童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          奥州藤原四代

■初代藤原清衡は東北全土を"仏の国"にしたかった

<本文から>
 つまりこれが藤原四代の政治目標であり、理念であって夢であった。いってみれば、初代の藤原清衡は、自分が治める東北全土を"仏の国"にしたかったのである。仏の国というのは、戦争がなく、そこに住む人々が安心して生計に励める安楽の土地を意味する。安楽の土地を"浄土"と呼ぶ。おそらく藤原清衡の目的は、この浄土を東北全域に実現することであったろう。
 その一つの例として、彼は白河の関から外ケ浜(津軽半島の陸奥湾沿いの地域)にいたる道に金色の阿弥陀仏を描いた笠卒塔婆を建てさせ、わきにその村の名を公示させた。また同時に各所に寺を造らせた。その中央に当たるのが、平泉の中専寺である。
 このやり方を見ても、初代藤原清衡の治国の目的がどこに置かれていたかがはっきりしてくる。清衡はあくまでも、
 「自分の支配下にある東北地方を、仏の恵みに満ちた平和な国にする」
 と考えた。そして、これを二代、三代、四代にわたってさらに拡充させたのである。
 その初代清衡の悲願にも似た夢からすれば、藤原徳尼の造った白水阿爾陀堂も、完全にその一翼を担っていることになる。
 初代清衡は、それまで東北の人々が押し込められていた地域の、境になっていた衣川を越えた。これは、明らかに京都にあった中央政治権力に対する一つの主張を示したことになる。それまで衣川から北に住まわされた人々は都の人々から、「蝦夷(エミシ・エゾ・エビスなどと読まれた)」とか、「俘囚」とかいわれた。いずれも未開の民として蔑む言葉であり、俘囚というのは、そういう未開の民が都の政治権力に屈伏して、一その支配下に入ったということである。
 藤原清衡自身が、
 「自分は俘囚の長だ」
 と言い切っている。
 このことは清衡のところでもっと詳しく書くが、清衡にすれば、その俘囚あるいは蝦夷の群れが、居住区域を定められていた境を越えて俘囚蝦夷外の地域に進出してきたということなのである。アメリカにおけるインディアンの扱いに似ている。だからこれにはたいへんな勇気が要った。いや、勇気だけでなく政治力と同時にその政治力を支える財政力が要った。その財政力を、清衡は東北地方から産出する黄金によってまかなった。東北地方は黄金の国でもあった。
 いま"みちのく"というと、大雑把だが東北地方全体を指す。しかしこの"みちのく"という言葉は、正確には"道の奥"をいう。この"道"が"陸"に変わった。いってみれば、道というのは単なる交通路としての線を指すのではなく、行政区域としての面を指した。そのため"道の奥"はやがて"陸奥"と書かれるようになった。通常"むつ"と呼んでいるが、これは単に地域に与えられた呼び方ではなく、
 「中央の政治・経済・文化の恩典に浴さない遅れた地域」
 という意味である。だから、みちのくというのは決してほめ言葉ではない。蔑みの言葉である。そして、単純に"みちのく"と呼ばれる区域も東側と西側とでは呼び方が違った。

