童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の選択 渋沢栄一

■道を見出す新しい出会

<本文から>
  出会いは、人間の運命を変える。渋沢栄一が、もし平岡円四郎という人物に出会わなかったら、かれの将来は一体どういうことになっていただろうか。
 平岡円四郎に会ったことによって、渋沢栄一は二つの変革をした。一つは思想的な変革であり、もう一つは、自己の能力の認識である。円四郎は、栄一を、それまでの過激な尊王攘夷青年から、進取開国の思想家に変えた。
 同時に、栄一自身がそれまでまったく気がつかなかった、あるいは気がついていても、
 「この才能を駆使して生きていこう」
 とは思わなかった″理財″に関する能力を掘り起こした。栄一は、武蔵国(埼玉県)の豪農の息子だったから、もちろん経営についてまったく認識がなかったわけではない。子供の頃は、祖父について藍の買いつけにも出かけている。
▲UP

■歴史の法則が、「主権」をどんどん下に下ろしていく

<本文から>
 そういう栄一からすれば、水戸天狗党の乱も、あるいは「武士の論理」に基づいた行動だと思えかたのかも知れない。
 「どこに民衆がいるのだ? 農民がいるのだ?」
 という思いがあっただろう。
 「自分たち武士の意地を貫くために、藩内が真っ二つに割れた。尊王攘夷と口にはしても、結局は武士同士の争いではないか」
 栄一が擬視していた、現世の潮流や、世論とはかかわりなく、底の方を静かに流れている地下水脈というのはそういうことではなかっただろうか。つまり、「武士の論理」とは別な運動法則に目を向けていたのだ。それは運動法則というよりも、栄一にとってはむしろ「歴史の法則」だったに違いない。
 栄一が見つめていたのは、この歴史の法則である。歴史の法則が、「主権」をどんどん下に下ろしていく。帝から武士へ、武士から民衆に下ろしていくのだ。やがては一般の庶民や農民が、主権者となって日本の政治を行なう時代が来るに違いない。また、そうならなければならない、そうさせるのが歴史の法則だ、と栄一は思っていた。
▲UP

■パリ万国博覧会に参加していたため命を拾った

<本文から>
 このパリ万国博覧会に参加していたため、栄一は命を拾ったといっていい。もし、あのまま日本に残って慶喜のプレーンをつとめていたら、
 「大政奉還だの、大名連合だのという、とんでもない知恵を徳川慶喜につけているのは、渋沢栄一だ」
  ということになったに違いない。原市之進も、
 「あいつは水戸出身者でありながら、開国論を唱えるけしからん奴だ」
 ということで殺されてしまっていた。栄一も同じだ。栄一自身は、心の底にはどうもまだ攘夷論を持っていたようだが、考えていることとやっていることはまったく別だ。ましてや、徳川幕府の屋台骨を引っくり返そうなどというとんでもない考えを持っていたのだから、当然反対派からは狙われる。もし、パリの万国博覧会に行かなかったら、栄一も暗殺されてしまったかも知れない。かれはたまたまこの、″危険な現場″から身を遠ざけていたために助かったのである。
 一橋慶喜が徳川慶喜と名を変え、さらに半年後将軍の職についた時、栄一の身分も変わった。つまり、いままでは一橋家の家臣であった者が、今度は正式に徳川幕府の家臣になったのである。幕臣になった。
 この時、栄一は悩んだ。ずっと一緒にいる喜作と額を寄せて相談した。
 「どうも割り切れない」
「俺もそうだ。一橋家は、天下の有志を広く採用するという評判が高かったから、俺たちのような不完全燃焼の思想を持つ人間も、何とか生き抜いてこられた。しかし、慶書様がはっきり将軍になった以上、俺たちも自動的に徳川幕府の家臣になってしまう。これは、どうみても、かつての同志たちから批判・非難されてもやむを得ない。ちょっと憂鬱だな」
 「いっそ辞任するか」
 「しかしせっかくいままで得た場を、みすみす失うのも残念だ」
 「どうしよう」
 「そうだな」
 栄一は腕を組んだ。やがて書作にいった。
 「ここで、いったん死のう」
 「死ぬ? 腹を切るのか?」
 「そうじゃない」
 栄一は喜作を見つめた。
 「死んだ気になるのだ。過去の渋沢栄一も、喜作も今日死ぬ。そして改めて生まれる。
▲UP

