童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の老子「フイゴ人間」になろう

■老子の精神をよくとらえ自分の心の中に消化する

<本文から>
  この本では、老子を完全に自分のモノとして生きている人・モノにしつつある人・なかなかモノにできない人・まったくできない人などを、現在と過去から選び出して、その生き方を紹介してみたい。わたし自身も「モノにしたくてもなかなかモノにできない人間」の一人なので、多くの先人たちが老子とどう取り組みあったのか、その格闘ぶりを知ることによって自分自身の参考にもしたいと思っているからだ。扱う人物やその行跡は、
 「老子的生き方をした人々」
であって、あえて「的」という字を入れたのは、「老子」は八十一章で成立しているが、
 「その生き方はどこに根拠があるのだ」
と聞かれても、必ずしもこの章だと明確に答えきれないものもあるからだ。だから、あえて「老子的生き方」というのである。しかし老子的生き方というのは、
 「老子の精神(スピリット)をよくとらえ、自分の心の中に消化している」
という意味であって、まったく老子と無縁な生き方をここに掲げるわけではない。その辺はご了解いただきたい。つまり今、老子が生きていても、ここに紹介する人々の生き方を見て、
 「まあ、許容の範囲内だろうな」
とニヤリと笑うであろう姿を想定して書いている。老子という人は実在しなかったという説もあるが、残された画像を見ても実に不思議な顔かたちをしている。わたしが頭の中に描くのは映画「スター・ウォーズ」に出てくるヨーダだ。あの小柄で目が大きく、深い哲学的思索を奥底に秘めている奇怪な老人は、そのまま老子の姿に思える。あの映画では、ヨーダはすでに八百歳を超えているというが、その不可解さや持っている超能力なども、アメリカ映画でありながら、東洋的哲人のイメージをいやがうえにもわれわれに植え付ける。
 老子の思想の柱の一つは「無」だ。カラッポ・ガランドウだ。老子には有名な″フイゴの思想″がある。フイゴというのは鍛冶屋さんなどが使う、風を起こす道具だが、老子がいうのは、
 ・フイゴは目に見える部分と目に見えない部分で成り立っている。しかし大事なのは目に見える部分よりもむしろ見えない部分だ
 ・目に見えない部分というのは、空でありカラッポでありガランドウの場所をいう
 ・フイゴを使う時は目に見える部分を踏んだり押したりして圧力を加えるが、それによってカラッポの部分で風が起こり、それが火力を増す助けになる。これが鉄を溶かす大きな力になるという考えだ。老子はそのことを、
 「天と地の間はたくやくのようなものだ。空っぼだがつきることはなく、動けば動くほどますます″力″が出てくる」
 といっている。老子はこの言葉を政治家の姿勢として書いている。不言実行の政治家の方が民にとってはありがたい存在で、うまいことばかりいってひとつも実行しないような政治家は多言者として退けている。老子の政治観は、
 「政治を感じさせるような政治家は本当の政治家ではない。本当の政治家は、民に政治そのものの存在を感じさせない」
 と、″無の政治″を賞賛している。しかしこの言葉は単に政治家だけではなく、平凡な人間としてのわたしたちの生き方にもそのまま当てはまる。わたしがこの本の副題に、
「『フイゴ人間』になろう」
と書いたのはその意味である。
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■「葉隠」のもとになった老子均生き方

