童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の論語・上

■出会いを大事にせよ

<本文から>
  孔子の門人である有先生がおっしゃった。「人柄が孝行悌順でありながら、目上の人に逆らうことを好む者はほとんどない。目上に逆らうことを好まない人が、乱を起こすことを好むことも滅多にない。君子は根本のことに努力するからだ。根本を定めてはじめて進むべき通がはっきりする。仁徳の根本は孝と悌だ」
         *
 わたしが勤めているころ、今でいうリストラ(リストラクチャリング、再構築)が行われた。その一つの方法として人員削減が行われた。希望退職者を募るという方法が採られた。しかし、わたしの属していた職場の上役にすれば、普段から自分にいつも反村したり逆らったりする者、あるいは自分勝手なことばかりしている者などが、この希望退職に応じてくれればいいと思い、それぞれの肩を叩いて説得した。しかし、上役が辞めさせたいと思っている連中は、頑強に首を横に振り続けた。この時、普段からおとなしく、ほとんどその上役にも逆らったことがない目立たない津田さんという職員が、
 「わたしを辞めさせてください」
と申し出た。上役はびっくりした。
 「君は別に辞める必要はないよ。ぜひ居て欲しい職員だ」
そう告げた。が、津田さんは笑ってこう言った。
 「わたしの田舎は九州で、父がみかん山を経営しています。そろそろ老齢なので、何度も戻って来てみかん山を引き継いでくれと言っています。この際思いきって勤めを辞め、父の言葉に従いたいと思います。あなたが肩を叩いている人達は、今辞めたら、たちまち生活に困るでしょう。ですから、わたしを辞めさせてください」
 上役は何とかして津田さんを引き止めようとしたが、津田さんはにこにこ笑いながら首を横に振り続け結局辞めていった。翌年のあるころ、津田さんからわたしのところに荷物が届いた。手紙が入っていた。
 「初生りのみかんをお届けします。勤めていたころは大変お世話になりました。わたしはもともと勤める必要はなかったのですが、一つのことを思い立ちました。それは、いずれみかん山を引き継いだ時に、初生りのみかんを送りたいなと思う人を、何人か探したかったのです。言ってみれば、わたしなりの真実一路の道を辿って、出会いを大事にしたい七思いました。あなたは親切にしてくれました。何人か他にも、みかんを送った人がいます。でも、それがだれかは申しあげません。わたしにとって一番大切な生き方は、この世で出会って本当によかったなと思う人の発見でした。あなたのような方は、今の勤めに絶対に必要です。どうか最後まで辞めずに頑張ってください」
 わたしはその手紙を読んで胸を打たれた。
(ああ、津田さんはこういう考え方を持っていたのだな)
と感じた。そして、
 「人間は、生きていく上で、何を一番大切にしなければならないのか」
ということを、津田さんの初生りのみかんを見ながらしみじみと思ったものである。
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■人は正しく評価せよ

<本文から>
 孔先生がおっしゃった。「回という門人と一日中話をしていても、かれは全く素直で何も言わない。周りから見れば、回は愚か者だと思えるかもしれない。ところが彼が私の前から退がって一人になったときの様をよく見ていると、私と話していたことにヒントを得て自分なりに思い当たる行動をしている。回は決して愚かではなく、大した人物だよ」
         *
 武田信玄が、こんなことを言っている。
 「わたしが若い者と話をしていると、四通りの反応を示す。一つはポカンと口を開けて私の言うことに呑まれているタイプ。二つ目は、わたしの喉のあたりをじっと見つめていて、わかっているのかわからないのかがはっきりしない。三つ目は、わたしが話すことに間あいだで、いちいち相槌を打ったり、ニコニコ笑ったりする。四つ目は途中で席を立ってしまう」
 この分析を信玄はさらに、
 「ポカンと口を開けてわたしの話に呑まれているのは、話の内容に圧倒されて自分の判断が全くつかない者だ。二番目の、喉のあたりをじっと見つめているのは、一見愚かそうに見えるが、実を言えばわたしの言うことをいちいち噛み締め、頭の中で反窮している。三番目の相槌を打ったり笑ったりする者は、いかにもあなたのお話はよくわかっていますよということを言いたくて、そういうパフォーマンスをするのだ。四番目は身に覚えのある悪者だ」
 信玄は、この中で、
 「ではどのタイプを一番大事に思うか?」
 という質問に対し、「二番目だ」と言っている。
 「二番目は、わたしの言うことを項目ごとに整理し、話を決して鵜呑みにしない。おそらく疑問に思ったことは、後で聞きに来るだろう。頼もしいタイプだ」
 また信玄と同時代の戦国武将で、毛利元就の三番目の息子で瀬戸内水軍の大将になった小早川隆景という人物がいた。隆景はよくこんなことを言った。
 「すぐわかったという部下にわかったためしはない。わたしはそんな単純な話はしていない。だから、話をした時には一見ぼんやり聞いているようでも、優れた人間は必ず後で質問しに来る。こういう人間こそ頼もしい」
 と言っている。武田信玄と同じ人間観察力を持っていた。そうなると孔子のこの回という弟子に対する見方も、ある意味で、武田信玄や小早川隆景に通ずる、
 「単に学問を教えるだけでなく、人間観察も鋭く行っていた」
 ということになる。現代の職場でも、孟子の言葉を元にした、武田信玄や小早川隆景の、
 「その発展的解釈」
 は結構役に立つにちがいない。このことは、口ばかり達者で、会議に出るとよく活発に議論するが、どこかそれはレトリック(修飾語)の羅列であって、中身のないことが多い。言ってみれば、
 「言葉だけの争い」
に沈痛し、それに生き甲斐を感ずるタイプの社員が多い。
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■功績を立てても自分からはそれを自慢しない

