童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          お札になった偉人

■神功皇后

<本文から>
 皇后か、
「巫女的特性」
を持っていたということは、そのまま、
「原始、女性は太陽であった」
といわれるように、日本の建国神話にもつながる。つまり、アマテラスオオミカミが神功皇后となって、日本国のために実際行動に出たといえよう。その意味では、神功皇后は、女性であると同時に、
「勇猛な軍神」
でもあった。しかし女性であるがゆえに、当然夫がいれば妊娠し子を生む。その子が天皇に育つ。その神功皇后がなぜお札になつたかといえば、二通りの推理ができる。
一つは、自由民権運動というのは、
「個人の権利」
を前面に出して主張する。しかし、政府側から見れば、
「このままだと、個人の権利主張ばかりが強くなって、日本国という国体を忘れ、国に対する義務を忘れかねない」
という危惧が湧いたのではなかろうか。そこで改めて、
「原始、女性は太陽であった」
という神話の力を借りながら、
「日本の国体にも考えを及ぼしてほしい」
ということを求めたのかも知れない。つまり、
「個人の権利を主張しても、日本国民であることを忘れるな。それには日本がどういう国だということも改めて認識してほしい」
ということだろう。
もう一つは、自由民権運動の高まりによって、日本の近代化を急ぐ政府首脳部にとっては、この運動が大きな障害になっていたことは事実だ。彼らにすれば、
 「いまはまだ日本は若い。育ち盛りだ。そんなときに、熟成した先進国である欧米の民主主義的な考えを持ち込んでも、すぐには実現できない。それに、一部のインテリはともかく、多くの国民は長年の徳川幕藩体制による"依(よ)らしむべし知らしむべからず"という政治の行い方に慣れている。いきなり、
「個人の自由や権利」
などを与えても、これは猫に小判になる。だから政府首脳部は、
「国会開設と国民への参政権付与は、時期が早い」
と判断したのである。しかし、高まる世論はそれを認めない。そこで一応、
「十年後に国会を開設し、憲法も制定する」
と約束した。しかし、その十年間も自由民権論者たちはいよいよ勢いを得て、うるさくなるに違いない。国家は、
「内政に行き詰まりを生ずると、外の問題に国民の目を向けさせる」
ということをよく行う。あるいは、このときもそういう意図があったのかも知れない。すなわち神功皇后の外征という歴史的事実を持ち出して、
「同じような課題が、いまの日本にもある」
というテーマを設定したのではなかろうか。ちょうどこの頃日本政府は、清(しん。中国の当時の国名)国と、流球問題について交渉中だった。
「国会開設も大事だが、当面は清国問題にも大いに関心を持ってもらいたい」
と、いわば国民の目を国内から国外へ向けさせるために、神功皇后を日本で最初の、
「肖像紙幣」
として発行したのかも知れない。しかしその意図はあくまでも、
「日本国は、神のつくつた国である」
という意味合いが強く、この時点では決して、
「女性に参政権を持たせよう」
という考えは全く無い。

■武内宿彌

<本文から>
武内宿彌はその意味では、
「だれが君主であっても、忠犬のように忠誠心を尽くすタイプの人物」
として、伊藤博文たちにとれば、
「期待される忠臣像」
を遺憾なく示す存在であった。だから、菅原道真・武内宿彌・和気清麻呂・藤原鎌足と続く明治二十一年二一十二年・二十三年・二十四年に発行された肖像紙幣は、それぞれ、
「期待される忠臣像のうちで特に優れたキャラクターを示した人物の代表」
 ということだったのかも知れない。他の人物については、またそれぞれの項のところに書く。武内宿彌についていえば、
「余計なことはいわないが、重大なときに限りない勇気を示し、同時にまた相手を打ち負かす武力の持ち主」
ということだろう。力強く頼もしい存在だ。明治二十二年現在では、そういう、
 「力強く頼もしい人物」
 が、大いに求められていたに違いない。

