童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂本龍馬「自分」を大きくする法

■評価など気にしない

<本文から>
 龍馬の自由で創造的な生き方の秘訣の一つに無欲と自己否定の精神がある。
 それは、別の表現をすれば、「他人の評価を期待しない」、あるいは「他人の評価など気にしない」ということである。これは、師の勝海舟が、後に「行ないはわれにあり、評価は他にあり、われ、関せず」と言ったのと同じだ。
 このことは自分が気にしない、こだわらないだけでなく、他人に対してもそれを求めた。たとえば、薩長連合の話をまとめるときなど、その例だ。慶応二年(一八六六)正月、龍馬が厳重な警戒網を突破して上京してみると、薩長連合の話し合いは意外に進展していない。
 「おかしいじゃないか」
と長州藩の桂小五郎を問い詰めると、
 「薩摩は朝廷とも、幕府とも、諸藩ともつき合いがある。いわばフリー・ハンドだ。それに対してわが藩は朝敵の汚名を着て天下に孤立している。こちらから連合を言い出すのでは憐みを請うことになる。言い出せるものか」
 と桂は答えた。
 つまり桂は、面子にこだわり、見栄を張っているのである。自由人龍馬と違って、桂は藩という体制の中に組まれた官僚制の中で生きてきたため、また桂自身そういう体制が決して嫌いではないため、
 〈こつちから先に言い出したら、長州藩やおれが世間からどう思われるか)
と、しきりに他人の評価を気にしている。これは相手の薩摩藩にしても同じだった。
 このとき、そこにいた大久保利通は維新後に日本の近代官僚制の基礎をつくつた人である。自信と誇りに満ちた性格だから、対外折衝で自分から身を屈してことを持ち出すような真似は絶対にしない。
 もう一人の同席者西郷隆盛はちょっと違う。桂が延々と、薩摩藩の近年の行動の非を説くと、黙って最後まで聞いて、ひとことポッリと、
 「ごもっともです」
 ともらす。が、そこまでだ。西郷もまた自分からは言い出さない。別段、策を弄するわけではなく、逆に桂の心中を察して自分からは言い出さない。
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■一流の人物たちが坂本龍馬という恰好の媒体を得てすべてを注入した

<本文から>
 坂本龍馬は、こういう不遇者たちに目をつけた。一級の人物が不遇なときに、そのまま黙っているはずがないと思ったからである。一流の人物が、自分の能力を伸ばす場を与えられなければ、当然そのもっている能力は、不完全燃焼現象を起こす。そこへ、たまたま龍馬のような聞き上手が現われれば、腹膨れているこの連中は、何でもいいから、とにかく、自分の考えていることを誰かに伝え、伝えたその誰かが実行してくれればいいと願う。坂本龍馬はこの手を使った。したがって彼がこの時期に得たヒントは、当代一流の人物たちが、世に現わす場を失っていたにもかかわらず、坂本龍馬という恰好の媒体を得て、自分のもつものをすべて龍馬に注入したものであった。
 その意味では、龍馬は、人間の一級品を選ぶと同時に、しかもそれが、権勢の頂点にあって、わが世の春を謳っている人々ではなくて、逆に、不遇をかこっているような連中から、思いの丈を、底の底まで漂い立てて、全部自分のものにしてしまったということが言えよう。
 当時、すでに大久保一翁は、大政奉還の構想をもっていたし、これは龍馬を経て、具体的には永井尚志に引き継がれる。徳川慶喜の大政奉還の文章を書いていたのは、永井尚志である。
 松平春嶽や横井小楠の挫折については、改めて書くまでもない。井伊大老の安政の大獄によって、松平春嶽はたちまち隠居させられたし、しかも蟄居させられた。井伊大老にすれば、一橋慶喜を将軍に推しながら、幕政に対して、あれこれ嘴を挟む松平春山獄のような存在は、蟄居中に獄死でもしてくれればいいと願っていたに違いない。横井小柄は、その松平春山獄のブレーンである。
 横井小柄は、実学党と称して、中国古代の学問を信奉しながら、しかもなお、勝海舟から聞いたアメリカの大統領制や、その政府組織にひどく感銘し、日本をそういうように変えたいと願っていた人物である。その思想は、熊本藩では通用せず、多くの藩人にうとまれ、また、小楠自身の酒癖の悪さもあって、熊本薄では彼を相手にする者はいなかった。小楠に日をつけたのは、むしろ遠い越前の松平春嶽であった。春嶽は小楠をブレーンにした。
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■第三の極を選択、差別の解放に目的があった

<本文から>
 そのために、龍馬は、相対立する、本来はあり得べくもない、A極からもB極からも、共に狙われるというような事態を生ずるのである。
 しかし、龍馬はこれを恐れなかった。第三の道を選ぶ以上、それは第三の極の選択であって、当然、A極とB極を敵にするものである。しかも、C極とも言うべき第三の極は、龍馬自身が新しく創り出したものだから、長年の慣習に慣れたA極派とB極派には理解してもらえるはずがなかった。
 しかしそれにもめげず、龍馬はあくまでも柔軟な思考と柔軟な行動力によって、第三の極を最後まで貫き通したのである。それは、日本の社会秩序から脱し、世界を規模とする新しい日本人の棲息次元を目指していたからにほかならない。そういう自信が龍馬にあった。海援隊は、その自信を具体的に実現するものであった。龍馬が後に、岩倉具視や西郷隆盛に、
 「私は政府高官にならず、世界の海援隊をやりたい」
 と言ったのも、決して負け惜しみでも冗談でもなかった。本心で彼はそれを考えていたのである。海援隊というのは、もちろん彼の商人的発想に基づく、いわば一種の密輸艦隊であったが、彼は決して、そうは思わなかった。その運輸射利の底に、自由人の連帯によって、市民のための政治を実現するきっかけとなる集団が、すなわち海援隊であるという誇りがあつた。このことは、それまで人々から、特に武士階級から卑しめられてきた、
 「射利、投機に正式な市民権を与えた」
 という自信が彼にあった。
 言うならば、坂本龍馬の思想と行動の軌跡は、すべて、
 「不当に評価され、差別され、疎外され、抑圧されているもの」
 を、すべてその差別感・疎外感・抑圧感の栓桔を取り去り、解放するところに目的があった。特に、商行為に対する蔑視、すなわち、徳川幕府が貫き通してきた重農主義を捨てて、重商主義を加味するという、政策転換に彼の大きな行動日標があったことは事実である。
 これはもちろん、彼の生家が大商人であったということも大きく影響していよう。
 しかしそれ以上に、龍馬の心を支配していたのは、不当に虐げられている者に対する、同情と、その解放意欲であったことは確かである。特に人間に対する桂桔を取り去ることが、生涯の全生命を燃焼して実行していった目標であった。
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