童門冬二著書
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          男の論語・下

■何よりも信頼を大切にせよ

<本文から>
 孔子の門人子貢が政治についておたずねした。孔子先生はこうおっしゃった。
「食糧を十分にし、軍備を十分にして、人民の信頼を得ることだ」。子貢はうなずいた後、こうきいた。「しかし万一己むを得ない理由で、いま教えていただいた三つのうちどれか一つを捨てなければならない時には、まずどれから捨てるべきでしょうか」。孔子先生はこう答えられた。「軍備を捨てる」。子貢はさらに、「残った二つの中から、どちらか一つを捨てるとすればどっちでしょうか」。「食料だ。昔から、人間にとって死はだれにも訪れるもので例外はない。死から免れるわけにはいかない。しかし、人民の信頼を失ったら、国家は立ち行かないし安定もしない」
         *
 徳川家康が愛読した書物に『貞観政要』という本がある。これは唐の太宗が侍臣と交わした問答集で、「創業と守成のどっちがむずかしいか」、「諌言のききかた」などをテーマとして、何度も繰り返し繰り返し交わした問答集である。この中に船と水のことばがある。これはたとえであって、船は君主、水は人民だ。唐の太宗は、
 「水はよく船を浮かべ、またよく覆す」
といった。水は人民の意思で、世論といっていいだろう。したがって、
 「世論如何によっては、君主もその座を追われる」
 ということだ。なぜ追われるかといえば、
 「人民が治者である君主に信頼心を失ったからだ」
 という。徳川家康はこのことばを、「主人と部下」に置き換えて、都合のいいような解釈をした。すなわち、
 「家臣はよく主人を支えるが、時に裏切ることがある。油断がならない」
という意味に変えてしまった。家康らしい。しかし本来は、唐の太宗のいうように、
 「政治家を支えるのは、あくまでも国民の信頼心だ」
という意味である。ここで孔子が国を治める三つの要件として、食糧・軍備・国民の信頼の三つをあげながらも、
 「しかしその中で一番大切なのは国民の信頼心である」
という考え方は、裏を返せば、
 「政治家は王道政治を行なわなければならない。すなわち、民の親のような気持ちを持って、民を慈しまなければならない」
ということだ。
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■自分の足らないところは他人の智恵で補え

