童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂本龍馬の人間関係 仕事に生かす

■坂本龍馬はリーダーの条件はあまり苦労をしないで持ち続けた

<本文から>
 坂本龍馬は、この論法でいえば、人間的魅力に溢れていて、逆に、リーダーの持つべき要件の五条件が、その魅力下に自然に生まれて、彼自身、あまり苦労をしないで持ち続けることができたといっていいだろう。
 龍馬の魅力の淵源をたずねると、彼が常に「無私」の生き方を続けたところにあると思う。太宰治流にいえば、
 「彼は、何よりも人をよろこぼせるのが好きであった」
 ということになる。これは、半分は天性のもので、意識的に生もうと思っても、なかなか生めない。というのは、やはり、性来的に、
 「他人を愛する心」
がなければ、持てないからである.龍馬は、生まれた時から、
 「他人を愛する人間」であった。

■龍馬の辿っていった人間的成長は「発想の転換」「異種間交流」

<本文から>
 檜垣源治は、その後、三度坂本龍馬に会った。三度目も訊いた。
 「今、我々にとって一番大切なものは何だ?」
  龍馬は答えた。
 「これだ」
といって、懐から一冊の本を出した。本は、『万国公法』だった。国際法である。最初は刀だといい、次はピストルだといった龍馬が、今度は武器を捨てて、国際法を示したのである。これは、
 「国際化時代の今、国際間の紛争はすべて万国公法によって解決しなければならない」
という意味である。この意味は、「国際間の紛争は、戦争によって解決してはならない。血を流し合うことなく、同じテーブルに着いて、話し合うことが必要だ。あくまでも、平和裡に事を解決すべきだ。それには、ルールがいるし、またそのルールを文章にしたものがある。それがすなわち国際法だ」
 ということである。龍馬は、大きく飛躍していた。単なる土佐の剣術使いから、日本人としての自覚を持ったピストルの時代を経て、今度は地球的規模でものを考える国際人に成長していたのである。しかも、国際的紛争の解決を、万国公法に求めるというのは、現在の国連のはしりのようなもので、その先を見通す目は鋭い。が、誤解する人間もいる。
 そして、ここに問題がある。それは、龍馬の辿っていった人間的成長は、現在よくいわれる、「発想の転換」であり、また、「異種間交流」によっている。つまり「自己変革」だ。が、当時の日本人の誰もが、龍馬のように次々と自己変革を遂げられたかどうかということは、疑問だ。いや、逆に、そこまで自分を変えられなかった人間のほうが多かったのではなかろうか。特に、攘夷論者はそうだ。

■桶町千葉の道場での重太郎と2人と佐那の人間関係

<本文から>
 桶町千葉の道場では、龍馬の人間関係に、大きな役割を果たした人物が二人いる。一人は、定吉の子重太郎であり、もう一人は定吉の娘佐那だ。重太郎とは、しばらくの間その当時の青年らしい「攘夷論者」として、扁を組む。一説には、千葉重太郎は開明論者であって、とっくに過激な考えは捨てていたともいわれる。これが、実をいえば、坂本龍馬の生涯において大きな意味を持つ勝海舟との出会いの性格を二分する。
 つまり、普通には、坂本龍馬が勝海舟を訪ねたのは、「開国論者である勝海舟を、壊夷論者である坂本龍馬が、同志の千葉重太郎と一緒に暗殺しに行った」といわれている。しかし、近頃の新しい説では、「そうではなくて、千葉重太郎は開明論者であり、すでに勝海舟を知っていた。だから、頑迷な坂本龍馬を洗脳するために、勝のところに連れて行ったのだ」という。
 こうなると、龍馬が勝に会った理由は、全く正反対になってしまう。片方は、勝を斬りに行ったのであり、もう一方は、勝に教えを請いに行ったことになる。一体、どっちが正しいのだろう。そのことは、もう少し後で考証することにして、桶町千葉道場で会った重要な人物は、佐那だ。
 佐那は、後年甲府に移る。ここで、知人の世話で、マッサージ師のようなことをやっていたらしい。生涯独身で、淋しく死ぬ。墓は甲府市内の寺にある。墓の真には「坂本龍馬室」と書かれている。つまり、「坂本龍馬の妻」という意味だ。