<本文から>
 先生がおっしゃった。「孟之反は、殿有将として名が高かった。魯国が隣国から侵略を受けた時、都の城外で大激戦になった。敗れた魯軍は城内に逃げ込んだ。この時、殿を務めたのが孟之反だ。孟之反の殿ぶりがあまりにも凄まじく、勝った隣国軍はこのまま城内に突入すると、かえって負けると判断し引き揚げてしまった。味方を救った孟之反は、しかし自分の殿ぶりを自慢しなかった。自分が遅くなったのは、馬が速く走らないからだと笑った」
         *
 「功績を立てても、決して自分からはそれを自慢しない」
 という勇者の奥ゆかしさを語るエピソードだ。
 織田信長が、北陸方面の一向一揆と、越後の上杉謙信を相手にして戦ったときに酷い目にあったことがある。謙信も強かったが、一向一揆も強い。民衆の力はすさまじい。信長は結局、
 「撤退する」
 と退却を決意した。この時、殿を買って出たのが、木下藤吉郎(秀吉の当時の名)だった。殿というのは、本軍を逃がすために、自分たちが犠牲になりながら、最後には全滅してしまう。いつもは、秀吉のことを、
 「自分の宣伝ばかりしている立身出世亡者だ」
 と悪口を言っていた、織田家の家来たちもこの時は秀吉を見直した。ここで死んでしまえば、秀吉が願っている立身出世は全部チャラになってしまうからだ。信長もその辺を察し、
 「サル、本当に大丈夫か?」
ときいた。秀吉は、
 「大丈夫です。どうか、安心してご撤退ください」
と言った。悲壮な秀吉の胸の内を知った諸将は、こもごも見舞いに来た。いつも秀吉をけなし、悪口ばかり言っていた重役の柴田勝家でさえ、
 「木下、おれの軍を少し応接に残そう」
と言い出した。友人の先輩の前田利家も、
 「木下、すまないな」
と労った。秀吉はニコニコ笑って、
 「わたくしのことは大丈夫です。どうか、お館(信長のこと)を無事に、お城にお連れください」
と頼んだ。信長軍は、秀吉に頼むぞと声を残して去って行った。ところが、どうしたのか上杉軍も一向一揆軍も秀吉軍に襲いかからなかった。秀吉は拍子抜けした。しばらく滞在していたが、やがて、
 「追撃は全くなさそうだ。戻ろう」
 と言って、堂々と引き揚げはじめた。戻って来た秀吉を見て、信長は手を取って喜んだ。
 「サル、見事だった。よく戻れたな」
と慰めた。この時秀吉は、
 「いえ、敵の足が遅く、こっちの逃げ足の方が速かったものですから」
 と言って笑った。信長も、周りにいた諸将もー斉に笑い出した。この時以来、秀吉の株は大いに上がった。秀吉がもし、あのサル面の鼻をうごめかして、自分の手柄を自慢したら、一斉に横を向かれたにちがいない。
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■人の志は奪えない

