童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          大御所家康の策謀

■身分を問わず能力のある者は登用した家康

<本文から>
  四郎次郎に家康は、
「朱印船貿易を担当せよ」
 と命じた。後藤庄三郎と湯浅作兵衛には、
「新しく貨幣の鋳造を命ずる。後藤は金貨を、湯浅は銀貨を担当せよ」
と命じた。長谷川左兵衛には長崎奉行を任命し、
「茶屋と共に朱印船貿易を扱え」
と告げた。こういう人事を見ていると、後世、
「身分制とさらに人の下に人をつくったのは家康だ」
といわれているが、必ずしも正しくはない気がする。身分制が固定化し、さらに人の下に人がつくられるようになるのはもっとあとのことで、あるいは家康が死んでしまったあとのことかも知れない。その辺は幕府の連中が明治維新まで家康のことを、
 「神君、神君」
と奉ったので、いいことも悪いこともすべて家康のせいにされてしまったような気もする。少なくとも、この頃の家康はかなり公平で、
 「身分を問わず能力のある者は登用する。その知恵を借りる」
という態度をとっていた。そうでなければ、長谷川左兵衛のような商人を長崎奉行という歴とした幕府の要職につけるはずがない。逆にいえば家康は、
 「機能主義」
を採っていたのであって、身分にかかわらずある特性を持っていれば、その能力を自分のために十二分に発揮させるというやり方をしていた。これが家康の人事の特性だ。というのは、駿府城に集めたユニークなブレーンたちはそれぞれ特性を持ってはいたが、やはり当時としての一種のランク付けがある。
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■隠居した家康は豊臣家滅亡の悪謀を凝らした

<本文から>
「今後、征夷大将軍職は徳川家の世襲とする」
と宣言してみても、決して政権は安泰ではない。むしろ大きな騒ぎの種子を植えつけたようなものだ。
「いずれ、大坂と一大決戦が行われる」
ということは、いま大名たちの常識になっている。ただ、それがいつだという見通しが立たないだけだ。だから、駿府城にこもった家康には江戸城以上に大名たちの視線が集まっている。つまり、
「大坂との手切れの時期を決めるのは駿府城にいる大御所様だ」
ということになっているからだ。そういう視線を家康もよく知っているから、迂闊には動けない。家康のいまの一挙手一投足は、必ず意味を持つ。その意味では家康の行動は世間の注視の網に引っかかり、がんじがらめになっていた。
 しかし家康はあきらめない。逆にそういう状況下においてこそ、
「豊臣家滅亡の悪謀を凝らす」
ことに悪魔的な悦びを感じていた。家康にすれば、
(それが隠居したおれの最大の目的なのだ)
という気持ちがある。したがって、駿府城に集めた多彩なブレーンの役割は、
 「悪知恵の限りを絞り出すこと」
なのだ。そしてその行き着くところはすべて、
 「豊臣氏を滅亡させる」
ということである。もっと手っ取り早くいえば、大坂械の豊臣氏との間に手切れを宣告し、大合戦を仕掛けることだ。そしてその合戦によって豊臣秀頼の首を取ることなのである。
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■天海の悪智恵「国家安康 君臣豊楽」

