童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の磨き方 歴史人物による人生の極意

■吉宗、涙をのんで情を捨てる

<本文から>
 吉宗は享保十六年(一七三一)に次男宗田武を、元文五年(一七四〇)に四男宗尹をそれぞれ独立させた。江戸城の門の名をとって田安、一席と名のらせた。あとつぎは長男の家重ときめていた。ところが家重は不肖の子で少年のときから酒色にふけり、生活が荒れていた。これにひきくらべ次男の宗武は英明で、城内では、
 「田安宗武様こそ、次の将軍にふさわしい」
 とうわさされていた。いつまでたっても家重の行状が直らないので、業をにやした松平乗邑は、ある日吉宗に直言した。
 「おそれながら家重様をご廃楠になり、田安宗武様をご世子になさいますように」
 これをきくと吉宗は何ともいわず、じつと乗邑を凝視浅川その目がみるみる悲しくくもった。乗邑はびっくりした。やがて吉宗は悲痛な声でこういった。
 「乗邑、人の親としての吉宗は、おまえのいうとおり宗武をあとつぎにしたい。しかし将軍としての吉宗は長子家重をあとつぎとする。将軍は理を貫く。情は捨てねばならぬ。しかし、おまえはすでに家重を支える気がない。無念だぞ」
 まるで飼犬に手を噛まれたかのような悲痛な言葉であった。乗邑はいまさらながら吉宗の筋を重んじ私情を排する気持ちに胸を打たれた。自分のあさはかさに臍を噛んだ。
しかし取りかえしはつかなかった。乗邑は罷免された。
 老中職を罷免にはしたが、吉宗はその後の乗邑の暮らしにいつも関心を持った。乗邑がやめるとすぐ、腹心の庭番にそれとなく探らせた。庭番は、
 「ご失職後、ご友人の大名家にご寄食されております」
 と報告した。
 「なに」
 吉宗はおどろいた。なぜかときくと、
 「あのご潔癖なご性格ゆえ、ご在職中ワイロをいっさいおとりになりません。ご俸禄はお役のためにすべてお使い果たしになりました。市中では、自分の家も持てぬバカ者よとあざわらっております」
 「そうか・・・」
 吉宗は暗い表情になった。すぐ重役を呼び、
 「乗邑が潔癖ゆえに住居にもこと欠くとは、いまの世に珍しい稀代の名臣である。不自由のないように手当してつかわせ」
 と命じた。その後も庭番から、
 「松平様はすこしおかげんがわるうございます」
 ときけば、すぐ自分の主治医を派遣して看病させた。寒い日には、
 「これを着るように伝えよ」
 と綿いれを届けさせた。そのたびに乗邑は感泣し、
 「不忠の臣にこのようなご恩情をおそれいります。くれぐれも上様におわびのほどを」
 と平伏した。報告をうけた吉宗は目をなごませて、
 「乗邑を罷免したのは将軍としての理である。人間吉宗としては、いまも乗邑が好きだ」
 と語った。この言葉はすぐ乗邑に伝えられ、乗邑は江戸温か泉角に頭をさげるのであった。

■山本五十六、パーフェクトでない魅力

<本文から>
 楠木正成は、後醍醐天皇に召しだされる前は"悪党"と呼ばれていた。大きな寺や社に納められる年貢(税金)を途中で奪ったからだ。しかし、かれはこれをわたししなかった。全部近隣の貧しい民に与えた。また、いつも民衆と一緒になって暮らしていた。
 山本五十六も同じだ。かれは、格好をつけなかった。かれ自身はずいぶんと人見知りをし、好きな人間と嫌いな人間があったようだが、
 「連合艦隊司令長官には誰がいいか」
 ということが話題になると、ほとんどの者が、「それは山本五十六中将以外ない」と異口同音に答えたという。つまり、山本五十六は、リーダーにおける本体の条件を満たしていただけでなく、プラスアルファになる人間的付加価値の面で、他のリーダーが及ぶことができないような面をたくさん持っていた町だ。並べてみれば、軍人としての責務感が非常に強かったこと、いうことと行うことが一致していたこと、私欲がまったくなかったこと、ズバ抜けて部下思いであったこと、誠実であったこと、人の意見をよくきいたことなどだ。また、子供のときに見た曲芸の術を覚えて、いろいろな席で皿回しをやっては、列席者を沸かせたということも、魅力のうちにはいるだろう。
 これらのことは、トップリーダーとして、普通なら格好をつけて品位を保つところを、自分の弱点や人間的に人の善さをぜらけだしたということだ。これは取りも直さず、山本五十六が"人間の傷のいたさ"を知っていたということだ。自分の傷がいたいからこそ、人の傷をいたわろうとするやさしさがあったということだ。これが、山本五十六の人望を高めていたゆえんだろう。またかれは、よく、
 「いまどきの若者は、などと絶対にいうな」といっていた。そのことは、若者の中に潜む可能性に大いに期待していたということだ。だからかれは、
 「若いやつが何をしたかだけでなく、何ができるかも考えてやれ」といっていた。それは現代の新人類論争にも、温かい理解を示すものとして、五十六の人間的奥の深さを感じさせる言葉だ。一辛口でいえば、山本五十六や楠木正成は、パ−フェクト(完全)なリーダーではなかった。しかし、完全でないからこそ、後から従う者がその部分に入り込めたということだ。それが、山本五十六や楠木正成への親しみを増加させた。言葉を換えれば、その人間の中に他者が参加できたということだ。他者の参加を厳しくはねつけるリーダーは、結局は敬遠され、あるいは嫌われ嫌われる。その意味で、この二人は"愛される"リーダーだったのである。

