童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の器量

■竜馬 過剰防衛するな!−恥をかくことを恐れない男の強さ

<本文から>
 竜馬の生産を見ていると、優れたリーダーの素質と、また、まわりに与えた影響がはっきりと表われている。だからといって、竜馬が天性のリーダーであったかというと、そうではない。彼ははじめから優れたリーダーではなく、むしろ逆だった。彼は粗暴な熱血青年であり、のちに師になる勝海舟を開国論者だと言って殺そうとしたりしている。
 そういう意味では、彼は泥のついた原石であって、はじめから磨かれた宝石ではなかった。はじめ彼と会った水戸の住谷真之介などは、「この男はいまの日本のことを何も知らず、おれの話していることも全然理解していない」とバカにしている。
 坂本竜馬は、そういう冷笑に屈辱感を感じたかもしれないが、決してそのままで頭を抱えるようなことはしなかった。むしろ、そのことをバネにして、自己啓発に乗り出していった。
 竜馬が、刀からピストル、ピストルから万国公法に至る過程は、そのまま彼の「自己変革・自己革新」の連続だったと言っていい。自己革新が絶え間なく続いたからこそ、彼は勇気をもって刀からピストル、ピストルから万国公法という過程を歩きえたのだ。
 その意味では、竜馬は恥をかくことを恐れなかったと言っていい。これは大切だ。多くの人間が自己発見や自己変革ができないのは、恥をかいたり人からバカにされることを恐れて、小さくまとまってしまうからである。つまり、受け弱いのである。
 早く言えば、守り一方の姿勢だから、ちょっとしたジャブを受けたり、突かれたりすると、たちまち過剰防衛になってしまう。現在もよく見かける人間のタイプである。特に"減点主義"の傾向が強い現代の日本では、この受け弱い人間が次々と生まれている。
 まわりに影響を与えるリーダーは、まず何よりも「自分を変える」ということに努力する必要があるのだ。
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■わずかな期間に人材を輩出した松下村塾の秘密

<本文から>
 まわりに影響を与え、また絶え間ない自己変革を続けた人物に吉田松陰がいる。吉田松陰の松下村塾はあまりにも有名だ。そこから多くの明治維新実現者が出た。が、吉田松陰が松下村塾を開いて弟子たちを教育したのは、わずか一年半か二年の期間である。
 これだけの短い期間に、なぜあれだけの英雄たちが輩出したのか、ということは、多くの人が謎としている。そしてその原因を、すべて松陰自身の優れた指導者としての資質に置くことが多い。が、それだけではない。松陰は決してもって生まれた資質だけを駆使して後輩を養成したわけではない。彼自身の、すさまじいばかりの日常の積み重ねがあった。
 彼の努力の根源は、すべてその日のニュースだ。それも政治や経済面だけでなく、文化面やさらにいまで言えば芸能人のスキャンダルとか、そういう面まで彼は関心をもっていた。だから、彼の松下村塾における教育方法は、そういう高い次元から低い次元までのいっさいを含んだニュースを素材にしていた。
 つまり、毎日毎日の出来事が教材だった。だから、彼はいまで言えば新開のベタ記事も、テレビのスポットニュースも、決して見逃さなかった。弟子たちが見逃すことも許さなかった。彼にとって、程度が高いとか低いとかは間窺でなく、人間の営みすべてがテキストであったのである。「そういう人間の営みに目をつけないで、何が政治だ、何が経済だ、何が文化だ」という考え方をもっていた。
 これは、世間に伝わっている吉田松陰のイメージとは、かなりかけ離れている。しかし、松陰はそういう人物であった。彼は死んだ書物の中から教育することをしなかった。生きた人間の日常の営みをテキストにした。その中に政治を発見し続けた。
 そして、何よりも生産点とのかかわりを忘れなかった。授業の合間に彼は必ず弟子たちに畑を排させ、農作物をつくらせた。働く者の汗を大切に思い、だからこそ自給自足の精神をあくまでも失わなかったのである。
 彼が毎日のニュースを書きつけたメモは、「飛耳長目録」と呼ばれている。耳を鋭く立て、目を横に長く開くという意味で、常に緊張しているという意味である。
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■中江丑吉「守るべき原則」は一か二つもてばいい

