童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
       男の「引き際」の研究 “新しい自分”に生まれ変わる意識革命の法

■忠節を全うした美しい死に方−川路聖謨と土方歳三

<本文から>
 美しい死に方、つまり美しいこの世の去り方でいえば、幕臣川路聖謨の死は爽かだ。彼は、江戸開城の日、ピストルで自殺した。日本人でのピストル自殺第一号で慮る。この事実を持って、「川路は、生きていた間は、ぶらかし屋だとか、ずるシャモだとかいわれて、いろいろその狡猾性が云々された。しかし、やはり本物の幕臣だった。他の人間たちが、逃げたり、あるいは新政府に仕えたりしている時に、江戸開城の日に、自殺したのは彼一人だ。立派だ」という声が多い。
しかし、そうはいわれながらも、こんな声もある。
「川路がピストルで自殺したのは、中風で手が震え、刀が持てなかったからだ。本当の武士なら切腹する。それをヨーロッパから来たピストルで頭を撃ったということは、腹が切れなかったからだ」という人もいる。これは、明らかに、椰輸の色が濃い。
 だから、人によっては、こういうことを信じて、川路聖謨の死に対しても、一抹の醜学を感ずるかも知れない。つまり、徳川幕府に殉じて江戸開城の日に死んだという事実だけで、その美しさに浸りきれないのだ。何か、一抹の不透明さを感じとるのである。こういうように、自分の命を犠牲にして、最後の美学を形づくろうとしても、なかなか「外部の論理」は承認してくれない。自分側の「内部の論理」だけで、出処進退の美学は成立できない。本当に難しい。
 そういう意味でいえば、新撰組の土方歳三の死に方は、最後まで美しい。彼は、ここに書いてきた頼りのない最後の将軍徳川慶喜のために、忠節を全うした。
彼が近藤勇と共につくり出した新撰組は、浪人と庶民の集団である。それを、彼等二人は、全加盟者を全て武士の階級に引きあげた。いわば、ここで、身分制の打破をめざしたのである。そして、この新しい武士群は、徳川家への忠節ということを信条にして生きぬいた。だから、勤皇の志士たちに憎まれた。が、彼等は、直参の徳川武士たちが失った徳川家への忠節心を、純粋に保った。それは根っからのものか、あるいほ、人口的なものであったかはわからない。しかし、たとえ人工的なものにせよ、人工的であればあるほど、最後までそれを保ったということは実に美しい。近藤勇は途中で脱落して新政府軍に自首した。土方歳三は、それを見送り、彼は、関東から会津へ、会津から東北へ、東北からそして箱館に渡る。北の果まで、彼は戦いぬく。彼には、美学意識はない。
 「これが、俺の生き方だ」。理屈も何もない。一種の不条理を彼はつらぬいた。そして、明治二年五月に壮烈な戦死を遂げる。最後まで、彼の出処進退は美しかった。
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■松永久秀らしい壮絶なる最期

<本文から>
 松永久秀が信貴山城に籠ったのは、それから四年後の天正五年のことである。
城に籠った久秀は、余裕綽々だった。彼は、「中風になりたくない」といって、よく頭のてっぺんに灸を据えていた。この日も、
「灸を据えろ」と部下に命じた。部下が、「今さら、灸を据えてもしかたがないではありませんか。城は落ちますよ」と告げると、久秀はぼかなことをいうなと笑った。そして、「城が落ちるからこそ、灸を据えろ。腹を切るときに、手が震えたのでほ話にならん」この言葉に、部下たちは悲壮感を感ずるどころか、逆に相変らず久秀らしい心の大きさに、みんな手を叩いたり、笑ったりした。落城間近かだというのに、依然として信景山城内の士気は高かった。
「何を笑っているのだ?」
城を包囲した信長は、訝し気に脇にきいた。包囲軍の総指揮は、息子の信忠がとっていた。信長ほ、信忠に命じて、城内の松永久秀にこういわせた。
「おまえほ、日本に二つとない茶道具を持っているはずだ。それを渡せ。もし、平ぐもを渡せば、おまえの命だけほ助けてやろう」
 信長からの使いの口上を聞いて、久秀は笑った。そして、
「信長らしい」といった。こんな時になっても、まだ名高い茶道具を欲しがる信長の幼児性を、久秀は笑ったのだ。彼は、使者にいった。
「命はいりません。そのかわり、平ぐももお渡しできない」
 使者は戻って行った。
「さて」久秀はまわりを見渡した。そして、
「おれらしく死ぬか」
 久秀はそういうと頭から兜をはずし、代りに茶釜をかぶった。しかし、茶釜には仕掛がしてあった。爆薬がつけられていたのである。彼は、茶釜の中だけでなく、体のいたるところに爆薬を結びつけた。驚く部下たちを後目に、彼は悠然と城壁に登った。そして、城壁の上に立つと、大きな声で怒鳴った。
「織田信長、よく聞け!おまえの欲しがる平ぐもは、いまここでこうして砕く!絶対におまえには渡さない!おれほ、最後の将軍らしさを示した、足利義昭様に殉ずる!大きな目を開けてよく見ておけ!」
 言い終ると、彼は爆薬に点火した。一瞬、轟然たる音が起り、茶釜はふっ飛んだ。ふっ飛んだのは茶釜だけではない。松永久秀の体も木端数塵にふっ飛んでしまった。すさまじい最後である。こんな死に方をした男は、戦国武将はおろか、日本史を捜してみてもいない。
 松永久秀が求め続けたのは、
 「らしさ」である。彼は、その「らしさ」に殉じたのだ。つまり、亡命将軍足利義昭が、最後の土壇場で示した「将軍らしさ」に感動し、そのらしさに殉じようと覚悟したのだ。そういう彼からみれば、織田信長も、らしさを持っていなかった。あるいほ、松永久秀の期待する信長像というのは茶なんかに手を出さず、茶道具なんかも欲しがらず、天下布武の大号令を下し続ける。勇壮な武将像であったろう。それが、商人と茶を飲んだり、名器を欲しがったりして、せこいことばかりするようになった。
 「おれの期待していた信長とは違う」
 ある頃から久秀はそう思いはじめた。それに比べれば、足利義昭の方が、よっぽど将軍らしかった。足利義昭は、完全な徒手空拳である。自前の軍団を持たない。兵力がない。拳骨一つで、しかし彼は戦い抜いた。諸国の大名たちに密書を出しては、何度も何度も信長に背いた。それが、松永久秀のみる、足利義昭における「将軍らしさ」であったのである。そして、それに殉じた松永久秀も、松永久秀らしく死んでいった。おそらく、死の瞬間も、彼は一片の後悔の心も持っていなかっただろう。
 (これでいい)かれはそう呟いた。そして、宇宙に自分の体をふっ飛ばしたのである。
 信貴山城の久秀の部下たちがどうなったかわからない。おそらく、滅ぼされたろう。しかし、部下たちも満足だった。
 「らしい主人を戴いた俺たちは幸福だ」と思っていたに違いない。松永久秀と、その部下たちは、戦国における一服の清涼剤であった。松永久秀は、死んだ時六十七歳であった。それまで、全く病気をした。とがないという。健康管理も、彼は彼なりに行き届いていたのである。
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■勝海舟が自分を捨てた日

