童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂本龍馬 人間の大きさ

■日々新たなり、自己を果てしなく変革していった

<本文から>
  なぜ、彼に限ってそういうことを成し得たのか。
「彼は昨日の彼ならず」
 という言葉がある。今日の坂本龍馬は昨日の坂本龍馬ではなかった。龍馬にとっては、明日になれば今日は即昨日に変わった。つまり、籠馬は、日々新たなりの言葉どおり、自己を果てしなく変革していった。自己変革とは、脱皮に次ぐ脱皮の行為だ。龍馬は昨日の自己に何の未練ももたなかったし、捨てても惜しいとは思わなかった。この連続性のある脱皮精神が龍馬を龍馬たらしめた。現代に最も欠けている精神だ。
 すなわち、龍馬は二千年前の中国の思想家が口々に唱えた、
 「社会を変革する者は、まず自己の変革者でなければならない」、
 という言葉を、そのまま実演したのである。
 同時に坂本籠馬は、歴史の波のうねりの中に生きた。うねりの上に浮かんだ小さな波、つまり、さざ波をいっさい気にしなかった。その意味では彼の生涯は、こせこせ、ちまちました一生ではなかった。太い丸太棒のような、時世にとっての大切なモチーフを包含する、大づかみな生き方であった。この章では、そういう龍馬の、自己変革の歴史をたどってみる。

■脱藩によって龍馬の思想と行動は大いに自由を獲得

<本文から>
 幕末の脱藩者のたどる道としては、テロルや挙兵が典型的だ。龍馬と前後して脱藩し、天誅組の乱を起こした武力討幕の先駆者吉村寅太郎などがこれに当たる。半平太も、この吉村寅太郎の脱藩は、
 「功名心による暴発」
 ととらえ、あまり評価していない。
 しかし、龍馬の脱藩は、はじめから目的が違った。テロルのためではない。寵馬の行動にとっては固い桎梏である藩を超越しようとするものであった。
 だから、龍馬は脱藩後、馬開(下関)から吉村黄太郎のあとを追わず、九州を回遊し、大坂を経て江戸へ行く。そして幕臣勝海舟と会見し、心服して入門、航海術を学ぶに至る。
 脱藩によって龍馬の思想と行動は大いに自由を獲得した。彼は自分を白紙にした。自分を掘る鍬を握ったのである。脱藩は彼にとって原点であった。

■他人の評価などまるで歯牙にもかけなかった男

<本文から>
 龍馬の自由で創造的な生き方の秘訣の一つに無欲と自己否定の精神がある。
 それは、別の表現をすれば、「他人の評価を期待しない」、あるいは「他人の評価など気にしない」ということである。これは、師の勝海舟が、後に「行ないはわれにあり、評価は他にあり、われ、関せず」と言ったのと同じだ。
 このことは自分が気にしない、こだわらないだけでなく、他人に対してもそれを求めた。たとえば、薩長連合の話をまとめるときなど、その例だ。慶応二年正月、龍馬が厳重な警戒網を突破して上京してみると、薩長連合の話し合いは意外に進展していない。
 「おかしいじゃないか」
 と長州藩の桂小五郎を問い詰めると、
 「薩摩は朝廷とも、幕府とも、諸藩ともつき合いがある。いわばフリー・ハンドだ。それに対してわが藩は朝敵の汚名を着て天下に孤立している。こちらから連合を言い出すのでは憐みを請うことになる。言い出せるものか」
 と桂は答えた。
 つまり桂は、面子にこだわり、見栄を張っているのである。自由人龍馬と違って、桂は藩という体制の中に組まれた官僚制の中で生きてきたため、また桂自身そういう体制が決して嫌いではないため、
 (こっちから先に言い出したら、長州藩やおれが世間からどう思われるか)
 と、しきりに他人の評価を気にしている。これは相手の薩摩藩にしても同じだった。
 このとき、そこにいた大久保利通は維新後に日本の近代官僚制の基礎を作った人である。自信と誇りに満ちた性格だから、対外折衝で自分から身を屈してことを持ち出すような真似は絶対にしない。
 もう一人の同席者西郷隆盛はちょっと違う。桂が延々と、薩摩藩の近年の行動の非を説くと、黙って最後まで聞いて、ひとことポツリと、
 「ごもっともです」
 ともらす。が、そこまでだ。西郷もまた自分からは言い出さない。別段、策を弄するわけではなく、逆に桂の心中を察して自分からは言い出さない。
 そこへいくと龍馬は他人の評価などいっさい気にしない。だから、一介の浪人の身でありながら、桂、西郷、大久保など雄藩の実力者たちを叱りつける。

