童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史人物に学ぶ 男の「行き方」男の「磨き方」

■北条時頼の貧しい地方武士を守りぬいたエピソード

<本文から>
 「執権は鎌倉にばかりいてはダメだ。諸国の実態を自分の目で見、耳で聞かなければ本当の道理を通す政治はできない。苦しんでいる者を救う政治もできない。青砥は本当にいいことをいってくれた」
 嬉しいことがあった。それは信濃(長野県)から鎌倉に戻る途中、下野(栃木県)佐野地方を通ったときである。たまたま、かつてこの地方の豪族だった佐野源左衛門常世という貧しい武士の家に泊めてもらった。佐野は時頼が何者だか知らない。ただの旅の僧だと思った。しかし、佐野は自分の家にあった食料品を全部差しだし、そばにあった鉢から、梅、桜、松の木を抜きとり、ナタで割って焚きはじめた。
 「おもてなしは本当に胸に温かく染みました。しかし、あなたのような立派な武士にこのような思いをさせている、鎌倉の執権殿をどうお感じになりますか?」
 すると、佐野は目を輝かせてこう答えた。
 「わたくしは前執権・時頼様を信じぬいております。あの方は公正な方です。やがてはわれわれにも日の光をあててくださるでしょう。もし鎌倉に何かあったときは、真っ先に鎌倉に駆けつけるつもりです。わたくしはこのような貧しい生活をしていても、弓の手入れを怠らず、また痩せ馬も飢え死にしないように立派に育てております」
 「……」
 時頼は感動したまま佐野を見つめていた。翌朝、時頼は丁寧に礼をいって鎌倉に戻った。
 やがて、佐野のところに前執権・北条時頼から使いが来た。至急鎌倉に来るようにとの沙汰である。佐野は馬に乗って、手入れの行き届いた弓を携え鎌倉へ走った。そして驚いた。かつて自分の家に泊まった旅の憎が、館の上段に座っていたからである。その旅の僧はいった。
「最明寺入道覚了房道崇だ。かつての執権・北条時頼である。先日は世話になった。礼をしたい」
 そういって時頼は、佐野常世に、新しい耕地を三カ所、加賀の鴨川荘、越中の桜井荘、上野の松井田荘を与えた。
 平伏してこの沙汰を聞いた佐野はハッと気がついた。梅田荘、桜井荘、松井田荘、それぞれあの日燃やした梅、桜、松の名がついた土地であった。
 (時頼様は、鉢の木のお礼をこういうかたちでしてくださるのだ)
そう感じとると、佐野の胸には時頼の深い愛情が伝わってきて、いいようのない感動に身をふるわせた。
 名君には、人望とか能力とかリーダーシップとかいろいろな条件が必要だろう。しかし一番肝心なのは、ポリシー(政治理念)を持つことだ。
 北条時頼のポリシーは、
 「あくまでも貧しい地方武士の立場に立って、これを守りぬく」
 そして、何より、
 「公正さを貫き、道理を通す」
 ということであった。
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■吉宗の私情を押さえて後継者を決める

<本文から>
 吉宗は享保十六年(一七三一)に次男宗武を、元文五年(一七四〇)に四男宗尹をそれぞれ独立させた。江戸城の門の名をとって田安、一橋と名乗らせた。跡継ぎは長男の家重と決めていた。ところが、家重は不肖の子で、少年のときから酒色にふけり、生活が荒れていた。これにひきくらべ次男の宗武は英明で、城内では、
「田安宗武様こそ、次の将軍にふさわしい」
と噂されていた。
 いつまで経っても家重の行状が直らないので、業をにやした松平乗邑は、ある日吉宗に直言した。
「恐れながら家重様をご廃嫡になり、田安宗武様をご世子になさいますように」
 これを聞くと吉宗は何ともいわず、じっと乗邑を凝視した。その日がみるみる悲しくくもった。乗邑はびっくりした。やがて吉宗は悲痛な声でこういった。
「乗邑、人の親としての吉宗は、おまえのいうとおり宗武を跡継ぎにしたい。だが、将軍としての吉宗は長子・家重を跡継ぎとする。将軍は理を貫く。情は捨てねばならぬ。しかし、おまえはすでに家重を支える気がない。無念だぞ」
 まるで飼犬に手を噛まれたかのような悲痛な言葉であった。乗邑はいまさらながら、吉宗の筋を重んじ私情を排する気持ちに胸を打たれた。自分のあさはかさに臍を喧んだ。しかし、取りかえしはつかなかった。乗邑は罷免された。
 老中職を罷免にはしたが、吉宗はその後の乗邑の暮らしにいつも関心を持った。
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■山本五十六も楠木正成も情によるリーダーシップを発揮