■龍馬は脱藩して開明派の人々と接触し影響を受ける

<本文から>
この暗殺直前、坂本龍馬は土佐から脱藩した。沢村惣之丞と共にである。沢村は、後に関雄之助と名を変える。この脱藩の時、龍馬は姉の栄から、家伝の宝刀肥前忠広を貰った。そして、栄はこれが原因で後に自殺する。姉は、命懸けで龍馬の脱藩を助けたのである。
 土佐を抜け出した龍馬は、最初に馬関(下関)の豪商白石正一郎を訪ねた。このへんは、長州側で段取りをつけてくれていたのだろう。やがて、彼は、一人で九州各地をまわった。しかし、薩摩には入れてもらえなかった。諦めて大坂に行き、やがて江戸に出た。そして、永年剣術の修行をした桶町千葉の道場に入った。
 この頃から、龍馬は積極的に、開明派といわれている人々と接触するようになる。彼がめざしたのは、勝海舟や横井小楠である。このへんは、明らかに、土佐の先輩である河田小龍の教えが彼の胸に蘇っている。勝海舟への紹介状を貰うために、彼は松平春嶽を訪ねた。そして、春嶽から、勝海舟と横井小楠への紹介状を貰っている。春嶽という大名も面白い。左の浪人である龍馬を引見して、その望みを叶えてやったのだ。
 こうして、龍馬は千葉定吉の息子重太郎と共に、勝海舟を訪ねた。そして、世界の情勢について、目を開かれるような教えを受ける。龍馬はたちまち、勝海舟の門人になる。
 こうなると龍馬の胸の中に育っていた思想が、前に書いたように、もやもやとカオス状であったものの中から、巨大な雪が一本はっきり形をなしたといっていいだろう。つまり、彼の考えは、共和路線に傾きはじめていたのである。というのは、その後吹きまくる暗殺の嵐に、彼は嫌気を覚えるからだ。人が人を殺すということにおぞましいものを感じた。これもまた、寵馬のすぐれた資質のひとつだ。

■龍馬は小楠に対して一種の敬遠策を講じた

<本文から>
龍馬が訪ねたのは、当時の政治情況を小楠に報告するためである。この時、小楠は、
 「俺の出場はないかね」
 というようなことを、龍馬にきいたらしい。龍馬は、ヘラヘラ笑って、
「いや、先生は、どうか二階で芸者と酒でも飲んで見ていてください。舞台のほうは、我々でやりますから」
 と応じた。龍馬も、また小楠という人物をよく見ていた。小楠は、言論の人ではあるが、実行の人ではない。坂本龍馬の言い方は、小楠をいたわっている。早くいえば、小樽に、「先生は、引っ込んでいてください」ということだろう。二階にあがっていて、酒でも飲んでいなさいというのは、半ばお世辞が入っている。本当は、龍馬にすれば、二階にあげて梯子をはずしてしまいたかったのかもしれない。一種の敬遠策として、そういうことをいっているのだ。この坂本の言葉を小楠がどういうふうに受け止めたかわからない。その意味では、この「和魂洋芸」論者の横井小楠も、坂本たちのような実践家にとっては、やはり、時に邪魔になる存在であったのかもしれない。物事を為し遂げていく過程では、必ずしも好ましい存在ではなく、特に"リストラクチャリング"の進行過程では、その邪魔をすることもあるのだ。だから、
 「行いは、我々に任せてください」
といいたかったの。だろう。横井小楠も、現在の組織に即していえば「不適応者」であり、「トラブルメーカー」のひとりであった。そして、その意味では、佐久間象山も完全にトラブルメーカーであった。

