童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説 太田道灌

■江戸城の道灌かがり

<本文から>
  深い堀にはあいかわらず近くから湧いた水がたえまなく流れ込んでいた。水の上には晴れ渡った空が映り、その上に城の濠にはえた木々の葉が黒々とした色を落としていた。
 江戸城は全体として約二、三十メートルの高さの崖の上に建っていた。その崖もあちこちに入り込みがあった。入り込んだ崖にはそのまま海が入り込んでいる。資長は後世、「道灌かがり」と呼ばれる築城法をこの江戸城で駆使した。資長はここの地形をそのまま利用して、あまり改変を加えなかった。つまり海の入り込んだ崖は崖として、そのまま活用したのである。城は子城、中城、外城の三つに区切られていた。それぞれが独立した城郭を構成していた。城全体は川と海に囲まれており、東と南は日比谷の入江と、大きな溜池とによって囲まれていた。北は平河と大沼によって囲まれている。この城を攻めようとすれば、西北からしか攻撃できないという造りになっていた。だから資長はその西北の地点に、"馬の駆け場"といわれる合戦場を設けていた。つまり、迎え撃つ場を一か所にしぼっていたのである。
 そのために海の入り込みや、あるいは川の流れや沼の存在をそのままにして、一切手を加えなかった。子城、中城、外城の中で、後の時代の城の造られ方に即していえば、中城が本丸にあたった。したがって、中城をいちばん高い頂の台地に築き、そのちょっと低いところに子城を造り、さらにもっと低いところに外城を造っていた。が、これらの三つの城郭は、それぞれ独立した郭であって、郭と郭との閏には深い濠があった。濠を掘るために生じた土は盛り上げて土塁とされた。
 各郭の段差は五メートルから十メートルあったといわれる。敵が西北の"馬の駆け場"を突破して、城に侵入して来ても、まず外城で防ぐ。そこが突破されると子城で防ぐ。そして最後は中城で防ぐ。しかし、とうてい中城までは到達できない、というのが資長の判断であった。資長の判断だけでなく当時の武将はみんなそう思っていた。守るに堅い城で、攻めにくい城だという評が定着していた。ほかにも城内にはいろいろな防ぎの場があり、三日月濠とか、蓮池濠とか、後に道濯濠といわれる濠、あるいは綾垣と呼ばれる囲いの垣、さらに、
 「かまりの場」と呼ばれる空地もあった。とにかく、城の至るところに資長の部下が伏兵として待ち構えるような構成をとっていたのである。こういうように築城にすぐれた技術をみせる資長は、同時にたいへんな風流人であったから、本丸ともいうべき中城にはいろいろな風雅な建物を建てた。かれ自身の居室である「静勝軒」という建物や、泊船亭、含雪斉などと呼ばれる建物が建ち並んでいた。

■太田資長は同時代の異端児

<本文から>
つまり太田資長は、自分ではどう考えようと、この時代、この地域においては異端児なのである。この時代、この地域の"常識"からは、はるかにはずれて生きていた。地域の人々はもつれにもつれ、汚濁の泥冶の中でのたうちまわっている。それなのに資長だけはそこを抜け出て、さわやかな風に身を吹かれている。そういう自分の姿がありありと脳裡に浮かんでくるのだ。そして、そのさわやかな姿が資長自身、鼻もちならないのである。
 (カッコよすぎる)という思いが、その姿を思い浮かべるたびに衝きあげてくる。
 つまり、かれ自身にすれば、いまの世の中のもつれを払いとばすような新風を巻き起こしているつもりでいる。自分がそういう風を巻き起こす気流の源であり、またつむじ風だと思っている。が、世間が果たしてそうとっているかどうか自信がないのだ。世間は、むしろそういう泥冶の中での努力をいやがって、一人だけそこから逃亡したとみているかもしれない。そういう思いがいつもチラチラまといつく。そういう思いにまといつかれむというのは、自分の行動が自分で思っているほど完全に正しくないからではないのか、という反省をこの時間帯になると毎夜のように資長はするのだ。
 だから、この時間帯は資長にとって正に地獄の思いであった。
 「地獄は死後の世界にあるのではない。むしろ生きているこの世にある」と思っていた。かれにとってこの丑三つ時という時間帯は、正にこの世の地獄であった。

