体へ、液体から粘体へ、粘体から固体へというプロセスをたどる。その意味では、この時期における龍馬の思想が、一体、どのような状況であったのかわからない。カオスといい、気体といい、いずれにせよ、その中に何らかのモチーフがあるはずである。が、まだ、この頃の龍馬にはそれが感じられない。無に等しい。しかし、彼の三十三年の生涯からすれば、すでに余すところ六年しかない時期である。人間が自分の死期を知っているとすれば、命の持ち時間は残り少ない。
 そう考えてみると、龍馬が、ほんとうに龍馬らしく行動するのは、ほんの数年のことなのだ。改めてその時間の短さ、それだけに、その短い時間に、かれが実現した事業の偉大さを思い知らされる。
 いずれにしても、龍馬の女性に対する態度を見ていると、その職業の貴賤を問うことはおろか、知能の程度や容貌の美醜その他に対して一切差別していないことがわかる。女性を常に一個の人格として、能力者として尊重している。自分の行為の一部をともにしてもらおうという気持ちがはっきり現れている。彼が単なるフェミニストでなく、行動者として、同志として女性を認識していたことがよくわかる。そういう気持ちを持つことは、当時の社会にあっては、まれな事であったろう。それだからこそ、平井かをもあるいは千葉さな子も、あるいは後のおりょうも寺田屋お登勢もすべて龍馬に渾身の協力を惜しまなかったのである。それは龍馬の人間性から発した、女性尊重の精神にうたれたからだ。
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■龍馬の語録といわれる『英将秘訣』の人生観

<本文から>
 坂本龍馬の人間性については、たとえば、『坂本龍馬と明治維新』を書いたマリアス・B・ジャンセンは、次のように書いている。
 「波潤万丈のその生涯、陽気で自信に満ちた挙措や手紙などは、国民が心中に求めていた維新の志士の映像と正にピッタリだった。その鋭い機知、実行力、地位や権威への無関心、金鉄問題での鷹揚さ、危機に臨んで動ぜぬ沈着さ等を物語る数々の逸話は、同じく彼の智勇兼備の英傑たる役柄に似つかわしかった」
 この龍馬観は、おそらく誰にも異論はあるまい。このように龍馬は、この世に生まれた人間としての魅力を、一人ですべて持っていた。龍馬はその言葉と行動のために、早くいえば佐幕派と討幕派の両方から命を狙われたが、よく考えてみると、龍馬自身狐敵を含めて、あらゆる人間を憎んだという形跡は全くない。
 いかに命をつけ狙われても龍馬自身は、決して相手を憎んだりはしていないのである。これは龍馬の最大の魅力だ。むしろ、彼は自分の命を狙うような佐幕派の役人や新撰組や、見廻組の連中を、ニコニコと、その職務の忠実さを愛していたとさえ思える。立場が違えば当然なのさ、というような余裕さえ感じられる。
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■一流の人物達が龍馬に自分の思いを完成してくれると期待した

<本文から>
 龍馬は、このように、三人の姉達の、何かに対するコンプレックス、あるいは挫折感を自分に託されることによって、一つの期待を受けていたといって良い。それは、前に書いた幕臣や、あるいはそれぞれの藩の有為な人材達が、一時期、何らかの理由によって、挫折したにもかかわらず、その挫折感を逆用して、嵐向きに作用するというような、あらゆる意図として龍馬自身が、それを受けとめたのではあるまいか。
 そういう意味で、坂本龍馬は、この世の挫折者達の、しかも挫折しっぱなしでは、我慢の出来ない人々の、その胸に燃えていた不完全燃焼燃料の、火をつければ必ず燃える燃料を受けとめたといって良い。
 このことは、一面、不幸なようであるが、実際には、龍馬にとっては、非常に幸福なことであった。何故ならば、挫折者達が、全て一流の人物であったからである。一流の人物達が、たとえ挫折したといえ、その不完全燃焼燃料については、私心がない。全て公心である。公のために、つまり社会のために、何かを成し得たいと思うからこそ、その胸の中で、挫折後も、燃料を何とかして火を付けたいとして足掻くのである。
 そこにたまたま坂本龍馬が現れたのであった。幕臣といわず、外様藩の家臣といわず、大名といわず、あるいは肉親といわず、あるいは彼を取り巻く知己といわず、龍馬に語りかけた人々、あるいは交流を深めた人々の全ては、自分の胸の中に潜んでいる、あるいは燃えている、そういうこの世のため社会のために、何かをしなければいけないという義務感に燃えている、ある構想や、ヒントや、あるいは未完成の考えを全て龍馬に託すことによって、己れのエクスタシー、つまり自己燃焼を期待したのである。
 そういう人達が何故、龍馬を選んだのかは一概に言うことは出来ないが、あるいは龍馬の持つ人間的魅力だけでなく、
 「この男なら、必ず自分に代わって、自分の思いを完成してくれる」
 という直感が働いたのに違いない。
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