<本文から>
 先生がおっしゃった。「どんな大軍でも、その総大将を捕虜にして指揮権を奪うことはできる。しかし、たとえ一人のつまらない男でも、その男の志を奪うことはできない」
                 *
 これは、
「人間に加えられる力と意志の問題」
について語っていると見ていいだろう。そしてこれもまた、永遠性のあるテーマだ。いくつかの重要な問題が含まれている。ひとつは、
 「総大将を捕虜にして指揮権を奪うことができる」
という言い方は、部下が大将の指揮権を奪いとるのだから、これは明らかに、日本の戦国時代に横行した、
 「下剋上」
の思想に通ずる。
 こんな話がある。豊臣秀吉は若い頃日吉丸と言った。父親に死なれた後、母親が再婚した。この母親の再婚した相手と、日吉丸は気が合わなかった。始終喧嘩ばかりしていた。心配した母親が、
 「おまえがいると、うちのごたごたが絶えない。悪いけれど、おまえの本当のお父さんが残したお金が少しあるから、これを持って家を出ておくれ」
と言った。母親は、
 「日吉丸がいなくなれば、あとは家族が円満に暮らせる」
と考えたのだ。本来なら、この母親は姑息な考えを持つ非情な人間だったが、親孝行な日吉丸は母親を恨まなかった。
 「わかったよ。家を出る。いつか、また一緒に暮らそうよ」
 そう言って金を持って旅に出た。かれがこの時行こうとしたのは、駿河の今川義元の城下町だった。できれば、今川義元の家来になりたいと思った。浜松まで来た時、松下嘉兵衛という武士に会った。松下は、今川義元の一部将だった。この方面に、城を貰っていた。日吉丸が気に入って自分の家来にした。日吉丸は木下藤吉郎と名を改めた。才覚があったのでトントン拍子に出世し、やがて松下家の財政を扱う掛りになった。ところが、この藤吉郎の出世ぶりに先輩が嫉妬した。憎んだ。結果、先輩たちは相談して、日吉丸に嫌がらせをした。それは、
 「木下は、公金を押領している」
という噂を流したことである。噂を流しただけでなく、藤吉郎がいない留守に、金庫を開けて金を盗み出した。
 これが問題になって、松下嘉兵衛は頭を抱えた。松下は決していい使用者ではない。気が弱い。かれもまた、
 「無事大過なく物ごとを運びたい」
と考える姑息なリーダーだ。ある日藤吉郎を呼んだ。
 「悪いが、退職金をはずむ。家を出てくれ」
そう言った。藤吉郎は、
 「なぜですか?」
ときいた。松下は、
 「おまえによくない噂がある」
と言った。木下は笑って、
 「わたしが公金を押領したという噂でしょう?」
と言った。松下はそうだと領いた。木下は顔色を改めると、
 「御主人はそれを信ずるのですか?」
と訊いた。松下は首を横に振った。
 「信じない。おまえはおれが発見した人材だ。そんな悪いことをするはずがない」
 「では、なぜわたしをクビになさるのですか?」
 「おまえに落ち度はないが、おまえがいることじたいが問題を起こす。おまえはやはりトラブルメーカーだ。わたしは、円満に松下家を経常したい。そうなると、おまえに出て貰うより仕方がない。だから退職金をはずむのだ。慢して出て行ってくれ」
 これを聞いた時藤吉郎は屹となってこう言い返した。
 「わかりました。松下家を出ましょう。しかし退職金はいりません。なぜなら、あなたのような主人は、わたしの方がクビにするからです。主人のあなたがわたしをクビにするのではなく、部下のわたしがあなたをクビにするのだとお考えください」
 啖呵を切って藤吉郎は家を飛び出した。そして、駿河へ行くのはやめた。というのは、
 「松下のような管理職を部下にしているようでは、今川義元も大したことはあるまい」
 と思ったからである。
 かれはUターンして、生まれ故郷である尾張国(愛知県)へ戻った。藤吉郎が旅先で数年を過ごしている間に、新興大名の織田信長がめきめき頭角を現していたからである。藤吉郎は、
 「織田信長様にお仕えしよう」
と思い立った。これは、
 「たとえ組織の力でも、その組織の力が付和雷同的にまとめられたものであれば、パワーは全くない。それよりも、むしろ一個人の持つ音若の方が強固なのだ」
 ということを物語るし、同時に、
 「一個人が、これだけは絶村に譲れないと思った志は、どんな力を加えても、破壊することはできない」
  ということを物語っている。
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