<本文から>
 不遇な挫折者という意味では、「葉隠」を口述した山本常朝も同じだ。山本常朝は、万治二(一六五九)年の夏、肥前(佐賀県)佐賀藩主鍋島家の家臣山本神右衛門重澄の子として生まれた。このとき父親は七十歳だった。相当、高年齢のときの子だ。万治二年というのは、関ケ原合戦が終わってから約六十年、そして大坂の陣の終結(慶長二十年・一六一五)から四十五年ばかり経った時期である。したがって父の山本重澄はまだまだ戦国気質が色濃く残っていた。かれは、
 「無事平穏」
という言葉が大嫌いだった。人と話していても、
 「最近、何かあるか?」
ときいて、相手が、
 「いえ、何もありません。毎日無事大過なく過ごしております」
という返事をすると、たちまち機嫌を悪くした。プイと横を向いてそのまま席を立ってしまう。かれにとって、胸の中にあるモットーは、
 「常在戦場」
であって、いつも危機は目の前に迫っている、それと面と向かい合わなければならないという緊張の連続であった。だから、山本常朝が妻の胎内にいるときからいつも腹に口をつけては、
 「大曲者(異常な人間) になれ」
と吹き込み続けた。今でいえば胎教だが、随分変わった教えを吹き込んだものである。しかし期待に反して、生まれた常朝は虚弱児だった。そのため、今でいえば引きこもりがちでひたすら勉学に勤しんだ。父親の重澄は怒った。そこで体を鍛えるために、毎日、往復一〇キロ余りある山本家の菩提寺まで墓参りなどをさせた。しかし常朝の体は必ずしも頑健にはならなかった。九歳のとき城のお側小姓 (雑用をする少年給仕)に採用された。しかし城の雑用はさせられずに、藩主光茂(二代目)の世子(跡継ぎ)の相手をさせられた。この世子が病弱だったからである。その頃の常朝は父親の鍛錬の甲斐あって、かなりのいたずら小僧になっていた。体はそれほど頑丈ではないが、いたずら小僧としてはかなり名を馳せていた。藩主の光茂はそれを見込んだのである。だから常朝に、
 「おまえはありのままのやり方で息子を鍛えてほしい」
といった。常朝は光茂の言葉をそのまま信じた。だから世子には容赦しなかった。世子の方もそんな常朝を慕って、自分が馬になって常朝に尻を叩かれたり、あるいは木登りを教えられて枝から下に落ちたりした。しかし光茂はそういう常朝の行動を喜んだ。
 やがて成人した常朝は還俗させられ、蓄髪して武士に戻った。文書掛に配属された。ここでは親戚が上役だった。親戚は常朝に文学的才能があるのを見込んで、その方面の仕込みを熱心に行った。常朝はこの親戚から「古今和歌集」の奥義を学んだ。親戚はおせっかいで、そういう常朝に、
 「若様(かつて常朝が遊び相手だった世子)にも和歌を教えて差し上げろ」
 といった。常朝はその言に従った。ところがこのことが藩主光茂の耳に入った。親戚が呼び出され、常朝はクビになった。常朝はびっくりした。親戚にすれば、常朝の文学好きを活用して、
その面に深い関心を持つ世子(若殿)にも教養をつけた方がよかろうという動機は善意だった。
 ところがこの善意が裏目に出た。世子の父親の藩主は、
 「それでなくても世子は軟弱だ。文学を教え込んでさらに軟弱にするとは何事か。世子はもっと武術を学ばねばならぬ。大名としての勇猛心を育てなければならぬ」
と考えていたので、「古今和歌集」を教えるなどはとんでもない話だったのである。山本常朝はなにか欺かれた気がして落ち込んだ。挫折した。善意で行ったことがこういう形で逆流してくるとは思わなかったからである。
 雌伏何年かの後に、光茂は再び常朝を呼び出した。そして今度は文字どおり文学に関する仕事を与えた。光茂も和歌の達人だった。特に古今伝授に関心を持っていた。死ぬ直前、光茂は常朝に命じ、
 「京都に行って、古今伝授を継承している公卿から、伝授の許可をもらってほしい」
といった。常朝は京都に走り、古今伝授の許可を得てきた。ところが佐賀に帰り着いた時に光茂はすでに死んでいた。一旦は挫折したものの、その後限りない信頼を置いてくれた光茂に対し、常朝はすぐ殉死しようとした。ところが光茂は死ぬ直前に家臣に対し、
 「わたしへの殉死を禁ずる」
と厳命していた。常朝はまた挫折した。そしてここで職を辞め、佐賀郊外の金立山の麓に小さな庵を営んだ。ひたすら亡主光茂の菩提を弔おうと決意したのである。そんなときに、やはり不遇の位置に置かれていた田代陣基という若い武士が訪ねてきた。挫折者同士の心の行き通いを願ってである。そこで常朝は鍋島家の祖直茂から、その長男で初代の佐賀藩主になった勝茂、そして二代目の光茂などと、これに関わりを持つ佐賀藩士たちの思い出を語りはじめた。田代は常朝の語ったことをメモし、整理した。これが、
 「武士道とは死ぬこととみつけたり」
というショッキングな言葉ではじまる「葉隠」である。
 山本常朝が「老子」を読んだという証拠はない。しかしかれは間接的に、前に紹介した湛然という禅のお坊さんや、また佐賀藩での気骨人として名を馳せた石田一鼎というユニークな武士の影響を受けた。主人から退けられた常朝が特に学んだのが湛然と石田一鼎である。一鼎は、正義感が強くズケズケ藩主に諌言をすることで有名だった。そのためにクビになり、これまた小さな庵を結んで、訪ねてくる人間に自分の考えを示した。常朝もよく通った。一鼎は山中にこもり、ほとんど自然に溶け込んだ生活をしていた。
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■徳川吉宗、天下を任せられるのは健康を大事にする人