<本文から>
「愚僧たちもそう思いよす。鐘の銘文はもっと短く、要点だけを述べればよろしいかと思います」
「しかし、当代切っての名僧清韓穀がお書きになった文だ。余計な注文はつけまい」
 そういいながらも家康は文章の最後の方にじっと視線を注いでいる。天海には家康がどこを気にしているのかよくわかる。というのは片桐且元がこの文案を持ってきたとき、天海が助言して入れさせた文字がいくつかあるからだ。最後の、
 「国家安康、四海に化を施し、万歳に芳を伝ふ。君臣豊楽」
 という十六文字(原文は漢文なので)は天海が入れさせたものなのだ。天海にすれば、
 「全体に、実辞麗句が多すぎて印象が薄い」
と思ったからである。もう少しパンチを効かせなければ駄目だと判断した。そこで思いついたまま国家安康以下の十六文字を入れさせたのだが、片桐且元に渡したあと天海の頭に閃くものがあった。それは、
(この十六文字は、将来問題になる)
という予感であった。その種を自分がまいた。家康は、文章を二人に返した。そして、
「その文案を、秀頼殿の方は鐘に銘として彫り込んだのだな」
と念を押した。二人の憎は領いた。家康は下がってよいという合図をした。下がりかけて天海が、
「大御所様、ちょっとよろしゅうございますか」
 といった。家康は、
「どうぞ」
と領いた。しかし眉を寄せた。天海と崇伝はいつも連れ立って行動し、また額を集めて相談しているから、天海だけが残るということはちょっと意外だったからだ。祭伝も同じことを感じたのだろうか、廊下へ出がけにちらと天海を振り返って眉を寄せた。しかし天海はあくまでも残る姿勢を示していたので崇伝は去った。
「なにか」
 家康が水を向けた。天海は持っていた鐘銘の文案をもう一度家康に示し、
「実を申せば、この十六文字はそれがしの才覚によって清韓殿に進言したものでございます」
「ほう、そんなことをしたのか」
 家康は上目づかいに天海を見た。天海は領いた。家康は天海が示した部分を再読した。しかしそこは家康自身がさっき引っかかった箇所だ。特に、
「国家安康 君臣豊楽」
の八文字は気になる。誰が見ても、
「徳川家康の名を分断し、豊臣家が栄える」
と読める。家康は呆れた。それは天海の悪知恵に対してでもあったが、そういう冒険をあえてする天海の度胸にも驚いたのである。家康はにやりと笑った。そして、
「御坊もなかなかの知恵者だな」
といった。天海は、
「いずれ、この箇所をもって問題といたしましょう」
そう告げた。家康は、
 「うむ。しかし、わしは知らぬよ」
そう告げた。天海はにこりと笑った。
 「もちろんでございます。たとえ憎といえども、この天海も生命を賭しておりますので」
 そういった。家康は領いた。そして、
 「早く戻られた方がよい。崇伝殿が勘繰ると因る」
 「はい」
 家康の言葉に天海も早々に立ち上がった。しかし天海は心の中で、
 (これで、崇伝殿より一歩前に出た)
 と自己の立場の優位確立を手応えとして感じた。それは自分の助言として清韓に挿入させた「国家安康 君臣豊楽」の八文字は、必ず大問題を引き起こすという予感があったからである。それを承知で天海は家康に報告したのだ。
 本当をいえば、家康の名をずたずたに引き裂き、豊臣家が栄えるなどという考えを文字にした張本人が自分なのに、天海はそれに賭けていた。これが大問題となり、豊臣家に対する宣戦布告の口実にでもなれば、家康はそれがもともとは天海が考えたことなどということは問題にしない。逆に褒めてくれるだろう。そういう目算が天海にはあった。しかし廊下を歩きながら天海は、
 (それにしても、わしは知らぬよと仰せられる大御所様も、なかなかの狸殿でいらっしゃる)
 とひとりほくそえんだ。そして、
(もともと駿府城はそういう場所なのだ)
と改めて思った。ここには悪知恵を絞り出す連中が群として集められている。
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■女同士で冬の陣の和睦交渉を進める