■敗戦で大田軍団の和が乱れる

<本文から>
 歌声が響き渡り、かなりの距離まで遣の雪がかかれたころ、利根川を渡ってぬれネズミのようになった太田軍団の兵達が戻って来た。かれらは川を渡り切った瞬間、呆然として立ち止まった。岸の河原に立つ資長はニッコリ笑いながら、その一人一人に励ましの声をかけた。
 「ごくろうだった!」
 兵士達は顔を見合わせ、その場に立ちつくした。やがて指揮をとっていた樋口兼信がやって来た。
 「お館、申し訳ありません。景春の奴が待ち伏せをしていたのに気づきませんで、やられました」
 いつもの態度をくずさずに率直な言い方をした。樋口の態度には逆に資長をいたわるような色があった。資長はグッと胸が熱くなったがうなずいていった。
 「ごくろうだった。苦労をかけたな?」
 「太田軍団、最初の敗戦ですよ。みっともないったらありやしない」
 樋口は男らしく首筋をかいた。資長は、
 「みんなもきいてくれ」と、川を渡って来て集結した兵達に向かって大声を出した。
 「戦というのはつねに運だ。天が味方するかしないかによって、勝ったり負けたりする。今日の太田軍団には天が味方しなかった。だからひとつも気にすることはない。負け戦とはいえ、おまえ達は精一杯戦ってくれた。礼をいうぞ。さあ、急いで陣に戻れ。陣ではあたたかい酒が用意されているはずだ。粥も炊いてある。急いで陣に走り戻れ。おまえ達が走りやすいように足軽隊が雪をかいておいた。さあ、帰れ!」
 いままでなら、こういわれれば太田軍団の兵士達はいっせいに涙ぐんだろう。なかには拳を眼にあてる者もいたはずだ。それが資長と全軍団に通い合う温い心の流れだった。ところがこの日の反応はまったく逢った。兵たちは資長にひややかだった。かれらは血と冷たい川の水にまみれながら、一様に道の方をみた。まだ足軽隊は速くの方で作業をしていた。しかし道の方をみる兵士達の眼に感謝の色はなかった。また資長の温情に眼を潤ませる気配もなかった。われらはにくしみの色を交互に資長と足軽隊に向けた。その眼は明らかに、
 (おれ達が血まみれ水まみれになって戦に負けているのに、お館と足軽隊はヌクヌクと陣にいた。おれ達を助けてはくれなかつた)といっていた。もっといえば、
 (お館は足軽隊だけがかわいいのだ。だから、危険な戦いにはおれ達を出して足軽隊は温存する。おれ達のことなど、死んでもけがをしても、お館はたいして気にならないのだ)
 と、いっていた。資長は愕然とした。たちまち気まずい空気が利根川の岸に漂った。資長は言葉を失った。胸の中が騒がしくなり、落ち着いて馬の上にいられなくなった。おぼつかない気持ちが身掛中をかけめぐり、落馬しそうになった。こんな経験は初めてだっだ。