<本文から>
 だれかが、鄭の国の外交文書は大変すぐれていて、常に外交が成功する基になったと伺いました。なぜでしょうか、ときいた。
 孔子はこうおっしゃった。「それは、鄭の国では賢人たちが、智恵を出し合い、協力して文案を練ったからだ。命令をつくるときには、卑ェが原稿を書き、世叔が検討し、外交官の子羽が添削し、東里にいた子産が最終的なまとめをしたためだ」
   *
 当時鄭の国は、中原の先進国だった。そして、鄭国の宰相子産は、孔子より一昔前のすぐれた外交官・大政治家であって、孔子も尊敬していた。そのために、おそらく弟子のだれかが、前記のような質問をしたので、孔子がこのような答え方をしたのだろう。このことは、たとえ賢人といえども、
「自分の能力には限界がある」
 ということをわきまえていたことになる。だから、
「自分の足りないところを、他人の知恵によって補おう」
という謙虚な姿勢があった。
 賢人といえば、すぐれた人ばかりだから普通なら、「おれが、おれが」と気負って、「他人の意見など必要ない」と思いがちだ。ところが鄭の国ではちがった。草稿を書き、それを吟味(チェック)し、修正を加え、そして最後にすぐれた大政治家である子産がまとめたということだ。
 故黒薄明監督の映画は、初期のものほどおもしろい。これは、黒澤組といわれるスタッフの中に、数人の脚本家がいて、お互いに討論する。里藩監督は、
「絶村に突破できない状況をどう設定するか」
といって、まず極限状況″を考えてもらう。がんじがらめで、
「絶対に突破できない」
という状況ができると、今度は、
「ではこの状況はどうすれば突破できるか」
ということを数人の脚本家に知恵を絞ってもらう。生きる″七人の侍″用心棒″椿三十郎″などは、こういう複数の脚本家たちがぎりぎりに絞った、
 「知恵の結晶」
として生まれた。したがって数人の脚本家の中には、ただアイデアだけを口にするだけで、実際にはペンをとらない人もいたという。あるいは、他人の書いた脚本を読んで、
 「ここはちがう、ここはこうした方がいい」
と意見だけを口にする脚本家もいたようだ。この辺は、黒滞監督のいってみれば、「ガバナビリティ(統率力)」のすぐれていた点だ。普通脚本家といえば、必ず、「自分でペンを取って台本を書く」ということを求められる。ところが黒澤組の場合は、
 「別に実際に書かなくてもいいから、いい知恵を出せばそれでいい」
という扱いだ。
 徳川家康にこんなことばがある。
 「良将が人を用いる時は、必ずその長所をとる。これはたとえてみれば、いい医者が薬を使うようなものだ。それが効くか効かないかを知って、調合をする。だからいい医者は患者の病気が治せるのだ。ところが、凡庸な医者は、やたらに薬を調合し、それが効くか効かないかを確かめない。こんな薬を飲まされたら、逆に患者は死んでしまう」
というものだ。また、
「人を用いるときには、必ずその長所をとることが必要だ。人の使い方も、人間における耳、口、鼻のようなものだ。それぞれ役の立ち方がちがう。鵜は水に入るからこそ、その能力を発揮できる。鷹は空を飛ぶことによって能力を発揮する。人間も同じだ。すべて一人の人間に、何もかも求めるのはまちがいである」
 家廉のこのことばは、
 「どんなに能力があると思える人間にも、必ず限界がある」
ということをいっている。したがって、
「百の目標を立てたリーダーは、それを一人の人間に求めるな。一人の人間では絶対にできない。たとえ長所のある人間でも、必ず欠点もある。その欠点を補い合うような長所を発見し、複数の人間の組み合わせによって完成すべきだ」
 ということである。鄭国における外交文書のつくり方のプロセス(過程)を、孔子が答えたこの話で、ふっと墨倖組の脚本家たちのことや、徳川家康のことばを思い出した。
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■戦術は部下に任せろ

<本文から>
 先生がこうおっしゃった。「君子は小さいことはやらないが、大きな仕事を引き受けることはできる。反対に小人は大きな仕事は引き受けられないが、小さい仕事には向いている」
          *
 小知というのは小さい事柄を理解し、それを実行する能力のことをいい、大受というのは大きな任務を引き受けることをいう。
 現在でいえば、大受というのは戦略を立てることができるという意味に解することができるだろうし、小知というのは戦術を立てることができるといえるだろう。戦略と戦術とはちがう。戦略というのは、
「戦争全体の仕組みを考えること」
 であり、戦術というのは、
「それをどう実行するか、主として技術面において工夫努力する」
という意味だ。これを現在の組織でも誤解している向きがある。つまりトップ層は、
「戦略を立てるが、戦術は部下に任す」
という態度が必要だ。
 武田信玄はこの点はっきりけじめをつけていた。信玄は毎朝ミーティングを開いたという。戦略会議″である。
 集めた幹部たちに、自分が持っていた情報を与え、また幹部たちが仕込んだ情報を発表させる。そしていまでいえば、
「武田企業、今日一日いかに生きるべきか」
 ということを論議する。つまり、
「武田家の今日の戦略」
を確定する。戦略が定まると信玄は、
「幹部は、各職場に、その戦略を持ち帰れ、そして今度はそれぞれの職場でどう実行するか戦術を考えろ。その時はヒラも全部参加させて意見を言わせろ」
と命じた。これは信玄がすぐれたトップリーダーだったことを物語る。
「戦略戦術のちがい」をはっきり認識している。
「トップ層は戦略だけを決めればそれでいい。戦術は現場で決めさせよう」
とけじめをつけていたのだ。同時にこれは、
「ヒラの経営参加を促す」
ということでもあった。同時に、
「確定した戦略を、正確に一般社員に伝えているかどうか」
という、幹部の、
「リーダーシップのとり方」
のチェックでもある。
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