<本文から>
 戦前、中江丑吉という人がいた。有名な思想家・中江兆民の息子で、父があまりにも有名だったために、マスコミとの接触を嫌って、中国の北京に住みついた。しかし、たいへんな学者であり、また思想家であったために、彼のところに出入りする人たちは多かった。高名な政治家や高級軍人、あるいは亡命者、学者などが、ずいぶんと出入りした。日本人だけでなく、中国人や外国人も出入りした。
 日本の知識人の中にも、在中国の彼に、「いまの日本は辛い。こういうことがある。どうしたらいいだろうか?」と相談の手紙を出す人がたくさんいた。特に軍部の横暴に我慢できなくて、「いっそ、北京のあなたのところに行きたい」という人もいた。そういうとき、丑吉はよくこういうことを言っていたという。
 「人間はそれぞれ自分が守るべき原則を一つか二つもてばそれでいい。他のことはサッサと妥協してしまえ」
 しかし、彼の言う「守るべき原則」というのはかなり厳しいもので、他は妥協してもそれを守り抜くことによって、逆に生命が危なくなるというような状況にも立ち至る。彼が生きたのは戦争中だったので、時代環境がそういう危険性を常にはらんでいたからである。
 中江丑吉の言う「それぞれの人間が守るべき原則」さえしっかりしていれば他のことはどうでもいいというのも、また妥協の極意と言っていいだろう。しかも、彼の言う「自分の原則」とは一人ひとりが違うもので、すべての人間に共通しなくてもいい、というユニークさをもっていた。
 糸川英夫先生や中江丑吉が言うように、妥協というのは必ず問題への解決に向かって歩いていく手法のはずである。つまり、妥協というのは堕落するのではなく、逆に「止揚」するということである。
 この観点に立った妥協術、すなわち交渉における極意をもって世の中を大きく変えた男が、勝海舟である。
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■いまも立派に通用する前田利家の「友人分類法」

<本文から>
 新井白石もそうだが、いまでもビジネスマンのたいていの人が経験することに「不遇」がある。自分の能力や人柄に見合った処遇が受けられない状態のことだ。あるいは受けていたのだが、急に事情があって受けられなくなった状態のことを言う。前者を「野に置かれた遺賢」と言い、後者を「降格」あるいは「左遷」と言う。
 しかし、こういう問題はもともと「自分が自分にもつイメージ」と「他人がその人にもつイメージ」の差から生ずることであって、一概には言えない。たとえば人事異動の一つの資料として、「自己申告」というのが使われるが、本人の書いていることが他者を仰天させることがよくある。本人の自己に対する認識ぶりが、「ウソーツ」とか「冗談キッーイ!」と思わせることが多々あるのだ。
 「人事異動とは人間のパズルだ」と言った人がいるが、こういう自己イメージと他者イメ−ジの食い違いをはめ込むわけだから、人事にはいつも悲喜がまといつく。その意味では、自分では"真実"だと思って書いた自己への認識や評価が、他者から見れば完全な"幻想と錯覚"である場合もあるのだ。
 前田利家という加賀百万石の祖は、若い頃、しばしば"不遇の状況"に陥った。主人である織田信長や豊臣秀音の勘気をこうむって退けられたのだ。これは主として彼の「正義感と表現のズレ」に起因している。つまり彼は、非常にオクタン価の高い正義感をもっているのだが、ボキャブラリーが乏しい。その少ない言葉で、あふれる正義感を表現するものだから、つい激しい言葉になり、響きも強くなる。そのため、まわりからは「あいつはうるさい」とか「協調性がまったくない」とか言われる。それが積もり積もって飛ばされてしまう。
 不遇時代に彼は面白いことを悟った。それは自分を訪ねてくる友人たちの分類と分析だ。まず「自分が信長さまに退けられてからまったく訪ねてこなくなった者」「相変わらず訪ねてきてくれる者」の二種類に分け、「相変わらず訪ねてきてくれる者」を、さらに次のように分けている。
 ・本人が不遇であって、「いい仲間が増えた」と喜んでやってくる者
 ・あれだけ信長さまに怒られたのだから、少しは心を入れ替えておとなしくなったかな、と様子を見にくる者
 ・反抗心旺盛なあの男のことだから、どうせ不遇に甘んずることなく、おそらく信長さまに対してよからぬ企てをしているに違いない、その兆候をつかんで信長さまに報告してやろう、と偵察にくる者
 ・いままでさんざん正義派づらをしていて小づら憎い、落ちぶれた様子を嘲笑してやろう、とやってくる者
 ・「だから言わないことじゃない。おれは前々からこうなりはしないかと心配していたんだ」と、シタリ顔で、はじめてオタメゴカシの″心配″を吐露する者
 相当に人間洞察力に富んでいる言葉だ。この分類と分析は現代にもそのまま当てはまる。
 それでは、彼のことを案じて来てくれる本当の友人は皆無だったのだろうか。
 彼の追懐によれば、「来てくれたのは、わずかに柴田勝家と森可成の二人だけだった」と言う。森可成は森蘭丸の父だ。柴田勝家は豊臣秀吉に攻め滅ぼされてグズ大将のように思われているが、実際は誠実で信義に厚い人物だった。スジの通らないこと(たとえば秀吉の天下取り)には反抗しただけである。前田利家を訪ねた友情は彼の温かい人柄を表わしている。
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■トップの複雑な「真意」をどこまで汲み取れるか 家康と酒井忠次