■関東争乱の解決が大田道灌を標的に

<本文から>
いうならば、関東地方の争乱の解決は、足利上層部における政治的解決にゆだねられた。こうなると、太田資長が実行しているかれの「美学」は通用しない。やはりスケールの小さいものになる。それは関東という局地ではものをいっても、日本全体に通用する一般的なものではない。
 両上杉の首脳と足利成氏は、共鳴して事件解決を高度の政治次元に追いあげたのだ。京都の足利幕府も乗り出してきた。手続きとして、越後の守護上杉房定が京都の管領細川政元に上書を奉った。これを細川から将軍足利義尚に奉るという形式がとられた。つまり、幕府での「手続き」が再び重視された。当然、身分が重さを持つ。関東公方の執筆の家事にすぎない太田資長は、はるかに低い存在になる。上杉首脳部は、いままでになく生き生きと行動した。身分と形式が、かれらを生きかえらせたのだ。が、謡はすでにできあがっていた。根まわしが十分にすんでいるからだ。将軍足利義尚はその話を了承した。そして教書を下した。教書の中には、「関東の逆徒を討て」と書いてあった。
 ところが、おもしろいのは足利義尚がいう逆徒は、すでに関東には存在しなかった。つまり、もとはといえば足利成氏は古河にこもって足利将軍に反乱を起こした。またその一味である長尾景春は、関東管領に対して反乱を起こした。それを、両上杉家と太田資長がいっしょになって討伐戦を展開してきた。ところが、討たれる側の足利成氏と長尾景春が達者して、足利将軍に、
 「調停してほしい」と申し出ているのである。つまり自分達は逆徒ではないという宣言をしたのだ。だからといって、自分達が逆徒でないから、両上杉家のほうが逆徒だといっているのではない。表向きはこの調停依願によって、いままで反抗してきた自分達の矛をおさめるという意思表明である。いうならば、
 「いままでお騒がせいたしました。これからは決して騒ぎは起こしませんから、どうぞよろしくお願いいたします」ということだ。ふざけた話である。ほんとうなら両上杉家は怒るべきである。ところがこの調停に上杉顕定と上杉定正が最も熱心に賛成した。
 というのは、前に書いたように両上杉の首脳にしろ足利成氏にしろ、また長尾景春にしろ、それぞれに共通して標的にしている一人の人物がいたからである。いうまでもなく太田資長であった。かれらは、だれもが太田資長に好感をもっていなかった。みんな憎んでいた。憎んでいたというよりも恐れていた。

■大田道灌が暗殺

<本文から>
しかし、そこまで奥深いところでうこめいている資長の心の租密は、さすがの樋口や中村達にもわからなかった。かれらはひたすらに反対した。が、資長はついにきかなかった。そしてかれは相模の糟屋に出かけて行った。
 資長を迎えた上杉定正は上機嫌だった。
「この間は非常に楽しかった。おまえの舞いも相当なものだ。万里段はお元気か?」
ニコニコと語りかける定正に資長は心をゆるめた。そして、
「万義は至ってお元気です。先日も父の里まいりまして歌の会を催しました。たいへん楽しうございました。遅ればせながら、あの日はまたわざわざ江戸城にお出ましいただきまして、私はもちろん家臣高もお館様のご恩情に胸をあたためております」と丁寧に礼をいった。
「そうか」満足そうにうなずく定正はこんなことをいった。
「おまえへの礼の宴は別館でやろうと思っている。どうだ?先に行って風呂でも浴びろ」
資長は、ありがとうございますと礼をいって本館を出、別館に向かった。そして風呂に入った。久しぶりの他人の家の風呂だ。が、緊張しつつもその緊張が片っ端から解け始めているのを資長は感じた。風呂のせいだけではあるまい。定正の対応が非常ににこやかだったからである。
 (あるいは本当におれをもてなす気か)
 そんな思いもした。入浴終わって戸口まで出ると、突然一人の武士が斬りかかってきた。資長は素っ裸である。武器はなにもない。思わずそこにあった桶をつかんで応戦した。が、たちまち斬られた。
 「おまえは何者だ?」斬りかかった武士にきいた。武士は、
 「曾我兵庫です」はっきり答えた。
 「兵庫か」資長はつぶやいた。名だけはよく知っている武士である。樋口や中村の話では、資長に好意を持っている扇谷上杉豪の家臣の一人であった。
 「おまえが曾我兵庫か? 名はよくきいていた。もっとちがう人間だと思っていた。そうかおまえがおれを斬るのか?」血まみれになりながら資長は意外そうにつぶやいた。樋口や中村からきいた人間とまったくちがった。好意を持っているどころではない。刺客として資長を殺そうとしている。曾我は、しかし、そういう資長の失望と憤りを感じとったのだろう、
 「お許しをいいただきます!」わめくようにいうと、何度も資長に太刀を浴びせた。曾我は本当は資長に好意を持っていたのかもしれない。そしてそれを上杉定正に見抜かれて、刺客を命じられたのだれだから、かれの刀のふるい方には狂ったような異常さがあった。刀を適して自分の悲しみを資長のからだに叩きつけているのだ。しかし、そんなことは資長にはわからなかった。資長は風呂場に倒れた。曾我は止めを刺した。止めを刺される直前、資長は大きく叫んだ。
 「当家滅亡!」
 この日太田資長は五十五歳だった。

