|
<本文から>
深い堀にはあいかわらず近くから湧いた水がたえまなく流れ込んでいた。水の上には晴れ渡った空が映り、その上に城の濠にはえた木々の葉が黒々とした色を落としていた。
江戸城は全体として約二、三十メートルの高さの崖の上に建っていた。その崖もあちこちに入り込みがあった。入り込んだ崖にはそのまま海が入り込んでいる。資長は後世、「道灌かがり」と呼ばれる築城法をこの江戸城で駆使した。資長はここの地形をそのまま利用して、あまり改変を加えなかった。つまり海の入り込んだ崖は崖として、そのまま活用したのである。城は子城、中城、外城の三つに区切られていた。それぞれが独立した城郭を構成していた。城全体は川と海に囲まれており、東と南は日比谷の入江と、大きな溜池とによって囲まれていた。北は平河と大沼によって囲まれている。この城を攻めようとすれば、西北からしか攻撃できないという造りになっていた。だから資長はその西北の地点に、"馬の駆け場"といわれる合戦場を設けていた。つまり、迎え撃つ場を一か所にしぼっていたのである。
そのために海の入り込みや、あるいは川の流れや沼の存在をそのままにして、一切手を加えなかった。子城、中城、外城の中で、後の時代の城の造られ方に即していえば、中城が本丸にあたった。したがって、中城をいちばん高い頂の台地に築き、そのちょっと低いところに子城を造り、さらにもっと低いところに外城を造っていた。が、これらの三つの城郭は、それぞれ独立した郭であって、郭と郭との閏には深い濠があった。濠を掘るために生じた土は盛り上げて土塁とされた。
各郭の段差は五メートルから十メートルあったといわれる。敵が西北の"馬の駆け場"を突破して、城に侵入して来ても、まず外城で防ぐ。そこが突破されると子城で防ぐ。そして最後は中城で防ぐ。しかし、とうてい中城までは到達できない、というのが資長の判断であった。資長の判断だけでなく当時の武将はみんなそう思っていた。守るに堅い城で、攻めにくい城だという評が定着していた。ほかにも城内にはいろいろな防ぎの場があり、三日月濠とか、蓮池濠とか、後に道濯濠といわれる濠、あるいは綾垣と呼ばれる囲いの垣、さらに、
「かまりの場」と呼ばれる空地もあった。とにかく、城の至るところに資長の部下が伏兵として待ち構えるような構成をとっていたのである。こういうように築城にすぐれた技術をみせる資長は、同時にたいへんな風流人であったから、本丸ともいうべき中城にはいろいろな風雅な建物を建てた。かれ自身の居室である「静勝軒」という建物や、泊船亭、含雪斉などと呼ばれる建物が建ち並んでいた。 |
|