<本文から>
 山本五十六も楠木正成も、この人間の器量や魅力をふんだんに持っていた。それが、みすみす敗れるとわかっていても、多くの部下が二人を慕い、ついていったゆえんだろう。つまり、二人は普通の武将でなく″仁将″だったのである。
 仁将というのは、知による戦略を実行しながら、情によるリーダーシップを発揮する。特に、下の層に愛情深い手を差しのべる。
 山本五十六が、航空母艦に着艦しそこない、危うく海に落ちそうになった飛行機を走って追いかけ、その尾翼に飛びついたというのは有名な話だ。艦長がそんな真似をするものだから、部下の将兵も、あわてて尾翼に飛びついた。その飛行機は、かろうじて航空母艦の上に留まることができた。
 また、五十六はよく負傷した飛行兵を見舞った。盲目になった少年兵を見舞ったとき、五十六はその少年兵にこういった。
 「海軍は、絶対におまえを見捨てないぞ」
 言葉をかけたのが山本五十六だと知って、少年兵は見えない目からいつまでも涙を流しつづけた。
 日本の組織人が行動する動機(モチベーション)には、知的なものと情的なものとの二つがある。
 知的なものによって動機づけをする人間は、「何を行なうか」あるいは「何のためにそういうことをするのか」という、理論的なものを重視する。つまり、内容や目的によって、動いたり動かなかったりする。
 ところが、情的なものを重視する人間は、「誰がそういうことをするのか」とか「誰のためにそんなことをするのか」という、いわば人間″にこだわる。したが つて、どんなにいいことでも、命令する者が気に食わなければ、協力しない場合がある。つまり、動かない。ここが、日本人の摩訶不思議な性格だ。
 おそらく、外国人が「日本的経営」を理解できない理由は、実をいえばこの辺にあるのではなかろうか。特に情的なものによって動機づけをする人間は、不条理なことを信じている。それが「人生意気に感ず」であり、「あ・うんの呼吸」であり、「以心伝心」だ。
 そして、この不条理性を持つ心情があきれるほど意外なパワーを生みだす。おそらく自分でもわからないような力を発揮することがある。山本五十六も楠木正成も、部下にこういう動機づけをし、思わぬ力を発揮させた名リーダーだ。
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■江戸市民のために水野改革に耐えた遠山金四郎

<本文から>
 遠山は、
 「いまはじっと嵐が吹きすぎるのを待つだけだ」
 という態度を保ちつづけた。
 大筋においては、水野の改革に協力したが、あまりにも市民を苦しめるということがはっきりしている場合には、水野がうたぐったように、遠山はその触れを自分の手元において町役人にも伝えなかった。これがばれて、遠山は水野から激しく叱られ罰を食らったこともある。しかし、そんなことは遠山は気にならない。
 心ある部下が同情して、
 「お奉行、いいかげんになさいませ。いまは長いものに巻かれていたほうが得でございますよ」
 と処世術を授けてくれることもあったが、遠山は笑っていた。
 「おまえたちのようなまっとうな役人が、大切にされる世の中が必ず来るよ。もう少し待て」
 といいつづけた。
 その日が来るまでは、自分が山の上の一本松のような存在になり、どんなに風あたりが強かろうと遠山は我慢する気でいた。そうしなければ、自分に身を託している枝や葉、すなわち部下や江戸市民たちも一緒に倒れてしまう。
 (ここは一番、全身の力を振り絞って根を強く張らなければならない)
 遠山はそう思っていた。
 かれにすれば、人に語った梅干論、すなわち、
 「おれは梅干だ。皮と肉は食われてもいい(つまり妥協してもいい)。しかし種だけは絶対に食わせないぞ」
 という姿勢を貫くことが、そのまま部下や江戸市民の信頼を受けることにつながると信じた。
 中間管理職としての金さんは、強引な上司水野には芯のあるソフトな対応を、足を引っ張る同僚には敢然と対抗し、協力する部下は身をもって守りぬいたのである。
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■日蓮に学ぼうとするのは、″大切にする自分″の発見