■みちのくの生活向上が藤原清衡の願望

<本文から>
 その生活は必ずしも豊かではない。寒冷の地なので、いかに黄金が採れるからといっても人々の暮らしは決して豊かだったわけではない。古代からのそれがほとんど変わりなく続いていた。
 米はそれほどとれない。主たる食料は粟や稗だ。そして、天然の産物であるシカやイノシシを捕ってその肉を食らう。川を上ってくるサケを捕らえる。あるいは、越冬するカモなどの鳥類を捕らえる。
 しかし、こういう獲物はすべて一人がせしめるのではなく、村単位でみんなが分けた。
 衣類も貧しい。綿や木綿はない。せいぜい青苧(麻の一種)や楮で作った衣類を着る。染色も未発達だ。
 さらに住居に至っては、まだ竪穴で穴居生活を送っている家族はたくさんいた。
 地上に家を建てたといっても、それは土の上に直にゴザを敷いて横たわるだけだ。暖を取るためには家族が身を寄せ合って寝た。決して文化的な暮らしではない。
 俘囚の長だった藤原清衡はずっとそういう民衆生活を見つめてきた。
 それは、都からきた国司たちも同じだった。都の人間からみれば、そういう生活状態そのものが、「エビスの国」なのだ。そして、逆にいえばぞういう暮らしの状態だからこそ、都の人間たちも小数で支配できた。同時やそれほどの警戒心ももたなかった。つまり生産性が低いから、一人ひとりの人間のもっている富の程度が知れていたからだ。
 こういう人々の治安がなぜ保たれていたかといえば、村落共同体における村の長の権力が絶対だったからだ。村に住む人々は、村の長のいうことは必ず従った。したがって、こういう原始共生社会、つまり村落共同体が、この地方にはおびただしくあって、その一つひとつに必ず村の長(俘囚の長)がいた。地域を治めるのには、この村の長を服従させ支配すれば足りる。いってみれば、村の長の群れを支配することが、すなわち村そのものを支配することになるからだ。
 藤原清衡は、そういう支配管理を行なってきた。彼に対して、村の長たちの期待は大きかった。
 藤原清衡が平泉に拠点を設けて仏教王国を造ろうとしたのは、このへんの経緯がある。清衡は、何よりも東夷の国と呼ばれてきた人々の生活向上を図りたかった。
 そのために、この地域で産出する黄金を都に届けては、部分的だが都の人々が生活に使っている品物を輸入した。
 また、平泉の地を京都に似せて造ろうとしたのは、いってみれば、東北奥羽全体の底上げに役立つと思ったからである。
 「新しい酒は、新しい皮袋に盛る」
 という言葉がある。新しい酒というのは奥羽地域に生きる人々だ。この人たちの生活の中身を向上させるためには、やはり容器である皮袋を新しく作り直さなければならない。それが彼の平泉の造営であり、同時に一里ごとに金の阿弥陀像を描いた笠卒塔婆霊てた由縁でもあった。
 また、自ら求めたものではなく、都からの武力行使によって「エビス」の名を被せられたまま死んでいった多くの霊に対する弔いの気持ちもあった。
 そして、この新しい皮袋作りには、奥羽に住む人々がいっせいに飛びついた。藤原清衡の志を、自分の志として従った。彼もまた、自分たちが新しい洒になるためには、皮袋が新しくならなければダメだと思っていた。そのため、新しい皮袋作りには、もろ手を上げて協力した。
 そして、清衡が都から持ち込んできた仏の存在も、わりと異議なく受け入れられた。従来、土神、水神、山神などの土着神が多かった各地域でも、しだいに仏像崇拝が高まってきた。ということは、新しい心の拠り所をもち始めたということでもあった。
 藤原清衡は、
 「こうして、新しい洒の皮袋がどんどん作られれば、中に盛られる酒、すなわちこの奥羽の人々の質も向上する。都の連中からエビスなどと馬鹿にされることも、やがてはなくなるはずだ」
 という悲願が込められていた。
 だから、藤原清衡の志は、なにも都の権力から独立して特別な政権をこの地に打ち立てようなどという野心は微塵もなかった。できれば、都ともうまくやりながら奥羽地方の独特の生き方を認めてもらえばそれでいいと思っていた。そのためには、都から派遣されている国司たちと折り合って、仲良くしていかなければならない。いたずらに事を構えるのは決して得策ではない。
 しだいに仏のような心をもち始めた清衡は、そう考えていた。彼は小さいときから生活をともにしてきたので、貧しい暮らしが人間の精神にどういう影響を与えるかをよく知っていた。少なくとも土を掘った穴の中に住み、シカやイノシシを引きちぎって、その生肉を食うという暮らしぶりは、必ずしも愛すべきものではない。村の人々にしても、
「もう少し、ましな生活をしたい」
 と願っていることは事実だ。
 そして、もう少しましな暮らしをさせてくれる期待の存在が、藤原清衡だったのである。それは、それぞれが住んでいる村落共同体の村の長が、
「清衡様こそ、われわれの願望をかなえてくれるお人だ」
 と毎日のように聞かされているからだ。
 「その期待に応えなければならない」
 俘囚の長のたばねを務める清衡としては、そういう大きな責任があった。