■龍馬を育てた一級品の"挫折人間"たち

<本文から>
 坂本寵馬が、人間の一級品を選んでその影響を受けたことは前に書いた。
 当時の一級品というのは、龍馬が会った人物に限って言えば、たとえば勝海舟、松平春嶽、大久保一翁、中根雪江、横井小楠、西郷隆盛、土方楠左衛門、後藤象二郎、永井尚志らであろう。
 おもしろいのは、これらの人々は、人間として一流であったが、共通して挫折の経験をもっていることだ。幕臣の中で一流人物であった勝海舟、大久保一翁、あるいは川路聖護、永井尚志などは、すべてある時期に深刻な挫折感を味わった。
 これらの人物は、非常に開明的な老中であった阿部正弘という人に登用された人材たちである。阿部は非常に進歩的な老中で、ペリーの来航以来、アメリカの開国要求に対して、幕府人だけでなく、外様大名や、陪臣や、一般庶民にまで、どうすれば良いのか意見を聞いた。もちろん、この当時の日本人の対外意見はほとんど実用化できないものであったけれども、阿部には、日本民族を挙げて、外窟に対して、総力を結集しようという意図があった。国民の国政総参加である。しかし、それにしても、幕閣に人材を得なければどうにもならないので、阿部は非常に若い老中であったにもかかわらず、身分に関係なく、幕臣や外様大名の家来の中から、有能な人材を登用した。
 それが先に挙げた勝海舟、大久保一翁、川路聖講、岩瀬忠震らである。
 しかし、これらの人材は、ほとんど十四代将軍の擁立問題のときに、水戸斉昭の息子である一橋慶喜を推した。ところが、大老となった井伊直弼は、紀伊藩主であった徳川慶福を推したため、これらの開明派官僚を、ことごとく追放したり、隠居させたり、あるいは蟄居させたりした。大久保、勝、岩瀬、永井らは、すべてその犠牲になって、不遇をかこつよう各身になってしまった。
 坂本寵馬は、こういう不遇者たちに目をつけた。一級の人物が、不遇なときに、そのまま黙っているはずがないと思ったからである。一流の人物が、自分の能力を伸ばす場を与えられなければ、当然そのもっている能力は、不完全燃焼現象を起こす。そこへ、たまたま龍馬のような聞き上手が現われれば、腹膨れているこの連中は、何でもいいから、とにかく、自分の考えていることを誰かに伝え、伝えたその誰かが実行してくれればいいと願う。坂本龍馬はこの手を使った。したがって彼がこの時期に得たヒントは、当代一流の人物たちが、世に現わす場を失っていたにもかかわらず、坂本龍馬という恰好の媒体を得て、自分のもつものをすべて龍馬に注入したものであった。

■"商売人"龍馬の独創カと政治カは何で磨かれたか

<本文から>
 龍馬としては、神戸海軍操練所の閉鎖という災いを、薩摩藩をバックにした商売で同志の志実現と生活の道を拓き→犬猿の仲の薩長を提携させ→第二次幕長戦の長州勝利、という形で、福に転じた。
 幕府の浪士狩りに対して、単なる薩摩藩の食客に堕せず、船に関する知識を活かした自主的な商売を行なった点に龍馬の面目がある。
 しかも操船技術ではなく、それを基礎にして海外と商取引をしたこと、龍馬が政治・外交に飛び回っていても、上杉、高松らが商いを成立させるなど亀山社中がカンパニーとして横能し始めたこと、さらにそれを基盤に籠馬が政治家として飛躍を遂げることなどが、この時期の龍馬を取り巻く状況変化の特徴である。
 勝の手を離れた龍馬が自己の政治的立場を自力で確立するのである。
 そして、その翌年には早くも、かつて勝が江戸城大広間で説いたが実現しなかった大政奉還を、弟子の寵馬が実現する。
 龍馬は書によらず、耳学問と天性の勘によって、近づく近代資本主義経済を先取りしていた。
 だから剣に頼らず、軍艦・兵器の商売に頼り、幕府や藩に頼らず、自前のカンパニーに頼った。そしてその卓抜した政治手腕も、独創的な努力による経済的実績と、海のような人格的魅力を兼ね備えたからこそ発揮できた。
 ひとことで言えば、坂本龍馬は、自力で経済的基盤を確立していたからこそ、思想と行動が自由たり得た、と言えるのだ。
 考えてみれば、明快な理なのだが、当時はまだ"賤商"の気風があり、特に侍が商売するなどということは考えられなかった。しかし、そんな考えは、龍馬にすれば、
 「はめ替えのきく心の壁の一枚」
 であって、いとも簡単に取りはずせる。

