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<本文から> 元治元(一八六四)年二月、二度目の島流し(沖永良部島へ終身遠島刑の流罪)を解かれて、鹿児島へ帰国する召還船がやってきた。そのとき、西郷は赦免使の吉井友実に、
「俺だけ帰るわけにはいかん。喜界島に寄って村田新人も連れて帰ろう……藩が許さんときは、おい(俺)がまた島へ戻る……」
こう言って村田を連れて帰った。「俺の罪が赦されるのであれば、俺のとばっちりで流刑になった村田新人も赦されるのが当然ではないか」というのが西郷の言い分であった。死をかけた友情である。
村田新人は立身出世を絶ち、明治十年、西郷に殉じて城山で戦死した。
西郷という人は、一生傷つきながら、その痛みをこらえつつ、俺も痛いんだから他人も痛かろう、という考え方を貫いた人である。坂本のように人を置き去りにしなかった。西郷は先見性や予見性の点では優れた才能を持っていたが、時代が目まぐるしく変わるからといって、自分だけさっさと目的地へ行ってしまうというようなことはけっしてしなかった。自分と同時代に生きて、西郷の言葉や行いから影響を受けた人々が傷を負って苦しんでもがいているならば、西郷は、自分自身が新しい状況の中に突き進んでいかなければいけないときも、この連中を一緒に連れて前に進んでいく。絶えずこういう繰り返しをしている。だから西郷隆盛の自己の磨き方は常に一進一退だ。一歩進んでは一歩下がる、あるいは一歩後退二歩前進、いったん引き下がるけれども、二歩前に出る、という生き方をした人である。 |
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