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<本文から> つまりこれが藤原四代の政治目標であり、理念であって夢であった。いってみれば、初代の藤原清衡は、自分が治める東北全土を"仏の国"にしたかったのである。仏の国というのは、戦争がなく、そこに住む人々が安心して生計に励める安楽の土地を意味する。安楽の土地を"浄土"と呼ぶ。おそらく藤原清衡の目的は、この浄土を東北全域に実現することであったろう。
その一つの例として、彼は白河の関から外ケ浜(津軽半島の陸奥湾沿いの地域)にいたる道に金色の阿弥陀仏を描いた笠卒塔婆を建てさせ、わきにその村の名を公示させた。また同時に各所に寺を造らせた。その中央に当たるのが、平泉の中専寺である。
このやり方を見ても、初代藤原清衡の治国の目的がどこに置かれていたかがはっきりしてくる。清衡はあくまでも、
「自分の支配下にある東北地方を、仏の恵みに満ちた平和な国にする」
と考えた。そして、これを二代、三代、四代にわたってさらに拡充させたのである。
その初代清衡の悲願にも似た夢からすれば、藤原徳尼の造った白水阿爾陀堂も、完全にその一翼を担っていることになる。
初代清衡は、それまで東北の人々が押し込められていた地域の、境になっていた衣川を越えた。これは、明らかに京都にあった中央政治権力に対する一つの主張を示したことになる。それまで衣川から北に住まわされた人々は都の人々から、「蝦夷(エミシ・エゾ・エビスなどと読まれた)」とか、「俘囚」とかいわれた。いずれも未開の民として蔑む言葉であり、俘囚というのは、そういう未開の民が都の政治権力に屈伏して、一その支配下に入ったということである。
藤原清衡自身が、
「自分は俘囚の長だ」
と言い切っている。
このことは清衡のところでもっと詳しく書くが、清衡にすれば、その俘囚あるいは蝦夷の群れが、居住区域を定められていた境を越えて俘囚蝦夷外の地域に進出してきたということなのである。アメリカにおけるインディアンの扱いに似ている。だからこれにはたいへんな勇気が要った。いや、勇気だけでなく政治力と同時にその政治力を支える財政力が要った。その財政力を、清衡は東北地方から産出する黄金によってまかなった。東北地方は黄金の国でもあった。
いま"みちのく"というと、大雑把だが東北地方全体を指す。しかしこの"みちのく"という言葉は、正確には"道の奥"をいう。この"道"が"陸"に変わった。いってみれば、道というのは単なる交通路としての線を指すのではなく、行政区域としての面を指した。そのため"道の奥"はやがて"陸奥"と書かれるようになった。通常"むつ"と呼んでいるが、これは単に地域に与えられた呼び方ではなく、
「中央の政治・経済・文化の恩典に浴さない遅れた地域」
という意味である。だから、みちのくというのは決してほめ言葉ではない。蔑みの言葉である。そして、単純に"みちのく"と呼ばれる区域も東側と西側とでは呼び方が違った。 |
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