■源氏に恩を売るために牛若丸を育てる秀衡の打算

<本文から>
 平滑盛にかろうじて命を助けられた源義経は、牛若丸と名乗って京都の鞍馬寺で僧の修行をしていた。ところが、ほとんどお経など読まずに武術の稽古ばかりしていた。金売り吉次が、この牛若丸に目をつけたのがいつの頃だったかわからない。
 しかし、吉次は吉次なりに考えた。それは、平家一門の豪著な生活があまりにも目立つので、しだいに世論の支持を失い始めていたからだ。
 (このままだと、また源氏が天下を取る日がくるかもしれない)
 あらゆる情報を集めて先の見通しを立てる書次は、フッとそんなことを考えた。
 そうなると、この牛若丸も貴重な存在になる。同時にまた、平家にとっては危険な存在になる。
「どうするか?」
 吉次は考えた。思い立ったのが、
 「平泉の秀衡様のところに連れていって、牛若丸を育ててもらおう」
 ということだった。
 最初、吉次に連れてこられた牛若丸すなわち義経(この後は義経で通す)を見て、秀衡は必ずしも歓迎しなかった。迷惑そうに眉をしかめた。というのは、この頃は平家万能の世の中で、
 「平家にあらざれば人にあらず」
 といわれていた時代だ。藤原三代の秀衡にしても、その平家一門の棟梁である清盛にしきりにおべっかを使い、あるいは貢馬・貢金を続けては、そのご機嫌を損じないように努めていたからだ。そんなときに源氏の御曹司など連れ込まれては、もし平清盛がこのことを知ったらヘソを曲げるに違いないと感じたからである。
 ところが、金売り吉次はとうとうと自分が情報によって立てた見通しを語った。はじめは仏頂面をして聞き流していた秀衡も、やがて吉次の話に日を輝かせ始めた。秀衡もたいへんな政治家だ。吉次にいわば藤原家の京都支店長のような仕事をさせているのだから、その言うことには耳を傾ける価値がある。
 吉次が予測した「やがて源氏が起つ」という話は芳衡の胸を沸かせた。秀衡もまた、
 「あるいは、そうなるかもしれない」
 と思ったのだ。それに、東北制圧は源頼義以来、源氏の執拗な野望だ。吉次の言うように源氏が再び力を得たときは、必ずこの東北に目を向ける。また大軍がやってくる。そのとき、この源氏の流れを汲む牛若丸という少年を育てて恩を着せておけば、源氏も闇雲には藤原氏を討つまい。

