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<本文から>
「二人とも死んだ」
と届け出た。そして西郷には、
「死人が鹿児島にいては困る。年六石の米をやるから、大島に行って住め。名前も変えろ」
と命令した。
″生きた幽霊″として、こうして西郷吉兵衛は、名前も、
「菊池源吾」
と変え、安政六年(一八五九)の一月はじめ、砂糖をはこぶ船にのせられて大島に渡った。月照の死でうちひしがれていた西郷は、この処分をやむをえないこととしてうけとめた。
しかし、親友の大久保一蔵(利通)や有村俊斎、樺山三円、有馬新七、堀仲左衛門たちがさわぎはじめた。
「西郷は、斉彬公の命令によってうごいた誠忠の士だ。それを罰するとはなにごとだ!西郷を釈放しろ!」
と藩庁に抗議した。
たまたま、天候がわるくて、西郷をのせた船が山川港につながれたままなのを見て、大久保たちは、
「西卿をとり沌どせ!」
と、船におしかけてきた。しかし、西郷は、
「おはんらの友情はうれしいが、いま、おいどんを鹿児島に連れむどせば、騒ぎはますます大きくなる。藩も方針を変えたようだから、しばらくは静観しよう」
と、逆に大久保たちをなだめた。大久保たちは、
「西郷!」
と、拳で日の涙を拭いながらくやしがった。
そして、
「おれたちの力で必ずおはんを呼びもどす!必ずだぞ!」
と叫びつづけた。 |
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