■先天的なオルガナイザー(組織者)だった

<本文から>
 この考え方の底には、大事なことが一つある。それは、栄一はかねてから、
 「たとえ商業といえども、一人の力はたかが知れている。また、独断に走ると、必ずしも相手の幸福を促すようなことにはならず、逆に相手を苦しめる場合がある。これは道に悸る。これを避けるためには、商人が共同体を組織して、手を取りあって運営していくことが必要なのだ」
 つまり、栄一が信念としている「道徳と経済の一致」、別な言葉で「論語とソロバンの一致」を実現するには、一人ではなく、商人が共同組織をつくって運営することが必要だというのだ。渋沢栄一は、のちに数百の会社を興したり、商工会議所をつくったりする。そのため、
 「渋沢栄一は、組織づくりの名人だ」
 といわれた。確かにその通りだ。かれは先天的なオルガナイザー(組織者)だった。そういうリーダーシップを持っていた。一しかし、かれは強引なリーダーではなく、あくまでも、理で相手を説得し、納得させた上で参加させるという方法をとった。無理をしない。そのために根気強い。そのために、かれ自身が自分を常に変革し、徳を磨くことを旨とした。不断の自己改革を続けたのである。いまの言葉を使、えば「生涯学習」をやめなかったということだろうか。
 栄一にすれば、自分が話した案は、外国で学んだ経済理論をそのまま移行して、日本の経済の近代化をはかることであり、そのことに何の疑問もなかったことだ。外国で成功していることを、そのまま日本に移そうとしたのだ。そして、これにいくらか日本的特性を加味しようとしたのだ。
 しかし、藩庁の重役たちにとってはそう簡単なことではなかった。まして、藩立の商会をつくつて、その運営の大半を地域商人に任せるなどということは、何か割り切れなかった。ここにも依然として、いままでの「士農工商」の観念が働いていた。栄一は、苦々しく思った。
 (まだそんなことをいっている。いつまでもそんなことをいっていると、先の政治上の破産から、本当に財政上の破産を招くぞ)
 と思った。
 栄一の案にもっとも関心を示したのが、勘定頭の平岡(もちろん円四郎とは別人)だった。平岡は、前々から栄一とは接触があったので、栄一の人柄を知っていた。栄一は決して私利私欲でそういうことをいうのではないと思っていた。それに、栄一は外国生活が長い。平岡は、
 (おそらく、外国で日本のためになることを学んできたのだろう。昭武様が勉学したのと並行して、渋沢自身も、多くのことを学んだのだ。それをかれは、静岡藩のため、ひいては日本のために活用しょうとしている)
 と感じた。しかし、平岡自身も、自分の一言でいまの藩庁がすぐ動くとは思わなかった。
(渋沢の案はいいが、しかしそれを実現の段階に持っていくまでには多少の時間がいる。その説得には自分があたろう)
 と考えた。そこでこういった。
「なかなか面白い案だ。一考に値する。しかし、藩の事情もあるので、いま君が話したことを文書にして差し出してはもらえまいか。もう少し、われわれの方でも検討したい」
 といった。栄一は平岡を見返し、目で、
 (よくわかりました)
 とうなずいた。計画書を出した。明治元年の暮れのことだったという。
 翌二年の春になって、栄一は平岡から呼び出しを受けた。
「君の案が採用されることになった。ついては、君を新しくつくる商会の頭取に命じたいので、早速商会の設立準備に入ってほしい」
といった。栄一は喜んだ。
▲UP

■萬屋主義で五百余りの会社に関与

<本文から>
 栄一が関与した会社の数は、約五百余りだという。そしてその範囲も、銀行、鉄道、海運、紡績、保険、鉱山、織物、製鋼、陶器、造船、ガス、電気、製糸、印刷、製油、築港、開墾、植林、牧畜、石油、セメント、どん醸造、帽子の製造、製麻、製藍、水産、煉瓦の製造、人造肥料、ガラス製造、熟皮、汽車の製造、ホテル、貿易、倉庫、取引所、また輸入、などだ。経済のあらゆる面にかかわっている。栄一は、これを称して、
 「萬屋主義」
 といった。
 では、なぜかれが萬屋主義と自嘲してまで、いろいろなことに手を出したか。
 政府から身を引いて、実業界に打って出た時の日本の状況について、栄一はこういういい方をしている。
 「たと、えば、日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売に従い、農といえば大根をつくって沢庵漬けの材料を供しているだけだ。また、工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。また、商店といっても、日本の住民自体の購買力が低下してしまっているから、一製品の販売で、身を立てることはできない。だから、呉服屋が荒物商を兼ねている。酒屋が飲食店を兼ねている。これは、店を維持していく上で、そうせざるを得ないからだ。
 そうなると、やはりわが国の商工界は、まず萬屋から出発さぜるを得ない。これは、世界的規模についていえば、日本の商工業がとりあえず萬屋主義をとらざるを得ないということになる。世の中には、いやそれは間違いで、一人一業主義をとるべきだと頑張る人もいる。確かに、それも理だ。が、こういうことはよほど才幹がなければできない。誰にでもできるということではない。誰にでもできるのは、やはり当面萬屋主義をとることである」
 しかし、ル萬屋主義"といってみても、栄一の主張したことは、単なる兼業主義をいっているわ
けではない。かれは生涯を通じて、その主張するところは変わらなかった。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