■聖徳太子

<本文から>
聖徳太子がなぜ肖像紙幣になったかの理由は、すでに引用した、
「時の総理大臣浜口雄幸の"随感録"の一文で明らかにした。当時の日本の社会状況が不況による失業者続出で暗く、それは世界的規模に広まっていたので、人々は
「希望のない日々」
を送っていた。にもかかわらず、政界は派閥争いに終始し、同時に生活者たちは左傾し、その種の運動が活発に起こっていた。こういう状況を憂えた浜口雄幸は「随感録」に書かれたような、
「どんなに生活が苦しくても、単に物質的な充足を求めるだけではなく、精神的な充足も求めるべきだ」
ということで、その規範として、
「聖徳太子に学ぼう」
という主張をしたのではなかろうか。聖徳太子は、
「右も左もなく、また眼前の状況を越えて、あるべき日本の姿」
を求めていたと解釈したのだろう。これは、浜口雄幸のいう、
「国民の精神的充実」
を求めることは、単に政治家だけでなく、国民一般にもそれがいえるという判断だった。
 以後、昭和二十(一九四五)年まで、新しい肖像のお札は発行されない。日本はこの後まさしく"ウント・ドランク(疾風怒涛)の時代"を迎える。

■岩倉具視

<本文から>
岩倉具視がお札になったのは昭和二十六(一九五一)年の四月のことだ。この頃は、前年の六月に勃発したいわゆる"朝鮮戦争"の盛んな時期で、GHQによる占領政策がかなり変わっていた頃だ。総司令官のマッカーサーも、日本の自立を促し、最小限の軍事力を持たせようという方針に変わって来ていた。当然この背後には、
「日本の独立を促す」
という考えが前面に出て来る。したがって、大混乱期にあった日本の政治情勢をしっかりとおさめ、独立に向けての国民の世論を沸き立たせるためには、やはリ、
「そういう資質を備えた優れた政治家」
が求められた。思い切った政治行為を行う政治家は、すべての国民から褒められるということは絶対に無い。必ず反対者がいる。しかしその反対論にも負けずに、自分の信念を押し通していく勇気が必要だ。それには個人的に、
「社会の此判・非難に耐えるしたたかな孤独感」
を持つことになる。この頃の日本国政の責任者は−吉田茂総理大臣だった。もともと、
「その人物がなぜお札になったのか」
ということに、国政を担当する政治家たちの意向が反映していたとは思わない。しかし、当時の政治状況や社会状況と全く無縁な人物をお札にするはずもない。岩倉具視がこの年にお札になった背景には、やはり当時の、
「新生日本の指導者」
としての岩倉具視の事績が再評価されたのではなかろうか。あるいは、
「世の非難や批判の礫にも負けずに、自己の信念を貫いた歴史上の人物」
として、岩倉具視がお札になったのではないかと思う。つまり岩倉具視は、
「混迷する日本の政治を生まれ変わらせる実力者」
として登場した。この年はさらに十二月に前に書いた高橋是清が登場する。高橋是清はいうまでもなく、
「経済再生の達人」
としてランクされる。したがってこの年は、
・政界におけるカの回復者として岩倉具視
・経済再生の達人として高橋是清
というように、緊迫した当時の政治・経済の上にのしかかっていた厚い雲を切り開く人物として二人がお札になったのではなかろうか。

■福沢諭吉

<本文から>
「親米色」
が強かった時代だ。したがって、福沢諭吉もアメリカに渡って、自身の英語を試し、さらにそこで見た民主主義の基盤にある、
「個人の尊厳と、その独立」
に大きな影響を受けたことを考えると、やはりもう一人の新渡戸稲造とともに、
「日米の架け橋」
的意味合いが大きいと思う。日米友好の架け橋としての経済人は、他に渋沢栄一がいて、場合によっては福沢諭吉よりも渋沢栄一の方がその色彩が濃いのだが、この年は諭吉が選ばれた。