■大田道灌謀反の北条早雲のガセネタだった

<本文から>
しかし、このころの政治情況をみてみると根はそんな単純なものではない。むしろ、資長暗殺の真因は両上杉実の確執にあったといった方がいい。それは資長の功績によって、地盤沈下していた扇谷上杉家の格がどんどんあがってきたことだ。それに伴って力も増してきた。それに不安な気持ちを抱いたのが本家である山内上杉豪であった。そのトップである上杉顕定である。
 かれは扇谷山内家が自分の家と肩を並べるのを好まなかった。肩を並べるどころではない、このごろでは本家を抜くような構えをみせている。まごまごしていれば扇谷山内家に管領の職をとられてしまう。顕定はそう考えた。しかし、それもこれも扇谷上杉家の家老である太田資長が過分の功績をたてるためだ、と思った。つまり山内上杉家にすれば、扇谷上杉家台頭を警戒したのである。そして扁谷上杉豪を台頭させているのは、あげて太田資長だと判断した。であるならばこの資長を除かなければならない。
 そして顕定のこの判断にかなり効果的な煽動をしたのが、はかならぬ北条早要である。もともと太田資長に謀反心ありなどといううわさをばらまいたのは早雲だ。もちろん上杉顕定側や上杉定正にも疑心暗鬼の心が湧いていたことは事実だ。しかしそれを増幅して決定的なものにしたのは、やはり早雲のガセネタのばらまきが大きくものをいった。早雲はかつて宣言した。「おれは太田資長が死んだ日から生きる」と。かれはそれを実行したのである。

■北条早雲の計画

<本文から>
「こういう男と仲良くしておくことは、我々の将来にとっても益のないことではない」他家から入っただけに、上杉定正はそういう考え方をしていた。太田資長に比べれば北条早雲の方がはるかにたのみがいがあると思った。また自分を立ててくれもする。資長のように頭から自分を小馬鹿にするようなことはいわないし、しない。そういう点が定正の心を次第に早雲に傾けさせた。たとえ同じことをいったとしても、資長がいったのでは受けつけないが、早雲がいえば必ず受けつけた。資長がよく口にする、
 「人間はなにがでなく、だれがを重視する」ということは、北条早雲の場合にもあてはまった。早雲のいうことならどんなくだらないことでも定正は受け入れたのである。しかし、そういうことを早雲は国栖に話さなかった。かれにすれば、太田資長の動きを細かく教えてもらえばそれでいい。こっちのやっていることはべつに知らせることはない。したがって、このごろ国柄が太田資長にもたらす情報はこく限られたものになっている。とくに北条早雲に関する情報は、いいことばかりで、早雲のやっている裏の行動はまったく教えなかった。また早雲のほうでも国栖に重大な情報はあたえなかった。北条早雲の行動はいままでとは違う高い次元に駆けあがり、国楢などの及ぶところではなかったからである。しかし北条早要は、
 (やがては、この国栖を頭目にして多くの諜者を放ち、太田資長についてあるうわさをばらまかせる日がくる)と思っていた。そのための布石をいま着々とおこなっているのだ。そして、レンジの長い早雲の計画は、国栖がいった、
「人間の生涯は五十年だ」という一般的な考えを否定しておこなわれていた。長い将来を前提にして実現されている、といってよかった。それほど、北条早雲の魔手は両上杉家に食い込み始めていたのである。そして、東上杉家の方は、むしろそれを歓迎する形で受け入れていた。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