<本文から>
 老子の期待する政治家像には、その条件にかなり意表をつくようなものが多い。たとえば、
 「天下を任せられる政治家は、名誉や財産よりも自分の健康を大事にする人だ」
というような言葉がある。
 「名誉と恥辱に対して人々は敏感で、それを得たり失ったりするたびに大きな驚きを感ずる。これは大病を患わないように自分の体をいつも心配するのと同じだ。そんな病気に罹る気配を感じた時は、はらはらする。不安でしかたがない。これは体があるためだ。体がなければこんな心配はしない。そうであれば、このようにいつも自分の体を心配する者に天下を任せる方がうまくゆく。それは、自分の体をいとおしむように天下をいとおしむからだ。天下が病気にならないよう
に常に緊張するから、人々は安心して任せることができる」
 日本で江戸時代に名改革者といわれた人物に、八代将軍徳川青宗がいる。吉宗は紀州和歌山藩主から第八代将軍になったが、江戸城内の役人たちは戦々恐々としていた。紀州藩主だった吉宗は思い切った藩政改革を行ってきたからである。江戸城の役人たちは、「新しい将軍様は江戸城でも思い切った改革を行うのではなかろうか。そのときはきっと大規模な組織改革と人事異動を行うにちがいない」
 と話し合った。ところが青宗は従来の組織はほとんど改編せず、また大規模な人事異動も行わなかった。この時かれが行った人事異動は、わずかに、伊勢山田奉行だった大岡越前守忠相を江戸町奉行に登用したことである。そしてこの時に吉宗は大岡にこういった。
 「体を大切にして長生きをしてほしい。おまえが途中で病気になって死ぬようなことがあれば、わたしの改革の志は遂げることができない。頼む」
 「老子」のこのくだりを読んでふっとそんなことを思い出した。普通なら、地方から中央に登用すれば、
 「かねてからおまえに目をつけていた。今度改革を展開する上でおまえを抜擢した」
と、いわば恩きせがましい言い方をするのが普通だろう。ところが書宗はそんなことはいわない。大岡に、
 「くれぐれも健康でいてほしい。そのことがわたしの改革を進める上で一番嬉しいことなのだ」
と告げた。ちょっと「老子」のこのくだりに似た書宗の発言だ。書宗が「老子」を読んでいたかどうかはわからない。吉宗は大体文学書嫌いで科学書ばかり読んでいたというから、おそらく自分の心のままに大岡に告げたのだろう。
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■二宮金次郎の「老子的」読書法

<本文から>
 ではどういうとびこみ方をするのか。断片的にその方法が示されてはいるが、しかし系統的にあるいは体系的にまとめているわけではない。老子の本全体が、八十一章に分類されてはいるものの、同じ一章の中でまったく論旨のちがう文章が併記されている場合もある。その意味では、決して「老子」はわかりやすい本ではない。むしろ難解な本だといっていいだろう。
 しかし難解だからといって、読みたくないとか読まないとかという態度をわたしはとらない。二宮金次郎の読書法を思い出す。二宮金次郎は幕末の有名な農民思想家だが、子供の時からたいそう勉強をした。戦前の小学校にはよく二宮金次郎の少年像があった。薪を背負い、本を読みながら勉強をつづける金次郎の銅像だ。金次郎が読んでいる本は「大学」という中国の古い本だ。この本のテーマは「譲」だ。金次郎はこの「譲」を徹底的に自分の農村改革法に適用した。「報徳仕法」と呼ばれるものがそれだ。報徳というのは「徳に報いる」ということで、仕法というのは「やり方」という意味だ。二宮金次郎の報徳仕法は分度・勤労・推譲の三本柱によって構成される。分度というのは生活設計のことであり「収入に応じた生活をする」ということだ。勤労というのは「一所懸命働く」ということだ。だから一所懸命働けば、場合によっては立てた分度を超えた収入を得られる場合がある。そのときは「他へさし出せ」と金次郎はいう。これが推譲だ。推譲というのは「さし出す」ということである。まず自分にさし出し、家族にさし出し、隣家にさし出し、地域社会にさし出し、国家にさし出し、世界にさし出すという段階的なさし出し方をしていく。そうなればさし出された方は、その徳に対し、
 「報いなければならない」
 と思う。そのためそこで報徳の思想が生まれる。これがかれの報徳仕法である。これはお読みになってすぐお感じになるだろうが、老子のいう、
 「すべてへりくだって対応する」
というヒューマニズムにつながるものがある。二宮金次郎が「老子」を読んでいたかどうかは知らない。しかしかれは独学で万般にわたる書物を読みまくつた。
 ところが、その金次郎におもしろい言い伝えがある。それは、
 「二宮金次郎は、難解な書物を読み進む時、いくら読んでもわからない場合には、そのページを破り捨ててしまった」
 というものだ。わたしはこれに大いに力を得た。わたしも独学でいろんなことを学んだが、やはり頭のせいもあるだろうがよく理解できない場合もある。その時はとばし読みをする。つまりそれは二宮金次郎の、
 「難解な箇所は破り捨てた」
という胸のスカッとするようなエピソードを憶えているからである。悪いところだけ二宮金次郎に学んでいるようだが、そうではない。というのは金次郎がそういうことをしたのは、
 「ここでいつまでも時間を費やしていると、自分がほんとうに世の中にさし出したいことを仕上げることができない」
 という、農民や社会に対する責任感がほとばしっていたためだ。つまり金次郎はいつも「時間との闘い」に挑んでいた。そんな時に、一冊の本の中で一頁だけ難解なところがあっても、金次郎にすれば、
 「ここをとばしてしまっても、この本から得られる大勢に影響はあるまい」
と考えたのではなかろうか。もちろんたった一頁でも大勢に影響のある文章はたくさんある。
 しかし、
 「生きることに心せかるる状能」
にあった金次郎は、そこを破り捨てて前へ進むことの方が大切だったのである。
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