童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          西郷隆盛 人を魅きつける力

■西郷は、一生傷つきながら、痛みをこらえつつ、他人も痛かろう、という考え方を貫いた人

<本文から>
 元治元(一八六四)年二月、二度目の島流し(沖永良部島へ終身遠島刑の流罪)を解かれて、鹿児島へ帰国する召還船がやってきた。そのとき、西郷は赦免使の吉井友実に、
「俺だけ帰るわけにはいかん。喜界島に寄って村田新人も連れて帰ろう……藩が許さんときは、おい(俺)がまた島へ戻る……」
 こう言って村田を連れて帰った。「俺の罪が赦されるのであれば、俺のとばっちりで流刑になった村田新人も赦されるのが当然ではないか」というのが西郷の言い分であった。死をかけた友情である。
 村田新人は立身出世を絶ち、明治十年、西郷に殉じて城山で戦死した。
 西郷という人は、一生傷つきながら、その痛みをこらえつつ、俺も痛いんだから他人も痛かろう、という考え方を貫いた人である。坂本のように人を置き去りにしなかった。西郷は先見性や予見性の点では優れた才能を持っていたが、時代が目まぐるしく変わるからといって、自分だけさっさと目的地へ行ってしまうというようなことはけっしてしなかった。自分と同時代に生きて、西郷の言葉や行いから影響を受けた人々が傷を負って苦しんでもがいているならば、西郷は、自分自身が新しい状況の中に突き進んでいかなければいけないときも、この連中を一緒に連れて前に進んでいく。絶えずこういう繰り返しをしている。だから西郷隆盛の自己の磨き方は常に一進一退だ。一歩進んでは一歩下がる、あるいは一歩後退二歩前進、いったん引き下がるけれども、二歩前に出る、という生き方をした人である。
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■西郷は天を敬い運命論をもっていた

<本文から>
 坂本龍馬にはこれがなかった。彼は人事を尽くして天命を待つなどと考えないことはもとより、おそらく天などというものを信じていなかったのではなかろうか。この点は織田信長に似ている。坂本龍馬は織田信長と同じで、おそらく神や仏を信じていない。信じられるのは、自分の力だけだという人間万能主義があった。だから坂本龍馬と織田信長はあっけなく死んでしまったが、死に方自体はけっして後悔とは無縁だったろう。それは、人間の力によって社会を変えられると信じ、また事実変えたという実績を持っていたからだ。
 西郷にはそういう思い上がりはなかった。彼はあくまでも天というものを敬い、一種の運命論を持っていた。人力の限界というものを知っていた。それは若いときに彼が経験した傷心立脚していた。いってみれば、どんなに自分では誠意を尽くし努力をしてみても、天が自分に傷を与えることがある。しかし、それを恨んではならない。自分の能力不足だと思う。しかし、能力不足だと思って自己啓発をしてみても、また次の機会には天が傷を与えることがある。つまり、自分を挫折させ、失敗させることもある。しかし恨まない。そういう繰
り返しが西郷の一生であった。
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■西郷はだ不平不満分子に理解を示すが、時代とのズレも知っていた

