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<本文から> 美しい死に方、つまり美しいこの世の去り方でいえば、幕臣川路聖謨の死は爽かだ。彼は、江戸開城の日、ピストルで自殺した。日本人でのピストル自殺第一号で慮る。この事実を持って、「川路は、生きていた間は、ぶらかし屋だとか、ずるシャモだとかいわれて、いろいろその狡猾性が云々された。しかし、やはり本物の幕臣だった。他の人間たちが、逃げたり、あるいは新政府に仕えたりしている時に、江戸開城の日に、自殺したのは彼一人だ。立派だ」という声が多い。
しかし、そうはいわれながらも、こんな声もある。
「川路がピストルで自殺したのは、中風で手が震え、刀が持てなかったからだ。本当の武士なら切腹する。それをヨーロッパから来たピストルで頭を撃ったということは、腹が切れなかったからだ」という人もいる。これは、明らかに、椰輸の色が濃い。
だから、人によっては、こういうことを信じて、川路聖謨の死に対しても、一抹の醜学を感ずるかも知れない。つまり、徳川幕府に殉じて江戸開城の日に死んだという事実だけで、その美しさに浸りきれないのだ。何か、一抹の不透明さを感じとるのである。こういうように、自分の命を犠牲にして、最後の美学を形づくろうとしても、なかなか「外部の論理」は承認してくれない。自分側の「内部の論理」だけで、出処進退の美学は成立できない。本当に難しい。
そういう意味でいえば、新撰組の土方歳三の死に方は、最後まで美しい。彼は、ここに書いてきた頼りのない最後の将軍徳川慶喜のために、忠節を全うした。
彼が近藤勇と共につくり出した新撰組は、浪人と庶民の集団である。それを、彼等二人は、全加盟者を全て武士の階級に引きあげた。いわば、ここで、身分制の打破をめざしたのである。そして、この新しい武士群は、徳川家への忠節ということを信条にして生きぬいた。だから、勤皇の志士たちに憎まれた。が、彼等は、直参の徳川武士たちが失った徳川家への忠節心を、純粋に保った。それは根っからのものか、あるいほ、人口的なものであったかはわからない。しかし、たとえ人工的なものにせよ、人工的であればあるほど、最後までそれを保ったということは実に美しい。近藤勇は途中で脱落して新政府軍に自首した。土方歳三は、それを見送り、彼は、関東から会津へ、会津から東北へ、東北からそして箱館に渡る。北の果まで、彼は戦いぬく。彼には、美学意識はない。
「これが、俺の生き方だ」。理屈も何もない。一種の不条理を彼はつらぬいた。そして、明治二年五月に壮烈な戦死を遂げる。最後まで、彼の出処進退は美しかった。 |
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