<本文から>
 ところが、他の武将は違った。彼らの中にはいきなりその場で秀吉に、「私は、徳川家康の部下です。あなたから、こんなにいろいろなものをいただくわけにはまいりません」と断った者もいた。あるいは、「主人と相談してまいります」と言って、一度秀吉の前からさがり、家康にこのことを報告したうえで、改めて秀吉のところに行き、「主人と相談いたしましたが、とてもお受けすることはできません。ご好意は、たいへんありがたいと思います」と辞退する者もいた。
 あっけらかんと、くれるものは全部もらってしまったのは忠次だけである。こういう補佐ぶりを見ていて、家康がどんな感じをもったか想像に難くない。
 忠次にしてみれば、「秀吉さまがくださるというものをもし辞退すれば、きっとご機嫌が悪くなる。秀吉さまのご機嫌を悪くするということは、そのまま主人である家康さまに対する感じを悪くするということだ。別に欲しいとは思わないが、おれが我慢してもらうことが、家康さまへの忠義につながるのだ」と考えていた。しかし、これは誤算だった。
 つまり、忠次はこういう考え方を貫くことによって、それで自分がいい補佐役になっていると、信じていた。
 前に書いた「補佐役としてのトップに対する研究が足りなかった」というのは、こういうことも含まれる。家康の性格は複雑だ。しかも、日が経つにつれてどんどん変わっている。
 もう、むかし一緒に人質で暮らしていた少年竹千代ではない。年齢を加えるにしたがって、いよいよ複雑怪奇になっている。そういう性格を単細胞のまま見つめるということは、忠次にとって非常に不幸であった。
 そして、さらに最大の不幸がやってきた。それは忠次が、天正七年(一五七九)に犯した罪を、家康が改めて問うたことである。
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■西郷と斉彬 「自分さえ正しければよい」は大間逢い

<本文から>
 そんな西郷にある日、島津斉彬から呼び出しが来た。ビックリしたのは西郷だけでなく、先輩や上司も同じだった。「おまえ、いったい、何をしたんだと問い詰めた。西郷は、「別に何もしません。ただ、意見書を書いて送っただけです」と答えた。
 鹿児島城内に西郷を呼んだ斉彬は、直接西郷を引見した。斉彬の脇には、西郷がいままで書き送った意見書を全部重ねて置かれていた。
「おまえが西郷吉之助か?」
 当時西郷は吉之助といった。
「左様でございます」
 斉彬はニコリと笑って言った。
「この意見書は全部読んだ。返事を出さなかったのは考えがあったからだ。考えというのは、おまえはまだ若い」
 西郷はムッとして斉彬を見返した。そして、「私が若いとはどういうことでございますか?私は、勤めていた役所の中では、誰よりも自分が正しいと信じております」と言い返した。そういう抗弁にも、斉彬は怒らなかった。ニコニコ笑い続けながら言葉を続けた。
「それが若いというのだ。つまり、自分が正しければ、人を裁いてもいいという姿勢が周囲の理解を得られない最大の原因になっている」
 「!?」
 いきなり、妙なことを言われて、西郷はとまどった。そして、今度は恐る恐る、「人を裁くとはどういうことでございますか? まわりの理解が得られないとはどういうことでございましょうか!」と聞いた。斉彬はこう答えた。
「いいか、人間の社会では、たとえどんなにいいことや正しいことを思いついても、神や仏の社会ではないのだから、すぐそれが実行されるとは限らない。人間には、人間特有の考え方がある。感情もある。だから、自分がいくら正しいと思っても、まわりの人間がその人間をどう見ているかを知ることも大切だ。これが、人間に必要な協調性とか、協力とかいうことになる。おまえには、まったくそれがない」
 西郷隆盛には、このとき、まだ島津斉彬の言っていることが全部わからなかった。彼は、あくまでも″おれは正しい″と思っていたから、カッカと頭が燃えていたのである。斉彬は、そういう西郷の性格を見抜いて、静かにコンコンと語り続けた。斉彬の言ったことは次のようなことだ。
 ・いいことや正しいことを考え出す
 ・その次はそのいいことや正しいことを実現するために、まわりの状況をよく見なければならない。まわりの状況をよく見るというのは、そのいいことや正しいことを実現するうえで、協力者がいるかいないかを確かめることだ
 ・もし協力者がいなければ、つくり出さなければならない。しかし、協力者をつくるためにはどうすればいいのか
 ・それには何よりも自分を振り返ることが必要だ。それは第一にいいことや正しいことを思い立った自分に、私利や私欲がないかどうかを確かめることだ。つまり、いいことや正しいことを実行して、自分が出世したいとか、金を儲けたいとかいう考えがあったら、それは私利私欲があるということになる
 ・そういうものがあった場合、他人は必ず疑うし、また響成する。もちろん協力などしない
 ・したがって、いいことや正しいことを実現しようと思ったときは、まず自分に私利私欲がないかどうかをきちんと確かめ、そのうえで今度は協力者をつくるということに努力しなければならない
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