童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          最後の幕臣 勝海舟

■海舟の名は傾倒した象山から

<本文から>
  海舟は当時、自分の住居が江戸の赤坂氷川にあったので「氷州」と号していたが、象山から額をもらうと、すぐ氷川を捨て「海舟」と号した。勝海舟の起こりである。
 もちろん号を海舟と変えたのは、海軍創設という象山の夢をひきつぐ意志であり、事実、海舟は幕府の海軍操練所をつくり、単に幕府のためだけでない海軍をつくりあげていく。のちに、戊辰戦争がおこったとき、大坂湾内で官軍艦隊を叩きのめす幕府艦隊の将星たちもここで生まれる。さらに海を媒介にしてひろく海外へ志をのべようとする有志の集まりである「土佐海援隊」の母体も、この操練所で育まれた。その中心人物が坂本龍馬であったことはいうまでもない。
 佐久間象山というのは変わった男で、
 「この地球上で、いちばん優秀な民族は日本人である」
と信じていた。そして、
 「その中でも、もっとも優秀な男がこの佐久間象山である」
と本気で豪語していた。フランスのナポレオンの崇拝者で、世界の英傑はナポレオンと象山のみ、と公言した。
 その優秀な自分のタネをたくさんばらまくことが即日本人のレベルを引きあげることだ、
 という奇妙な論理をたて、そのために妾を何人かもち、それでも足りず、
 「女をどしどし世話してくれ」
 という手紙をあちこちの友人に送っている。女もだから顔の美醜も性格も関係なく、ただ腰と尻さえ発達していればいい、と言っている。本気で日本人の品質改良をする気だったのだ。いまだったら女性の人権無視ということで大変なことになる。
 しかし−象山が何人かの女に産ませた何人かのこどもはすべて夭折している。それも生まれてすぐ死んでいるのが多い。優秀すぎる象山のタネは所詮、日本の女の腹では育たなかったのかもしれない。
 こういう思いあがった女性観をもっていた象山の正妻が勝海舟の妹順子である。結婚したとき、象山四十二歳、順子十六歳だった。
 象山の気質と揚言は、海舟ももちろん知っていたはずだから、妹を象山ダネの培養器械として嫁入らせたのであろうか。また順子の腰部もみごとに発達していたのか。
 いずれにしても、象山への傾倒心が海舟にそうさせたというのが正しいだろう。それほど海舟は象山にうちこんでいたのだ。うちこませたのが”海軍熱”であったことはいうまでもない。後年、福沢諭吉に非難されながらも、海舟があえて明治新政府の海軍卿になるのは、薩長閥牽制の目的もあったろうが、それ以上に素朴な海軍への愛情があった、とみるのは海
舟を持ちあげすぎるであろうか。

■海舟の不平は「能力」と「所遇」の問題

<本文から>
 貧書生の時代はともかく、多少なりとも幕府という組織の中で自分の名が出だしてのちの海舟がいつも悩み不平・不満を唱えたのは、「能力」と「所遇」の問題である。
 特に蘭学をおさめ軍艦を操る術に長け、ヨーロッパの風習を知るようになってくると、海舟はこのふたつの結合が、日本ではかなりいい加減であるごとに不満をもった。
 長崎の伝習所の上役も、またアメリカヘ渡った威臨丸の指揮官であった木村摂津守喜毅も、そのころの海舟を、
 「つねに不満にみちて、カンシヤクばかりおこしている男」
  と評している。
 アメリカで海舟がもっとも熱心にしらべたのも自己の信念である、
 「実力あるものは重要視されるべきだ」
 という考えを裏打ちする実例の探索であった、といってよいだろう。製鉄所も造船所も長崎で想像していたものを超えるものではなかった。
 アメリカで海舟が発見したのは、
 「日本の武士のような無為徒食のものはいない」
 ということと、その武士も、
 「食うにこまれば商業を併せていとなんでいる」
 ということであり、そのことが別に不名誉でもなんでもない、という観念がひろくいきわたっていることであった。これは同行の福沢諭吉が一市民に、
 「ワシントン大統領の子孫はいまどうしておられるか?」
 と、たずね、
 「知らない」
 という答えをもらって、びっくりしたのとおなじである。
 民主主義ということばの真義はわからなくても、なんとなく社会にあらわれている諸実例によって、海舟はアメリカの社会制度が日本とははるかに異なっているのを直感でさとったのだ。
 そしてそれはまた”実力主義”を標傍する海舟のもとめてやまない実例でもあった。