<本文から>
 仏のいったことややったことは、確かに経に書かれている。しかし、その経もいろいろあって、それぞれの立場で、「これが一番正しい」と主張している。日蓮はその一切を破却して、「法華経のみが仏の真理を伝えているのだ」と頑張った。
 宗教に詳しい知識を持たない筆者は、それがはたしてそうなのかどうかはわからない。
 しかし、日蓮は、自分が長年月の激しい勉学の結果発見した思想の核を、人間社会にあまねく広めようとして、この考えを打ちだした。おそらく、日蓮にとっても、この思想は初めから固体として確立されていたわけではあるまい。地球がつくられてきたのと同じように、初めはカオス(混沌)状で、やがてそれが気体になる。液体に変わる。そして粘体になる。やがて固体に変わってゆく。こういうプロセスをたどったのではなかろうか。
 こういうプロセスは、次第に″思考の根気″を失いつつある現代のわたしたちに、大きな刺激になる。そして、いったん固体化した思想を、かれは死ぬまで堅持する。決して、途中でグラグラしない。いったん信じた以上、どんな妨げがあろうとそれを貫き通すという激しい意志が働いている。
 これも最近の世の中では、失われていることではなかろうか。他人に何かいわれると、すぐ自分の考えを変えてしまう。迎合する。特に、大衆状況に弱いのが現代人の特性だ。
 「自分にとって何が大切か」ということを自覚し、「自分にとって大切なことは、どんなことがあろうとも守りぬく」ということは、とりもなおさず「自分を大切にする」ということだ。
 日蓮に学ぼうとするのは、″大切にする自分″の発見だ。それがないのにもかかわらず、ただ自己主張をしても始まらない。他人も認めない。
 日蓮には、かなり反対や弾圧があったにもかかわらず、反対者や弾圧者側にも恐れられるような「核」があった。核なしで、ただ自己主張をしても、それはラッキヨウやタマネギと同じだ。いくら皮を剥いても、核がない。皮を剥き終わってしまえば、無になる。
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■日蓮は迫害をパワーに転化

<本文から>
 日蓮の主張は、法華経を唯一の仏の教えとしない、他宗教者をすべて論破することにあった。論破どころではなく、敵視していた。そのために、他宗教者たちから憎しみの念を持たれた。他宗教者の中には、時の権力者と結託して、日蓮に数々の迫害を加えた者も多い。日蓮が特に敵視したのが念仏看である。ところが、この頃の日本には念仏者が多く、特に支配階級で信仰する者が多かったから、日蓮の主張は当然こういう層をすべて敵にまわすことになった。
 日蓮は、安房小湊に生まれて、子供の頃は近くの清澄山で修行をした。一この地域の支配者は東条景信といって、鎌倉幕府の御家人である。が、束条も念仏者だった。したがって、日蓮が念仏者を敵にまわしたことを知ると、束粂は日蓮の迫害にかかった。
 逃れた日蓮は鎌倉で松葉谷に居を構えたが、今度は鎌倉の念仏者たちから、しばしば襲撃を受けた。身をもって難を逃れ、安房に戻ってくると、今度は東条が小松原というところで待ち伏せをしていて、日蓮を斬り殺そうとした。松葉谷でもそうだったが、他の者が被害を受けても、不思議に日蓮だけは助かっている。伊豆の流罪では、海中の岩礁に置き去りにされたが、このときも付近の漁師によって救われた小松原でも、日蓮自身も数カ所斬られたが、命は助かった。
 これは理屈のつけようのないことで、その後も日蓮はしばしば危雉に遭遇するが、その度に難を逃れる。龍の口では、斬罪の刑に処せられることになったが、このときも刀がかれの首をはねる前に助かっている。佐渡に流されたときも、ほとんど飢え死にさせられるような状況に置かれたが、島の夫婦の協力によって救われる。
 かれの生き方が、常に私利私欲がなく、民衆に深い愛情を注ぐものだったからだろう。口でいわなくても、民衆は日蓮の生き方の中からそれを敏感に察知する。
 そして、
 「このお方は、われわれの味方だ。われわれの苦しみを救おうとして、ご自身が自らその矢面に立っていらっしゃるのだ」
 と思う。
 だから、自分の身が危なくても、まず日蓮を救おうという気になるのだ。そして、実行する。これは、日蓮の宗教心がいかに本物であり、また強いものであったかを物語る。同時にまた、かれの説く教えが、現世における救いを目標にしていたからでもある。
 日蓮は、
 「来世で救われるから、今生ではいくら苦しみやつらい思いをしても我慢できるはずだ、という教えは間違っている。この世で苦しむ民衆は、いま生きているうちに救われなければならない」
 と説きつづけた。
 そして、そのよりどころが法華経だと告げるのである。来世救済でなく、今生救済を主張する日蓮のこの教えは、日々、苦悩のどん底にある民衆を勇気づけた。これが、しばしば日蓮を訪れた危難を退けることができたゆえんでもあるだろう。
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■秀吉にとって箔である利休が主客転倒した