■海援隊の先進性

<本文から>
 この文書は、慶応三年(一八六七)四月、当時、土佐藩の参政であった福岡孝弟が、薄命によって坂本龍馬に会ったときに取り決めたものである。
 取り決めの目的は、それまでの龍馬の脱藩の罪を許し、新しく創設する藩の商社として公認する海援隊の隊長に龍馬を命ずるということであった。そのために、海援隊の責務と、隊長の権限を覚え書きとして以上のような文章にしたものであった。
 言うまでもなく海援隊は、龍馬が長崎亀山に設立した亀山社中を母体にしていた。亀山社中は薩摩藩や長州藩のために、それまでの撲夷の主要目標であったイギリスとも交易するという、いわば密貿易の団体であった。土佐藩は、もう一人の参政後藤象二郎と相談して、亀山社中を藩の商会として藩が公認するという態度に出てきたわけである。この頃は、土佐藩も、それほど高く龍馬の才能を認めていた。約規はおそらく寵馬の考えが主体になっている。
 この規約の秀逸な点は、隊員の資格は脱藩者であること、としている点だ。二百五十年以上続いた幕藩体制の桎梏を、龍馬はすでに認めていない。彼にすれば、これははめ替えるべき"制度の壁"であった。だから、低身分の、しかも脱藩者という生活不安定な人間の群れが、砲術、航海、外国語などの専門知識を身につけて、無能な上士たちによって支配されている世の中を引っ繰り返してやるぞ、という気概に満ちている。

■この"人間的魅力"があればこそ他人の褌だけで相撲がとれた

<本文から>
 坂本龍馬は、いくつかの偉業を成し遂げた人物だが、そのほとんどが、いま流の言い方をするならば、無資本で行なったと言える。早く言えば、龍馬は、彼の偉業を、ほとんど他人の褌で成し遂げたと言える。彼自身は、そういう偉業を成し遂げる組織とか資本カとか、必要資材とかをほとんどもっていなかった。
 なにゆえ、それができたのか。
 それはやはり、彼の独創的な人間関係主義による。独創的な人間関係主義というのは、
 ○人との出会いを重視する。
 ○したがって出会う人を選ぶ。
 ○すなわち、人間の一級品主義を貫いた。
 〇二流品、三流品、四流品の人間はほとんど黙殺した。
 ○社内よりも、社外の人脈の設定の妙手であった。しかも、それを日本的規模でネットワークを張った。
 ○しかし、決して人に執着せず、状況によって人を見限るタイミングの良さももっていた。つまり、見捨てる、見限るの非情の精神の実行者でもあった。
 ○先輩に優れた人物が多かった(勝・大久保・横井・西郷・桂等々)。
 ○龍馬は、他人が自分で気づかない妙手妙案を引き出す能力に優れていた。つまり、龍馬は、他人から社会のためのアイデアを引き出す誘発剤的機能をもっていた。
○このことは、龍馬は話上手でもあったが、並行して聞き上手でもあった。人々は竜馬に、巧みに自分のアイデアを引き出された。
 ○龍馬は、他人のアイデアを増幅して、実現する機関的実践者であった。
 しかし、なぜ、籠馬は、このことが可能であったのだろうか。それは、やはり籠馬自身の人間的魅力に帰着せざるを得ない。
 籠馬の人間的魅力というのは、たとえば、
 ○底にいつも市民精神が流れていたこと。
 ○歴史のうねりに乗ってはいるが、そのうねりの上にあるさざ波をいっこうに気にしなかったこと。
 ○エネルギッシュであったこと。
 ○いつも女に好かれ、女を愛していたこと。

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