<本文から>
 彼は歴史の前面に立って歴史を変えていった。討幕などという思い切ったことをやった。そういう行動力にはやはり学ばなければいけない。彼を、ただ不平不満分子の同調者だとか、共鳴者だと割り切るのは、やはり間違いだ。彼はそんなところにはいなかった。
 ところが一方では、不平不満を持つ連中に対しても理解を示した。「おはんたちの言うことにも理があるし、無理もない」という優しさを持っていた。が、彼は続けてこう言う。「人事を尽くそう。おはんらは人事を尽くしておらんよ。俺と一緒にもっと頑張ろうじゃないか」、こういうリーダーだった。だからこそみんながついていった。
 ただ、その彼が最後に西南戦争を起こして鹿児島士族のために命を落としたということは、いったいどういうことだったのだろうか。これが彼の限界なのだろうか。つまり、時代とのズレがここまで高じてしまったのだろうか、必ずしもそうではなかろう。西郷は心の奥底では、自分の中の時代のズレ、また、自分についてくる鹿児島士族たちの時代のズレを知っていた。もちろん彼は、こういう士族たちを置き去りにしていくような中央政府のやり方は間違いであり、もっと救済策を講じなければいけないと思っている。
 しかし西郷自身も、大村益次郎たちが繰り広げた東北戦争や江戸彰義隊の攻撃から、はっきりと日本の軍隊がどうあるべきかということをいやというほど知らされていた。軍隊はもう武士だけでは駄目だ。武士よりもむしろ強いのは、農民や一般の市民だ。長州奇兵隊以来培われてきた軍隊、つまり国民皆兵にしたほうが、侍以上の力を発揮するとわかった。これは事実をもって示された。西郷はこの前にたじろいだ。だから、軍人は士族だけでなければならぬという説は本来成立しない。が、それにしがみついて、それしか生きる道がないと思っている層をいったいどうしたらいいのか。
 これに対する心くばりや優しさが、時の中央政府にはまったく欠けている。しかもその頂点に立っているのは、薩摩藩から出ていった盟友の大久保利通ではないか。大久保よ、いったい何をしているのだ、というような憤りと悲しみ、そしてもっといえば、時代に乗り遅れてしまった鹿児島士族を全部まとめて、自爆的に地獄に道連れにしたのが西郷隆盛だったのではないのか。こんな解釈も成り立つのである。
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■西郷流人脈のつくり方は全力で相手にぶつかっていったこと

<本文から>
 西郷流人脈のつくり方の最大の特色は、彼が常に全力で相手にぶつかっていったことだと思う。自分というものをけっして出し惜しみしなかった。その時、その瞬間、現在の自分の持っているものをすべて出しきるという態度に相手が胸を打たれる。これが彼の人的ネットワークをよりつくりやすいものにした。彼自身は、いわゆる人脈とか閥をつくろうと思って動いたことはいちどもない。自然にできてしまったというべきだろう。それが西郷の人脈というものだ。もともと薩摩というところは、人脈づくりを展開しやすい風土であったし、時代的にも、幕末維新期という危機感の強い状況下にあったことが人脈づくりに加速をつけたようだ。
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■西郷を最後まで囲んでいた連中はセンチメント派でインテリではない

<本文から>
 それだからというわけではないが、西郷自身はけっして理論で人を導くタイプではない。自分をけっして出し惜しみせず、精いっぱい努力し、自分の持てる力をすべて出し切って、世に問おうとした。それに感動した連中が多い。となると、この感動の質というのは、本来知的なものではない。どちらかといえば感性的であり、情感的なものだ。だから相手のハートを揺るがすことにかけては西郷はたぐいまれな資質を持っていたが、理論で人を説得するというタイプではなかった。だから西郷に最後までついていった連中は、どちらかといえば知性派ではなかった。西郷のために死ぬ、西郷さんのためなら命もいらないという、人生意気に感じる連中が多かった。
 たとえば、西南戦争の最後に城山で彼を囲んでともに死んでいった連中は、桐野利秋(中村半次郎)、別府晋介、村田新人などである。これらの連中は明治維新政府の軍の将官だったが、いったいどれだけの知性を持ってそついうポストについていたのか、と言わざるを得ない。むしろ幕末時における実績や、西郷派であるという入閣によって、ここまで上りつめた人もいたことだろう。能力とポストとが、必ずしも一致していたかどうかは不明だ。
 そういう意味からいっても、西郷隆盛を最後まで囲んでいた連中は、一種のセンチメント派であって、けっしてインテリではない。知性派はすべて西郷に背いた。それは弟の従道をはじめとして、大久保利通も山県有朋も、全軍をあげて西郷を城山に囲んだ。なぜあれほど尊敬した西郷に多くの人間がついていかなかったかということは、また別阻題だ。しかし、同時にまた、西郷の人格と人間的魅力をもってしても、ついにそこまでついていけなかった側の論理というものも当然ある。ここに西郷の限界があったのではないだろうか。
 ということは、やはり明治維新後の人脈のつくり方にも問題があったような気がする。このころの西郷は、もう時代の目まぐるしい変化にはついていけなかったのではなかろうか。それを「敬天愛人」、つまり、人事を尽くして天命を待つ、という西郷哲学だけで乗り切ろうとしたところに無理がある。だから、彼が「朝鮮に自分を使いに立ててほしい。朝鮮では必ず自分を殺すだろう。そうしたら軍を起こせ」と言ったのは、死に場所を求めていたのかもしれない。彼は彼なりに自分の限界を知っていたのかもしれない。そういう悲哀感が伴う。
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■西郷という人は日本人的情感にあふれた人で、駄目な場合にはゲリラ活動も辞さない