<本文から>
 初めのうち、利休は、秀吉の期待に応え、秀吉の政策を補佐した。秀吉は、信長とは違った天下人として、また親しまれる存在として、いよいよその名を高めていった。利休は、その秀吉の脇で、茶道を軸にしながら、日本一の文化的指導者としての名を高めていった。その限りにおいては、二人の関係は、長い蜜月時代が続いたといっていい。
 が、これが壊れた。それを、先に壊したのは利休だといっていいだろう。大徳寺に自分の木像をつくつて股くぐりをさせたり、あるいは茶頭としての権威を諸大名にふるうことによって、秀吉とは違った権威を確立した。大名の中には、茶の道に限って、秀吉から離れ、千利休に敬愛の念や、尊敬の念を持つ者もたくさん出てきた。
 これは、あくまでも利休を「箔」と考えてきた秀吉にとっては、驚きであった。と同時に、邪魔になってきた。つまり、箔が主体に変わってきたからだ。秀吉は、そんなことまで利休に期待してはいなかった。あくまでも、天下人である自分という主体に付属する箔として存在するならば、利休の存在を最大限に認める。が、主体を超える箔になったのでは、主客転倒してしまう。
 (これは困る)
 そう考えた秀吉は、巻き返しに出る。まず、利休を京都から追う。しかし、もう一度呼び返して、今度は切腹を命ずる。利休が切腹した日は、京都の空には雷鳴が轟き、しきりに落雷した。かつて、菅原道真が京都の一角に追放され、恨みを京都の空に放って、しきりに雷を落としたことを、京都の人々は思いだした。利休は、商人ではあったが切腹した。つまり、武士の作法に則って自我したのである。
 しかし、互いに互いを必要としていた当時の秀吉と利休は、たとえ異なる次元の最高権威者であっても、それぞれの高い能力を認めあっていたことは事実である。そもそも、出会いそのものが、不幸を招いた関係だといっていいだろうり政治と文化の、越えてはならない一線を越えた、微妙な歴史的事件である。
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■龍馬がなぜ龍馬たりえたのか−龍馬の「計算ぬきの人間愛」

<本文から>
 「龍馬がなぜ龍馬たりえたのか」を考えるとき、欠くことができないのは、かれの無限の人間愛だ。人間に対する優しさである。生家(土佐高知)の姉たちのかれへの愛情や、お龍、寺田屋のお登勢などの面倒見、さらに、龍馬の剣術の師・千葉定吉の娘・佐那のひっそりとした慕情などは、すべて龍馬の「計算ぬきの人間愛」、いわばヒューマニズムに応えたものである。
 命がけで人を愛する龍馬に、女たちはこれも命がけで愛を捧げた。姉の一人は龍馬をかばって自殺し、お龍は裸で龍馬に急を告げた。お登勢は国事犯隠匿罪を承知で龍馬を泊めつづけた。
 千葉佐那は、龍馬が奔放なお龍の手に落ちた後、一人甲府に行って龍馬を慕いつつけて死んだ。「墓には、龍馬室(内妻)と書いてください」と遺言した。その遺言は守られ、いま甲府の彼女の墓にはそう刻まれている。この女性の心根を思うと、胸をしぼられ目頭が熱くなる。
 が、龍馬の人のよさを示すものとして、「目前にいる人間へのサービス」を忘れることができない。それは、「何よりも、人を喜ばせるのが好きであった」という太宰治の資質に似ている。
 しかし、かれをかれたらしめたのは、こういうかれを囲んでいた女性の愛情だけではない。多くの師がいた。師は揃って、当時の開明的知識人だった。有名・無名を問わず、ひとかどの文化人だった。
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