■アメリカでの能力主義に驚く

<本文から>
 成臨丸はメーア島の海軍造船所に入って修理、海舟たちはその造船状況をみて、さすがに目をみはった。ほかに、砲台、ガス灯、病院、印刷、舞蹄、劇場、風車、製鉄所、武器庫などをつぎつぎとみた。滞在費も威臨丸の修理費もいっさいアメリカ側で持ってくれ、日本側には一銭の金もつかわせなかった。南北戦争前のアメリカの一面を伝えるムードである。
 海舟は、しかし必ずしもアメリカの海軍施設だけにおどろいているのではなかった。むしろ民主的な社会機構のほうにおどろいている。第一、アメリカには、徒食して親代々の身分を引きつぐという日本の大名や旗本のようなか”世襲制”がまったくない。また武士階級に属するような人間の近親者が平気で商店をひらいている。海舟の信条である″能力主義”は、遺憾なく実証されている。
 日本へ帰ってのち、老中からアメリカについての感想をもとめられ、前にも簡単に触れたが、
 「政府でも民間でも、およそ人の上に立つものはそれ相応に利口です。この点、わが国とまったく逆です」
 と答えてどなられている。
 これは同行の福沢諭吉もおなじで、かれは、
 『大統領といえば日本の将軍にあたろうが、ワシントン大統領の子孫はいまどうしている?ときいてもだれも知らなかった』
 と、おどろいている。
 正使一行は、サンフランシスコに到着してか.ら、ワシントンに行き、ここで、手を洗う水をのんだり、女の握手にびっくりしたり、大統領が刀をさしていないのにおどろいたりしたが、海舟たちはワシントンには行かなかった。

■薩摩を革命路線に変えたのは勝海舟

<本文から>
 このころの薩摩は、薩摩なりに精いっぱい生きていたというふうに思いはじめた。というのは、このころの薩摩は自藩の生きかたにそれほど明確なレールを敷いていたわけではなく、言いかたをかえれば、長州ほどはっきり尊攘・反幕の態度をきめていたわけではない。
 禁門で長州に押され気味の会津兵に応援し、巻きかえしの指揮をとったのは西郷吉之助である。
 島津久光は公武合体派であり、むしろ大名連合のイニシアティブをとるのが目的だったようだから、ライバル藩の京都追い出しには一も二もなく賛成しただろう。
 飛躍した言いかただが、そういう薩摩の保守路線を革命路線に変えていくのは、やはり勝海舟の影響が大きい。特に海舟の西郷に与えた影響は大きい。海舟は、
「横井小楠の考えを西郷吉之助が実行したら日本は変わる」
 とよく言っていたが、海舟の思想は小楠に影響されているから、西郷が海舟に影響されたということは、間接的には西郷は小梼に影響されたということになる。
 つまり海舟の志向したとおり、西郷は小楠の思想にもとづいて日本の政体変革に踏み切っていく。しかしその思想の取り入れかたは、必ずしも小棉の意図していたものそのままではない。
 武力倒幕は小楠も海舟も、そして薩長を同盟させた坂本籠馬でさえも意図してはいなかったからだ。