■お役御免になった勝は龍馬たちを手元に置かず西郷に頼んだ

<本文から>
 元治元年十月二十二日、大坂城代は勝に、
 「江戸に戻れ」
と命じた。勝は、十月二十五日に神戸を出発し、江戸に戻った。勝が着いてすぐの十一月十日、勝はお役御免を言い渡された。役高二千石も取りあげられた。前に住んでいた赤坂氷川の屋敷に謹慎することになった。こうして、勝海舟の、海を中心にした活躍時代は終わりを告げた。その志は坂本龍馬に引き継がれる。
 しかし、その坂本龍馬も、勝のいなくなった海軍操練所の後始末と、特に、幕臣や大名家の家臣でない仲間の身のふり方を考えなければならなかった。その身のふり方に、キチンとした始末をつけていってくれたのが、師の海舟であった。海舟はすでに西郷吉之助に頼んでいた。
 「私は、江戸に召し返されればおそらくお役御免になります。浪々の身をかこたなければなりません。私自身は、身から出た錆と、諦めることができますが、若い連中には何の罪もありません。特に、坂本はじめ彼の仲間たちは、行くところもない次第です。そこでお願いですが、この連中の知識と能力を役立てていただいて、あなた方薩摩藩のほうでご活用いただけませんか?」
 西郷はこの頼みを快諾した。西郷自身も、前に書いたように、かなりの思惑を持っていたから坂本龍馬たちの知識と技術を薩摩藩のために活用することは、西郷の企てを補強する意味で大いに役立つと思ったからだ。西郷も情の人であり、また仁義の人ではあったが、ただそれだけで坂本たち浮浪者を引き取ることはすまい。やはり、活用の価値があったからこそ引き受けたのだ。
 とりあえず、操練所の後始末をする龍馬に、
「後始末がすんだら、あるいは後始末が途中であっても、身の危険を感じたらすぐ薩摩屋敷に来なさい」
と告げた。龍馬は、
「ありがとうございます。その時はお世話になります」
と素直に頷いた。
 この時の龍馬の胸に息来したのは、ある種の淋しさと、また新しい希望であったろう。これは勝海舟という師と、新しい庇護者である西郷吉之助に対する龍馬の感情であったといっていい。
 人によるだろうが、大体人の師と呼ばれた人は、自分の弟子を、易々と他人の手に引き渡さないものだ。たとえば、勝海舟のような窮境に追い込まれても、門人をなかなか他人に渡そうとはしない。あくまでも、自分の手元に引き止めておこうとする。いわば、弟子の私物化なのだが、かなりのリーダーでもよくこういうことをやる。つまり、窮境に陥って、門人を他人の手に引き渡すことは、それだけ自分が惨めになると考えるからだ。自分の手元に置いておいたのでは、その門人を殺してしまうのだが、こういう淋しい境遇に置かれた師はなかなかそのことを理解しない。いや、理解しても、感情の面で踏み切れないのだ。結局は、自分も弟子も滅びてしまう。そういう自滅の道を平気で辿る人がいる。
そういうことをよく知っているだけに、勝海舟はその道を辿らなかった。彼は、
 「自分はもうおしまいだ。二度と弟子たちのために役立つことはない。そういう立場に陥った自分が、私情や私欲によって弟子たちを自分の手元にとどめることは道に反する。それよりも、彼らを活用してくれる人物がいるならば、その手に委ねるのが本当の弟子に対する愛情だ。だから、俺は龍馬たちを西郷の手に預けよう」
 と考えた。
 そういう勝の気持ちは、永年勝の元で暮らしただけに、龍馬には手に取るようにわかった。そして、師の情に胸を熱くした。別れ難い。しかし、勝と別れなければ、自分たちの可能性は伸びない。勝は、
 「西郷さんのところに行って、薩摩藩の役に立て」
と命じた。龍馬は師の気持ちがわかるだけに、これに従った。しかし、龍馬は喜んだだけだとは決していえない。かなりの淋しさや悲しさも味わったことだろう。いわぼ、師弟愛と青春の涙である。それをこらえて、寵馬は西郷のところに身を寄せることにした。龍馬だけではない。神戸の海軍塾にいた土佐系の同志も一緒だった。彼らは全部、薩摩風を装い、髪の結い方を変え、着物も改めた。が、言葉だけはどうにもならなかった。そういう暮らしぶりを、彼らがどう受け止めていたか。屈辱を感じたか、喜びを感じたか、何ともいえない。

