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<本文から>
四郎次郎に家康は、
「朱印船貿易を担当せよ」
と命じた。後藤庄三郎と湯浅作兵衛には、
「新しく貨幣の鋳造を命ずる。後藤は金貨を、湯浅は銀貨を担当せよ」
と命じた。長谷川左兵衛には長崎奉行を任命し、
「茶屋と共に朱印船貿易を扱え」
と告げた。こういう人事を見ていると、後世、
「身分制とさらに人の下に人をつくったのは家康だ」
といわれているが、必ずしも正しくはない気がする。身分制が固定化し、さらに人の下に人がつくられるようになるのはもっとあとのことで、あるいは家康が死んでしまったあとのことかも知れない。その辺は幕府の連中が明治維新まで家康のことを、
「神君、神君」
と奉ったので、いいことも悪いこともすべて家康のせいにされてしまったような気もする。少なくとも、この頃の家康はかなり公平で、
「身分を問わず能力のある者は登用する。その知恵を借りる」
という態度をとっていた。そうでなければ、長谷川左兵衛のような商人を長崎奉行という歴とした幕府の要職につけるはずがない。逆にいえば家康は、
「機能主義」
を採っていたのであって、身分にかかわらずある特性を持っていれば、その能力を自分のために十二分に発揮させるというやり方をしていた。これが家康の人事の特性だ。というのは、駿府城に集めたユニークなブレーンたちはそれぞれ特性を持ってはいたが、やはり当時としての一種のランク付けがある。 |
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