■幕府の機密漏洩

<本文から>
 自己がどんな組織に属し、歴史の流れの中のどの地点に位置したかは、人力をこえたひとつの運命である。その中で精いっぱいのことをするのも、また人間の生きかたではなかろうか。ことばをかえれば、”執着心”である。見込みがないからといつて、つぎつぎと自分のおかれた歴史的環境を見限っていったのでは、その見限られた対象こそいい面の皮である。
 勝海舟に明確な支持心と評価をくだせないためらいがわたしにあるのは、このためである。
 海舟は自分の属した「幕府」という組織に、あくまで傍観者としての客観的位置を保ちつづけはしなかったろうか、という疑念が去らない。これも、単一価値に重点をおく日本人の悪癖かもしれない。
 それでは元治元年のこのとき、海舟は西郷に何を話したのか−。
 ひとつは、
 「雄藩連合による共和制の樹立」
 もうひとつは、
 「幕府の機密漏洩」
 である。
 もちろん前者を推進するために後者をうち出したのであろうが、目的のためにいかなる手段をとってもよい、ということはない。まして衰微期の幕府の機密を洩らすことは、あきらかに反逆である。その反逆も幕臣の身分を捨て一介の浪人になったうえのことならいいが、あいかわらず幕府から禄をもらっての反逆ではどうもサッパリしない。単純な忠誠心をもと
めるのではないが、わたしはこの一事がどうも海舟のためにひっかかる。もっとやりようがあったのではないか、と思うのである。
 操練所閉鎖によって地位も職場も弟子も失い、西郷に機密を洩らして幕府倒壊を促すようなことを言うのなら、海舟はなぜ、坂本龍馬とともに鹿児島におもむき、日本の自由海軍創設に夢を託さなかったのだろうか。「土佐海援隊」がそうすれば、必ず″日本海援隊”に発展したであろうに−。
 『およそかつて本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る』
 という「海援隊約規」が、わたしは好きだ。この約現には、幕藩体制からとぴ出した青年の自由がある、夢がある、意志がある、情熱がある。
 これらのことは、すべからく、海舟のねがったことではなかったのか。身分制にこだわらず、能力中心の海を媒体にしたひとつの「共同体」の創造がこの約現にはある(たとえ、この時期の諸制約にしばられて海援隊のやることがか密輪で同然の行為であっても)。
 この海舟の一歩後退が、逆に弟子たち、殊に坂本籠馬を大きく育ててしまうのである。
 龍馬こそ海舟のいいところだけを自分のエキス、肥料として汲みこんだ、まれにみる天才であったといえる。
 龍馬の歴史的実績も、実は、海舟によって与えられたヒントによってつくりあげたものが多い。海援隊構想もそうなら、共和制(雄藩連合)もそうだし、さらに幕府が「私」を去って「公」の心に徹すべきだという「大政奉還」の示唆もそうだ。

■龍馬暗殺、あいつはおれの身代わりさ

<本文から>
 そしてその海舟が久万ぶりに京都からのたよりを聞いたのは、
「坂本龍馬が十一月十五日に殺された。犯人不明」
 という悲報であった。海舟は暗然とした。
(なぜあいつが殺されなければならないのか・・・)
 龍馬の飄々としたおむかげが脳裡をよぎる。しかしなぜあいつは殺されなければならないのか、と自問しつつ、海舟はみずからその答えを知っていた。
(あいつはおれの身代わりさ)
おれの代わりに殺されたのだ。おれの言うことを龍馬なりに整理・拡大して、肥料をかけ
胃てて世の中にばらまいた。しかし所詮あいつの考えは真に理解されることはない。おれとおなじなのだ。
(かわいそうに)
哀憐の情がこみあげてくる。