■藤原氏の滅亡

<本文から>
 奥六郡で由利八郎といえば、かねがねその勇名は伺っている。だからこそあなたを捕らえた者は、自分だと言い張って、その手柄を誇りたいのだ。
 そこで、お訊ねするが、あなたを捕らえた鎌倉側の武士は、どういう鎧を着、どういう馬に乗って、どんな風貌をしていたか、そういうことを話していただきたい。別に他意はない」
 これには、由利八郎も頭を下げた。
 「畠山殿のお名前はかねがね私も伺っております。さすがに礼節を心得られた武士であらせられる。恐れ入りました。前に私を訊問した人物とはまったく違う。事実を申し上げましょう。
 私を捕らえた鎌倉方の武者は、黒糸おどしの鎧を着て鹿鳥(茶色またはこげ茶色の毛色のこと)の馬に乗っておられました。馬上にいた私をつかまえ、馬から引きずり落としました。そこへ多くの武士が飛びかかってきたので、あとはわかりません」
 黒糸おどしの鎧と鹿毛の馬というのは、宇佐美某のものであった。そこで由利八郎を捕らえたのは宇佐美だということになった。畠山重忠は俘囚の子孫を俘囚として扱わず、ひとかどの武者として扱ったことで名を上げた。代わりに、梶原景時は面目を失った。
 そのへんをおもんばかったのか、梶原贔屓の頼朝が、
 「由利八郎を自分のところに連れて来い」
 と命じた。自分が訊問して、福原の面目を取り返してやろうと思ったのであろうか、由利八郎は頼朝の面前に引き出された。頼朝はこんなことを言った。自慢話である。
 「藤原泰衡は、先代秀衡とともに北方王国を築いた人物だと聞いていた。だからこのたびの追討は非常に困難だと思った。
 ところが、それほど彼に尽くす者はいずに、たかが河田次郎という一部下によって殺されてしまった。わずか二十日ばかりの間に一族が皆滅んでしまった。
 どうだ?あまりにも腑甲斐ないと思わないか?」
 由利八郎は首を振った。
 「別にわが主人が腑甲斐ないとは思いません。血気盛んな強い兵は、この広大な国土を守るために、あっちの戦線、こっちの戦線と散開されています。年取った老兵は自殺しました。私のようにだらしのない者が、こうして捕虜になったのです。
 しかし、わが主人泰衡が、腑甲斐ないといえないのは、あなたの父君義朝殿も同じだったからです。
 あの頃の義朝殿は、確か東海道十五か国の主人であられた。ところが、平治の乱のときには、一日も支えられないで逃亡なさいました。しかも忠臣だと思って訪ねて行った長田庄司のために風呂場で殺されたと承っております。
 義朝殿のご最期と、わが主人泰衡の最期とくらべて、どちらが腑甲斐ないとお思いでしょうか。
 いまあなたのお話のように、わずか陸奥と出羽二国の兵だけで、ほぼ日本を支配しつつあるあなたの大軍を二十日も支えたということは素晴らしいことではありませんか。簡単に腑甲斐ないというふうにおっしゃらないで下さい」
 この由利の反論に対して頼朝は黙ってしまったという。腹の中では相当面白くなかったに違いない。しかし言われてみればそのとおりで、彼の父義朝はまことにあっけない最期を遂げた。たとえ謀殺されたといっても、それは油断したからにほかならない。
 頼朝はそれ以上由利八郎の訊問を続けることをやめた。ただ、このとき頼朝が偉かったのは、由利八郎を殺さなかったことだ。
 「おまえはなかなか見所がある。故郷に帰って安穏に暮らすがよい」
 出羽国由利郡に戻ることを認めた。おそらく畠山重忠の存在を頼朝も気にしたに違いない。あるいは重忠が助命嘆願したのか、いずれにせよ由利八郎は勇気ある発言によって命を助けられた。
 このときの戦乱では、平泉はほとんど無傷であった。山麓の町が多少兵火にかかった程度で、中尊寺や毛越寺などはすべて残された。
 中尊寺の僧たちが必死に、
 「このまま焼かないでほしい」
 と頼朝に嘆願したからだという。
 頼朝もまた、平泉の絢爛豪華たる仏教文化には目を見張った。彼が鎌倉に戻って営んだ寺院造営はすべて、
 「平泉を鎌倉に再現しよう」
 ということだったと。いわれている。
 しかし、藤原氏が滅亡して強力な保護者を失った寺々は、結局は荒廃するに任せた。
 時折、鎌倉の執権北条氏の中で心ある者が再建をはかったりしたが、たまたま南北朝の争乱が始まって、建武四年(一三三七)に火災が起こった。この大火によって中等寺は金色堂と経蔵など二、三の堂宇を残しただけですべて焼失してしまった。
 後に鎮守府将軍北畠顕家がこの復興に努力している。
 毛越寺のほうは、嘉禄二年(一二二六)十一月八日に起こった大火で、全山ことごとく焼失してしまった。中尊寺の焼失よりも約百年前の出来事であった。

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