■水戸光圀の大日本史

<本文から>
 光圀は、自分の政策を発表した。@民政を重視し、農民の暮らしを豊かにする、A『大日本史』の編纂を続行する、B領内に水道を建設する、Cよこしまな宗教を禁止する、D農民の負担を軽減するために、雑税のいくつかを廃止する、などであった。そして最も藩内を驚かせたのは、相続人を定める方法である。光園は「今後、水戸徳川家の相続は、四国高松の松平家と、交替で行う」と宣言した。みんな目を見張った。光囲は実行した。すなわち、兄頼重の息子である綱条を養子に迎えた。頼重には「わたしの息子を、高松の世子にしてもらう」と告げた。頼重は、「そこまでやらなくてもいいのではないか」といったが、光圀は承知しなかった。十八歳のときに読んだ『史記』の「伯夷伝」の衝撃が、ずっと胸の中に残っていた。三男の自分が、兄の頼重を差し置いて水戸の当主になったことに、なんともいえないうしろめたさを感じていたのである。
 水戸領内の民政を重視して、民の暮らしを豊かにしたいというのも、そういううしろめたさの裏返しであった。同時に『大日本史』の編纂を続行すると宣言したのも、そのためであった。『史記』の「伯夷伝」に感動した光圀は「日本にも、探ってみればこういう事例がたくさんあるのではないか。それを掘り起こして整理し、後世に伝えよう」と思いたったのである。『大日本史』編纂の企ては、かれが当主になる前の明暦三年(一六五七)から行われていた。かれが三十歳のときである。江戸駒込の中屋敷に史局を設け、編纂に従事する専門の学者たちを集めた。特別な予算も用意した。この事業は相当な金食い虫であったので、批判も多かった。しかし光圀は、藩主になってもこの編纂は続けると宣言したのである。実をいえば、この『大日本史』の編纂は明治三十九年(一九〇六)までかかる。二百五十年にわたる大規模な修史作業であった。かれは、『史記』によって学んだ「人倫の道」すなわち「大義を正す」ということを、水戸藩内だけでなく、日本全体のコンセンサスにしたかったのである。

■渋沢栄一は多種多様な人材を育てた

<本文から>
 渋沢栄一は、営利事業でも、「無類のオーガナイザー(組織者)」だったといわれる。しかし、その組織を組み立てるのはあくまでも人だ。そうなると、組織の基になる人材をまず発見しなければならない。そして育成する。この人材の発見については、渋沢栄一は類いまれな目利きだった。
 栄一が社会事業関係で発掘した人材には、瓜生岩子、安達憲忠、光田健輔、田中太郎、川口寛三、高田慎吾、小沢一などがいる。このうち、田中太郎は栄一の後の二代目養育院長であり、川口寛三は三代目院長だ。
 また、監獄学の大家であり、犯罪者の感化事叢に独特な道を開いた留岡幸助、もと幕臣・与力のキリスト教信者で貧民救済にカを尽した原胤昭、救護法の大家であり、方面委員(いまの民生委員)制度を考えだした原泰一、救世軍の山室軍平、孤女学院をつくり、特に知的障害者の問題に関心を示した石井亮一、救貧は防貧を考えなければならず、そのためには教化を重要視しなければいけないといって東京府慈善協会(現在の東京都社会福祉協議会)をつくりだした井上友一など、枚挙にいとまがない。
 ここに掲げた人々が口を揃えていうことは、「渋沢栄一先生のためなら」ということだ。つまり、この"なら"が栄一にこれほど多方面にわたる事業を完成させたゆえんなのだ。これらの人々は、栄一の熱意と努力と誠実さと人柄に打たれて、「渋沢栄一先生ためなら」と思った。つまり日本人の特性である、人生意気に感ず、以心伝心、あかいはあ・うんの呼吸が、理屈を超えて生まれでたのだ。
 この辺が、渋沢栄一が「無類のオーガナイザー」だといわれるゆえんだろう。