<本文から>
 しかし、彼が多少ダーティなことをしても、そういう面が強調されないのは、やはり彼の本来的な心の優しさによる。つまり、いつも相手の立場を考えているということだ。相手の傷の痛さに対しては、けっして深追いをしない。だから、いまでいえば彼のやったことは情のあるM&Aだろう。つまり合併と買収だ。企業の再構築をするために、徳川幕府そのものを呑み込んでしまったのである。こんな大きなものを呑み込むのは西郷以外にはできなかったろう。そして呑み込むための大きな受け皿として、あれほど敵対した長州藩とも手を結んでしまう。これも凡人にはできない芸当だ。
 このへんの機微は、むしろ現代の企業が、西郷から学ぶ必要があるのではないだろうか。つまり、シコリを残さないでM&Aを行うということである。現在のM&Aでは、なかなかシコリを残さず、スムーズに移行するということは難しい。特に買収される、あるいは合併される側の企業の従業員が、劣等感を持たず、あるいは屈折もせず、また、合併後公平な人事上の扱いを受けるということが本当に保証されるのかどうか、みんな不安を持っている。これがアメリカなら、一つのスポーツや、ゲーム感覚としての色彩を前面に出しているが、日本人の場合はなかなかサでつうまくはいかない。つまり、日本人にはウエットな情感というものがあるからだ。
 そこへいくと西郷という人は日本人的情感にあふれた人であったから、変に理屈一辺倒でM&Aを強行するようなことはしなかった。十分に時間をかけて説得工作を続ける。それがついに駄目な場合には、ウルトラCのゲリラ活動もあえて辞さないということだ。しかし、合併あるいは買収にはそれなりの大義名分を立てている。全体の幸福ということが彼の目標だった。この要素が非常に強く、周囲に対する最大の説得力の根拠となった。
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■西郷は節を曲げないが卑屈にもならない

<本文から>
「自分は絶対に間違っていない」
 という態度をとり続ける限り、天も助けてはくれない。やはり、自己変革が必要だ。この変革をするときに何よりも大切なのは、
 「自分の行いが、誰かさんの役に立つ」
 ということだ。それがなければ、いくら自分を変えてみても、それは結局は自分の個人的欲望を満たしたいがための変革に終わってしまう。そういう変革は人の心を打たない。だから味方もできない。最後まで孤立して、いよいよひがむ。周りに向かって当たり散らす。結局は、精神的孤児になり、世間を全部敵に回してしまう。味方を失い、自分の生きる場を狭めるための加速度を加えるだけで終わってしまうのだ。
 しかし、だからといって、この自己変革はけっして自己の根幹を変えたり、あるいは自分をそういう目にあわせた層に対しておもねったり、卑屈になったりすることではない。西郷は絶対にそんなことはしなかった。自己のアイデンティティーは最後まで大切にした。つまり、彼は島津久光という故島津斉彬に代わった実力者によって、赦免された。が、必ずしもそのことに対する卑屈な礼は述べなかった。
 彼が島から帰ってきて、真っ先にかけつけたのは、旧主斉彬の墓前である。これが、島津久光を怒らせるであろうことを十分に承知しながらも、彼はけっして節を曲げなかった。尊敬する人間は、死んでも尊敬するという態度をとり続けた。そして、久光の計画に対しても、思うところをはっきりと言った。自己の得た情報によって、先を見通し、どういう態度をとるべきかをはっきりと語ったのである。
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