■新渡戸稲造

<本文から>
新渡戸稲造がお札になった昭和五十九年は、中曽根内閣によって"親米色"がいよいよ強まった時代だと書いた。したがって、そのアメリカに強い影響を受け、アメリカのよいところを日本に取り入れて、日本のよいところをアメリカに伝えようと努力したという意味で、新渡戸稲造の活動の意味は大きい。
福沢諭吉が、それまで学んだオランダ語がすでに国際語社会から脱落し、すべて英語だという事実を知って、実際に学んだ英語が役立つかどうかを試すためにアメリカに渡った詰も前に書いた。そしてサンフランシスコで買って来たのが「ウエブスターの大英語辞典」だったことも書いた。新渡戸稲造の対アメリカ行動は、その福沢論者よりもさらに大きく幅が広い。

■樋口一葉

<本文から>
この年はギリシャのアテネでオリンピックが行われた。日本の女性選手の活躍がめざましかった。しかし、樋口一葉が十一月一日にお札になることは随分前から決まっていたようだ。もっといえば、樋口一葉はいままで何度もお札の候補になっている。したがって、無理に平成十六年と結び付ける必要はないのかも知れない。つまり樋口一葉は、
「いつお札になってもおかしくない女性」
であって、特にこの年の出来事とそれほど無理に結び付ける必要はないような気がする。国内的・国際的にもいろいろな事件があった。日本国内では、台風が例年に無く多く発生し、またそのあと中越(新潟県)地方に大きな地震が襲った。樋口一葉の存在は、そういう状況の中で、
「癒しの存在」
になる。辛いけれども、その辛さの中にほっとするものを与えてくれる。国際的にテロが頻発し、ギラギラした刺々しい世界相の中にあって、一葉の存在は単に日本国内だけではなく、国際的にも"癒し"を投げかけるはずだ。紫式部と同じように、一葉の作品も外国語に翻訳され、世界的な文学作品になる日が待ち遠しい。

■野口英世

<本文から>
日本の近世のはじまりは、徳川家康が大坂城の豊臣一族を滅ぼしたときにはじまる。このとき家康は、
「元和偃武(げんなえんぶ)令」
を出した。元和というのは、それまでの慶長という年号を改め、
「平和のはじめ」
を宣言したことだ。偃武令というのは、
「武器を倉庫にしまって鍵を掛け、二度と出さない」
ということで、これも平和の維持につながる。
 そして平和な世の中になれば、それまで人を殺すことが職業だった武士など必要ない。ところが、徳川幕府は軍事政権であり、同時にその頂点に立つ征夷大将軍も軍事ポストだ。そのために、結果的には平和社会においても、政府も地方自治体(藩・大名家)も武士が管理するようになった。が、平和な時代に生きる武士はいままでのような戦争状況下における武士とは質を変えなければならない。つまり、人を殺す道具や方法は必要ない。
 武士たちは悩んだ。そんなとき、沢庵という禅僧が、
「これからの武士は殺人刀ではなく活人剣を使え」
といって、自分の信ずる禅を導入させた。つまり、
「剣禅一致の兵法」
を編み出したのである。いまの世界に必要なのも同じだ。つまり、
「殺人刀ではなく活人剣にする」
という武器と精神の一致による活用法だ。そんなときは、何といっても科学のカが大きい。しかしその科学も、
「人を殺す使い方ではなく、人を生かす方法に活用する」
ということが望ましい。野口英世の自分の生命を捨てての人類への奉仕はまさに、
「人を生かす科学の実験」
の見本を示したことになる。捨て身な彼の科学への身の投じ方が、
「野口英世の発見した病原菌にも誤りがある」
という指摘や評価を越えて、その存在が国際的に確立されているのだ。その意味で、この年に野口英世がお札になったという意味は、国内的よりもむしろ国際的に大きな意味を持っている。

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