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<本文から>
この本では、老子を完全に自分のモノとして生きている人・モノにしつつある人・なかなかモノにできない人・まったくできない人などを、現在と過去から選び出して、その生き方を紹介してみたい。わたし自身も「モノにしたくてもなかなかモノにできない人間」の一人なので、多くの先人たちが老子とどう取り組みあったのか、その格闘ぶりを知ることによって自分自身の参考にもしたいと思っているからだ。扱う人物やその行跡は、
「老子的生き方をした人々」
であって、あえて「的」という字を入れたのは、「老子」は八十一章で成立しているが、
「その生き方はどこに根拠があるのだ」
と聞かれても、必ずしもこの章だと明確に答えきれないものもあるからだ。だから、あえて「老子的生き方」というのである。しかし老子的生き方というのは、
「老子の精神(スピリット)をよくとらえ、自分の心の中に消化している」
という意味であって、まったく老子と無縁な生き方をここに掲げるわけではない。その辺はご了解いただきたい。つまり今、老子が生きていても、ここに紹介する人々の生き方を見て、
「まあ、許容の範囲内だろうな」
とニヤリと笑うであろう姿を想定して書いている。老子という人は実在しなかったという説もあるが、残された画像を見ても実に不思議な顔かたちをしている。わたしが頭の中に描くのは映画「スター・ウォーズ」に出てくるヨーダだ。あの小柄で目が大きく、深い哲学的思索を奥底に秘めている奇怪な老人は、そのまま老子の姿に思える。あの映画では、ヨーダはすでに八百歳を超えているというが、その不可解さや持っている超能力なども、アメリカ映画でありながら、東洋的哲人のイメージをいやがうえにもわれわれに植え付ける。
老子の思想の柱の一つは「無」だ。カラッポ・ガランドウだ。老子には有名な″フイゴの思想″がある。フイゴというのは鍛冶屋さんなどが使う、風を起こす道具だが、老子がいうのは、
・フイゴは目に見える部分と目に見えない部分で成り立っている。しかし大事なのは目に見える部分よりもむしろ見えない部分だ
・目に見えない部分というのは、空でありカラッポでありガランドウの場所をいう
・フイゴを使う時は目に見える部分を踏んだり押したりして圧力を加えるが、それによってカラッポの部分で風が起こり、それが火力を増す助けになる。これが鉄を溶かす大きな力になるという考えだ。老子はそのことを、
「天と地の間はたくやくのようなものだ。空っぼだがつきることはなく、動けば動くほどますます″力″が出てくる」
といっている。老子はこの言葉を政治家の姿勢として書いている。不言実行の政治家の方が民にとってはありがたい存在で、うまいことばかりいってひとつも実行しないような政治家は多言者として退けている。老子の政治観は、
「政治を感じさせるような政治家は本当の政治家ではない。本当の政治家は、民に政治そのものの存在を感じさせない」
と、″無の政治″を賞賛している。しかしこの言葉は単に政治家だけではなく、平凡な人間としてのわたしたちの生き方にもそのまま当てはまる。わたしがこの本の副題に、
「『フイゴ人間』になろう」
と書いたのはその意味である。 |
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