■日蓮、迫書もプラス・パワーに転化する

<本文から>
 日蓮の主張は、法華経のみを仏の教えとしない他宗教者をすべて論破することにあった。論破どころではなく、敵視していた。そのために、他宗教者たちから憎しみの念を持たれた。他宗教者の中には、時の権力者と結託して、日蓮に数々の迫害を加えた考も多い。日蓮が特に敵視したのが念仏者である。ところが、この頃の日本には念仏者が多く、特に支配階級で信仰する者が多かったから、日蓮の主張は当然こういう層をすべて敵にまわしたということになった。
 日蓮は、安房小湊に生まれて、子供の頃は近くの清澄山で修行をした。この地域の支配者は東条景信といって、鎌倉幕府の御家人である。が、東条も念仏者だった。したがって、日蓮がしだいに念仏者を敵にまわしたことを知ると、東条は日蓮の迫害にかかった。逃れた日蓮は鎌倉で松葉谷に居を構えたが、今度は鎌倉の念仏者たちから、しばしば襲撃を受けた。身をもって難を逃れ、安房に戻ってくると、今度は東条が小松原というところで待ち伏せをしていて、日蓮を斬り殺そうとした。松葉谷でもそうだったが、他の者が被害を受けても、ふしぎに日蓮だけは助かっている。伊豆の流罪では、海中の岩礁に置き去りにされたが、このときも付近の漁師によって救われた。小松原でも、日蓮自身も数箇所斬られたが、命は助かった。これは理屈のつけようのないことで、その後も日蓮はしばしば危難に遭遇するが、その度に難を逃れる。鎌倉竜ノロでは、斬罪の刑に処せられたが、このときも刀がかれの首をはねる前に助かっている。佐渡に流されたときも、ほとんど飢え死にさせられるような状況におかれたが、島の夫婦の協力によって救われる。
 かれの生き方が、常に私利私欲がなく、民衆にのみ深い愛情が注がれていたからだろう。口でいわなくても、民衆は日蓮の生き方の中からそれを敏感に察知する。そして、このお方は、われわれの味方だ。われわれの苦しみを救おうとして、ご自身が自らその矢面に立っていらっしゃるのだ」
 と思う。だから、自分の身が危なくても、まず日蓮を救おうという気になるのだ。そして実行する。これは、日蓮の宗教心がいかに本物であり、また強いものであったかを物語る。
 同時にまた、かれの説く教えが、現世における救いを目標にしていたからである。日蓮は、
 「来世で救われるから、今生ではいくら苦しみやつらい思いをしてもがまんできるはずだ、という教えは間違っている。この世で苦しむ民衆は、いま生きているうちに救われなければならない」
 と説き続けた。
 そして、そのよりどころが法華経だと告げるのである。この来世救済でなく(今生救済を主張する日蓮の教えは、日々、苦悩のどん底にある民衆を勇気づけた。それが、しばしば日蓮を訪れた危難を、民衆自身が身を挺して救うててれたゆえんでもあるだろう。
 そして日蓮は次々と自分に襲ってくる危難を「これは色読だ」といった。色読というのは、自分の身体を通じてお経を読むということである。かれは自分の身体をはじめ、環境に加えられる迫害を、そのまま「経を読む」ことだと喝破したのである。したがって、お経を読んでいるのだから、どんなにつらいことや苦しいことを強いられようと、かれはへこたれなかった。むしろ、それを自分の前進のための肥料にした。

■日蓮、歴史から時代を予見する

<本文から>
 もうひとつ、日蓮の鋭いところは、いままで書かれた書物の中から将来を予測したことである。現在のような激動する狩代に生き一適わたしたちには、よく「先見カが必要だ」といわれる。日蓮は、モンゴ〜の襲来を予言した。また、最高権力者内部における内輪もめを予見した。これは現実になった。モンゴルは二回日本を襲った。北条家の内部でも内輪もめが何度も起こった。とのことによって、「日蓮という坊さんは、時代の先読みのカにもすぐれている」と評判になった。
 しかし、日蓮はこういう予言を、単に超能力によって行ったわけではない。かれは、そういうことを、万巻のお経の中から発見したのである。酷似する時代状況を認識すると、コレコレの時代にはこういうことがあったということをお経の中から読みとった。
 それを発表しただけだ。これも大いに学んでいいことではなかろうか。
 すなわち、「古いことはみんなダサい。学ぶところは何もない」という風潮がいま一部にある。しかし、日蓮が、万巻の経に埋まって、次々と読み抜きながら、そのときの時代相に照合させて、「こういう時代にはこういうことが起こる」ということを見抜いたのは、やはり違った意味でわれわれがいま学んでいいことのような気がする。
 こういうように日蓮の生涯を見てくると、決していま生きているわたしたちと無縁ではない。学ぶところがたくさんあるのだ。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