■海援隊の規約、日本海軍の方向性

<本文から>
その意味では、慶応年間には、ほとんど個人志士というのは抹消されてしまった・その中で、わずかに坂本龍馬が意気軒昂たる姿勢を示していたのである。しかも龍馬は個人志士を集めて、長崎にグループをつくった。結社をつくった。亀山社中は、個人志士の集団である。いずれの藩にも属さない。そのことは、後につくられた「海援隊の規約」にはっきり書いてある。
 脱藩の者、海外開拓に志ある者、皆この隊に入る。国に付せず、暗に出崎官に属す。運輸射利、応援出没、海島を拓き、五州の与情を察する等の事をなす。凡そ海陸両隊仰ぐ所の銭量常に之を給せず、その自営自取に任す。但し、時に臨んで官すなわちこれを給す。もとより定額なし。且つ海陸用を異にすといえども、相応援し、その給する所は多く海より生ず。故にその射利する所の者また官に利せず。両隊相給するを要とす。或はその所管の局に因って、官またその部金を収す。すなわち両隊臨時の用に充つべし。右等の処分、出崎官の討議に任ずる
 これが、海援隊規約の基礎的な考え方だ。土佐藩の福岡藤次、後藤象二郎が相談して決めた文書だ。もちろん、坂本龍馬の考え方が反映されている。しかし、海援隊にとっては大変虫のいい規約だ。つまり、ここで書かれているのは、海援隊は土佐本藩には属しない。長崎に出張している土佐藩の参政の支配下に置かれるのだと決めている。具体的には、後藤象二郎の支配に入るということだ。そして、海援隊の経費は、原則として海援隊が独自に行う事業で得た利益で賄うとしている。ところが、そうはいいながら、不足を生じた時は、官費をもってこれを補うといっている。つまり、龍馬が意図した海援隊の存在は、もっと政治的な深い意味を持っているということだろう。自分たちの食い扶持は、自分たちで稼ぎ出すが、ただそういうことだけの団体ではないということを明言しているのだ。
 勝海舟のいった一大共有の海局を、こういう形で実現しているということだ。だから、今後は一海援隊をさらに拡大強化して、日本全体の海軍とするような方向性を持ってほしいというのが龍馬の偽らざる願いであった。

■龍馬のやったことは信長の再生か

<本文から>
彼の有名な自己変革の方法、
 @刀を重んじた時代
 Aピストルを重んじた時代
 B万国公法を重んじた時代
 は、このプロセスを如実に物語っている。
 坂本龍馬は、慶応三年十一月十五日の、自分の三十三回目の誕生日に殺された。一緒に殺されたのが中岡慎太郎である。そのため、「坂本龍馬は、同志の中岡慎太郎と共に殺された」といわれている。もちろん、龍馬と中岡は同志であったことは間違いない。しかし、その思想信条が同じであったかといえば、これは全く違う。龍馬がめざしていたのは、あくまでも血を見ない無血平和革命であり、中岡がめざしていたのは、流血武力革命であった。この意見の差が、おそらく幕未ギリギリのあの夜、熱を持った激論として互いに交わされていたことだろう。その最中に、彼らは殺された。歴史をつかさどる神の悪戯としかいいようがない。
 しかし一面考えてみれば、龍馬にとっては、いい死に時であったのかもしれない。明治維新後、彼が生き抜いたとすれば、口にしたように、「世界の海援隊」が、果たして実現できたかどうか疑問である。というのは、陰に陽に寵馬の行動にからむ権力側が、すでに腐敗しはじめていたからだ。そして、この腐敗は、新しい壁をつくり出していた。その大部分は、坂本龍馬が海援隊をつくることによって破壊したはずの、古い三つの壁の再生である。日本は、再び閉鎖社会に落ち込んでいく。特に民衆町立場がそうなる。こういう状況の中で龍馬が生きていたとすれば、おそらく龍馬を邪魔に思う者が、殺さないまでも、彼を疑獄事件に引っかけて、始末してしまったに違いない。
 もう一つ、別な見方をすれば、坂本龍馬のやったことは、「織田信長の事蹟の再生」であったということもできよう。室町期の閉塞社会を、織田信長は破壊した。特に、当時の日本に漂っていた古い価値観を破壊した。そして新しい文化を生んだ。安土文化である。人間の価値観をソフトなものに変え、土地という目に見える財産から、茶の文化というソフトな価値を設定して、同時に関連する産業を興し、内需を高めた。安土・桃山文化時代は、空前の経済の成長をもたらす。しかも、内需に限ってである。輸出は関係ない。そういう夢を、あるいは坂本龍馬も見ていたのではなかろうか。

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