<本文から>
 勝海舟は、元治元年九月十一日の夜、死んだ。死んだということは、自分の一切を失おうとしたことである。それも、消極的に失うのではなく、積極的に失おうということだ。失うということは捨てることでもある。彼は、過去の一切を捨てるということだ。しかし、彼はやみくもに捨てたのではない。捨て場所があった。その場所として選んだのが西郷吉之助であった。
 勝海舟のこの日の行動は、つまり彼は死んだ気になって、あらゆるものを捨て、捨てたものが再生されるということを信じたからこそ、逆にいえば自分をも捨てたのだ。自分にまつわりつく一切の栄誉や、過去の実績なども捨てた。全くの空の立場に立った。明日からどうして生きていくか、などという考えは、この時点で勝海舟にはなかった。水のように、空気のように、完全な無に帰していたのである。そしてこの考えは、若い日に学んだ剣と禅からきたものである。中国でいえば、老子や荘子の考え方に近いかもしれない。そしてこの老子や荘子の思想は、そのまま弟子の坂本龍馬にも引き継がれていた。龍馬の行動にもどこかそういうところがある。つまり、普通の人間なら胸の奥に誰もが持っているような私欲や私心を一切この二人は持っていなかったことだ。いってみれば、彼等が持っていたのは「公欲」だけである。
 横井小楠が、「有道」というのは、「民衆に対する愛情」のことである。具体的にいえば「民衆の生活を豊かにし、安定させる能力」のことだ。それを横井小楠は、「仁」とか「徳」とかいう。
だから彼は、
 「仁や徳を失った責任者は、そのポストを去るべきだ。もし、徳を失ったまましがみついているのなら、実力をもって、それを追放しても、それは大義に基くものである」という。孟子の放伐の思想を肯定する。だから彼が、
 「日本が有道の国になった場合、無道な国と結んだ条約は効力がない。破約してもいい。そして、その時ほその無道の国と戦争をすることも許される。もし負けても、正義はこっちにある」といった。これが、一時期撰夷派連中を喜ばせた。彼等は、横井小楠のいうことを本当に理解しないで誤解した。横井小楠にすれば、苦笑ものだった。
 西郷吉之助と会った日、完全に死んだ勝海舟は、その後いわば生ける屍として、日を送った。が、時の流れは、再び彼を必要とした。彼が、長州に談判に出かけたのも、また江戸城開城の日に、かつての知己西郷吉之助に再会したのも、全て、元治元年九月十一日に、彼が死んだからこそできたのだ。彼もまた、土に埋もれて死んだ一粒の麦であった。死んだからこそ、多くの実を結んだのだ。しかし、ここで感心することが一つある。それは、自分が手塩にかけてきた坂本龍馬たちを、惜し気もなく、西郷吉之助の手に委ねたことだ。彼は、坂本龍馬の才能を愛していたし、まだ十分に開花していない面があることも知っていた。そこで、力のなくなった自分が手元に置いておくよりも、力をいよいよ増すであろう西郷の手に委ねた方が、坂本もまた花を開かせるだろうと信じたのだ。これも、ある意味では、
 「自分を死なせた」ことである。
 坂本龍馬も、師の心を知るがゆえに、いわれたとおり淡々と鹿児島に行った。そして、勝海舟の期待するとおりの行動をとりはじめた。坂本龍馬も、もともとはオリジナルな人間ではない。彼は、他人から得たヒソトを最大限に活用するアダブテイクーだ。つまり、脚色が得意であって、自ら何かを産み出すというタイプではない。その特性を勝海舟はよく見抜いていた。そして、龍馬は期待どおり活躍した。やがて、龍馬は、薩長連合の偉業をなし遂げる。絶対に手を結ぶことがないとみられていた犬とサルを仲好くさせてしまったのだ。
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