■幻の江戸焦土・市民避難作戦

<本文から>
 海舟は慶応四年二月の某日、市中の町火消とバタチうち、非人頭など雑多な人間を自邸に招んだ。新門辰五郎、弾左衛門、車善七、清水次郎長などに踊りの花柳寿輔まで加わっている。妙なとりあわせだ。共通するのはこれらの人々が部下を多く持っていることだ。
 顔が揃うと海舟は伝法な口調で言った。
 「イモが江戸を焼きに来る」
 いつも焼かれるイモが焼くほうにまわる、聞くほうは妙な気になる。その倒錯効果を狙う海舟の話術だ。
 「焼かれる前にこっちの手で焼いちまいてえ。ナポレオンが攻めこんだときの露都モスコの轍を踏むんだ」
 「?」
 集まった連中には、ナポレオンもモスコ(モスクワ)も耳なれない。しかし海舟の博識を知っているから、大層なことを言っているのだとは感覚的に理解した。その連中に海舟は言った。
「ついてはおめえたちに火をつけてもらいたい」
 一同、へ?と顔をあげた。しかしこれも倒錯心理に追いこむ海舟の作戦だ。町火消や渡世人、非人は江戸の火事にはいつも動員される。消火要員だ。その火消しに火つけになれという。人間、だれだって建設より破壊のほうに快感を感ずるのが本能だ。その本能を海舟はくすぐつた。
「火消しに火をつけさせるんで?」
 新門辰五郎がこヤニヤ笑って言った。
「そうだ」
 辰五郎は娘のお芳を慶喜の妾に出している。辰五郎を抱きこむことは町の有力者を制するうえで大きな効果があった。
「こいつぁおもしれえや。死ぬまでに一度でもいいから燃やすほうにまわってみてえと思っていたんです」
 六十をすぎた辰五郎は大きく笑った。この笑声で”火つけ作戦”はきまった。しかし江戸を燃すのになぜ駿河の博徒次郎長を招んだのか、このあたりにまだ海舟の考えの秘密がありそうだが、いまは深く触れていられない。
 海舟がつぎに招んだのは魚市場の親方連中だった。
「腰ぬけ旗本がみんな江戸から逃げた。イモがなぐりこんできたときの守りになってくれ」
 そうたのんだ。
 心意気に生きる親方どもである。それに海舟は身分が低いために幕府の偉方が全然協力せず、海舟を爪はじきしているという噂をこの連中は耳にしていた。単身、江戸のことを心配する海舟の心意気がグツときた。
 「かしこまりました。デバ一丁あれば、イモなんざ寄せつけるものじゃござんせん」
 魚市場代表は胸を張って言い放つ。海舟はありがてえ、それを聞いて大安心だ、と真実安心の表情をみせた。
 イギリス渡りの銃で攻めこんでくるイモをデバ庖丁で迎えうてるわけがない。海舟が狙ったのは魚市場従業員の確保だ。浮き足立って、もし江戸から逃げられたら市民は魚も食えなくなる。
(これで町の台所は安泰だ)
 海舟はひとり胸をなでおろした。
 つぎに集めたのが、江戸川から房総へかけての網元だった。
「おめえたちの舟をぜんぶ借りてえ」
 と手をついた。
「江戸に火があがったら、江戸の岸から町民を下総のほうへはこんでもらいてえんだ」
 海舟は江戸市民の疎開作戦を考えていたのだ。網元はみんな胸うたれた。
 「御家人の出だっていうのに大した人だ」
 一致した評価だった。海舟は舟の出動の約束をとりつけた。第二次世界大戦のとき、ダンケルクで敗れた英兵をはこぶのに、民間船がボートまで動員されたのに似ている。
 〈これでいざというときの手はうった)
 海舟は町の人間の意外な協力に胸をあたためた。武士よりよほど頼りになる。
 (ところで、もうひとつしごとがのこつている)
 女性が犯されるという江戸の男たちの最大の心配事だ。
 海舟は吉原に向かった。松葉屋に上がって付近の女郎をぜんぶ集めると、
「勝の一生のたのみだ。おめえたちで江戸の娘や堅気の女房を守ってくれ」
 と泣くような調子で言った。
 江戸の男たちはみんな女房や娘が官軍に犯されはしないかと心配している。その心配を取りのぞこうというのだ。そのためにプロに犠牲になってくれとたのんだ。
 江戸の女郎は、海舟の身分の低さとその江戸を思う真情にうたれた。腹の上で”イモ踊り”をさせてやる−女郎たちは言い切った。品川、板橋、新宿、千住の宿場の妓たちにも海舟はおなじことをたのんだ。

■西郷との江戸会談

<本文から>
 およそ虫のいい要望を出したのち、海舟は、はじめて胸中におさえにおさえて納めてきた鳥羽・伏見戦以来の官軍の猛進撃を抗議調で論じ、最後に、
『大政返上のうえは、わが江城下(江戸)は皇国の首府なり。今日、天下の首府に在りて、わが家の興廃を憂いて一戦わが国民を殺さんことは寡君決してなさざるところ、ただこいねがうところ、御所置公平至当を仰がぼ、上天に恥じるところなく、朝威これより興起し、皇国化育の正しきをみて響応瞬時に全国に及び、海外これをみて国信一洗、和信ますます固から
ん−』
 江戸を皇都として扱え、そうすれば、民も朝廷の恩をありがたく思い、外国の信用も深まるだろう、というのだ。
 西郷は、承知しましたが一存でいかぬ点もありますので、いまから大総督府に行って何分の返答をしますと答え、脇にいた中村半次郎と村田新八に、
「明日の攻撃はとりやめる」
 と命令した。
実は、十三日に木梨精一郎が横浜にとんでイギリスのパークス駐日公使に、江戸攻撃で負傷者が出たときに病院を借りたいと病院借用を口実に江戸攻撃を匂わせると、パークスは、
「まだそんなことを言っているのか!恭順表の慶喜を討つのは人道に反する」
 と声を荒げた。
 終始、薩長に武器と倒幕の策略をさずけてきた維新の黒幕としては意外な言であるが、新政府の勝利を信じたパークスにしてみれば、もうそれ以上の深追いは必要ないと判断したのだ。
 このパークスの発言も海舟の、イギリス公使館への果敢な根まわしの結果だといわれている。
 薩摩邸を出るとバラバラと官兵が銃をかまえて寄ってきた。
 「無礼をするな」
 叱りつける西郷を制して海舟は言った。
 「明日は、君たちとどういうまみえかたをするかわからん。この勝の顔をよくおぼえておきたまえ。万一戦いになったときは、私を撃ち損じるな」
 痛烈な西郷への牽制球であった。西郷は苦笑した。

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