<本文から>
「手段はあるか?」
と本多父子や藤堂の方を向いた。藤堂高虎がいったん本多父子の務を見たあと、控えめにこんなことを言い出した。
「城内にはたしか常高院様がおいでだと思いますが」
「おります」
阿茶局が領いた。常高院というのは死んだ京極高次の妻お初のことだ。お初はいわゆる″浅野三姉妹″の真ん中の女性で、淀殿の妹で秀忠の妻お江与の姉になる。かつて豊臣秀吉の勧めによって、近江の名族京極高次の妻になった。
 高次は貴公子然としていて、激動の世の中に機敏に対応できない。早くいえばぐずだ。そのためお初はイライラした。豊臣家に好感を示し、関ケ原の合戦のときも最初は石田三成に味方しょうとした。お初は叱った。
「そんなに、世の先々が見通せないようでは本当に頼りなくて仕方がなりませぬ。徳川殿にお味方しなさい」
と叱咤激励して家康に味方させた。このときの高次は大津城主だった。しばしば城内に撃ち込まれる砲弾の凄まじさに驚いて、高次は逃げ出そうとした。それを励まし叱りつけ、お初はギリギリまで城を保たせた。しかし九月一四日についに降伏してしまった。が、大勝を得た家康は、
 「よくギリギリまで城を支えてくれた」
といって、若狭(福井県)小浜城主にした。やがて高次は死ぬ。忠高という息子がいたが、お初は未が死んだ後尼になり常高院と称して、なぜかその頃大坂城内にいた。やはり長姉の淀殿を頼りにしたのかも知れない。お初にすれば、
 「男はだめだ。女同士の方が頼り甲斐がある」
と感じたのかも知れない。息子の京極忠高は早くから家康に臣従し、いまは今福の陣にあって大坂城への攻撃命令を待っていた。
 家康は、
 「お初殿か・・・」
と腕を組んで空を睨んだ。家康の頭の中に人間の関係図が描かれる。一本は、かなり早くから自分に臣従し駿府城にあってまめまめしく仕えている大野壱岐守治純の線だ。治純の兄は大野治長であり、その母は大蔵卿局だ。大蔵卿局は浅井家時代から淀殿の乳母だった。
 もう一本が今福に陣を置く京極忠高の線だ。母が常高院(お初)であり、常高院の姉が淀殿になる。さらにもう一本の線が秀忠の娘千姫だ。千姫の夫は豊臣秀頼であり、秀頼の生母は淀殿だ。
 いずれの線も淀殿に結びついていく。家康がいま考えているのは、
(どの線が、一番和睦交渉を進めるのに有効か)
ということである。無言で阿茶局を見た。
 阿茶局は家康の気持ちを察してこういった。
「愕りながら、こちら側からはわたくしがお使いをさせていただきましょう。いま藤堂様がおっしゃった、常高院様がお相手になれば幸いかと存じます」
「わかった」
 まさに、あ・うんの呼吸だ。家康は本多父子と藤堂高虎を見ていった。
「城内には織田長益殿と信雄様がおられる。このお二人に話をして、城方の代表を常高院殿になるように仕向けてほしい」
 「かしこまりました」
 本多父子と藤堂高虎も、あ・うんの呼吸で領いた。織田長益は風流人だ。信長の末弟である。信雄は信長の息子だ。信雄は最初豊臣秀吉から、
 「旧北条領を差し上げる」
 といわれたが頑なにこれを拒んだ。そのためその頃持っていた尾張や伊勢の所領も没収されてしまった。
 長益はもともと有楽斎と称するような文化大名だから、あまり合戦などに関心はないし得意でもない。茶をたてて暮らしていた。晩年の豊臣秀吉に招かれて大坂城内で悠々と暮らしていた。おそらく、
 (太閤殿がもう少し長く生きておられれば、さらに余生を楽しめたものを)
 と思っているに違いない。こうした慌ただしい状況になると、身の置き場がなくなってまごまごする。したがってその不安定な心を突いて、この話を持ちかければ必ず役に立ってくれるだろうというのが家康の計算だった。
 「こちらの希望どおり、大坂方の代表が常高院殿になった暁に、交渉の場をどこにする?」
家康が聞いた。阿茶局が間髪を入れずに答えた。
 「どこでも構いませぬ。たとえ城内であってもわたくしは出掛けてまいります」
家康は黙って阿茶局の顔を見た。随分前だが阿茶局が、
 「大御所様のためにお役に立つことがございましたら、たとえ女の身でも命を捨てて尽くします」
 といったことがある。
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■家康は過程に全力を注ぐが結果には執着を持たない

<本文から>
「わしは馬上天下を取った。しかし治国は馬から降りて行う」
 と、
「治国平天下」
 の理想をはっきり掲げた。
一連の手続きを終わった後、家康は本多正信にいった。
「おい、これでおれの役割は終わったぞ」
「ご苦労様でございました。あとはゆっくりお休みになることだけですな」
「そうだ。わしも早くそうしたい」
 二人の老人は笑った。
 元和二(一六一六)年四月十四日に家康は死ぬ。七十四歳であった。
 このとき本多正信は殉死しなかった。周りで答める者がいた。ところが正信はこう答えた。
 「おれは、とっくに死んでいる」
 生きた骸としての日々を送った正信は、その年の六月七日に死ぬ。七十九歳だった。
 正信にすれば、まさに家康が死んだ四月の日に、この世におけるおのれは完全に消滅していた。したがって、わざわざ腹を切る必要はなかった。動乱の世とはいえ、凄まじい君臣の仲だったといっていい。
 興味深いことは、京都の方広寺の鐘銘だ。「大坂の陣」の口実になりながらも、家康の一面大雑把な性格がそうさせたので、鐘はついに破壊されることはなかった。現在も「国家安康 君臣豊楽」の八文字をきちんと刻みつけたまま健在だ。朝鮮との国交回復のときもそうだったが、家康にはこういうおおらかさがあった。つまりかれは、
 「成し遂げる過程には全身全霊を注ぐが、結果に対してはあまり執着を持たない」
 ということだ。したがって、「大坂の陣」でも第一次(冬の陣)において、本丸だけを残して裸城にするという和睦条件を勝ち取ったときに、家康の願望のほとんどが燃焼し尽くしていた。
 したがって夏の陣は、その延長線における締めくくりであって、今度はかれ自らが総指揮をとって、攻撃の先頭に立つことはなかった。それこそ、
 「熟した柿が落ちてくるのを黙って待つ」
ということであった。御所柿はついに落ちても木下の拾うところとはならなかった。拾ったのは落とし主の徳川家自身であった。
この落首を思い出して、豊臣秀頼とその母淀殿の自決を知った夜、家康は一人でコトコトと笑った。一気に疲れが出た。家康は、虚空の秀吉に告げた。
「秀吉よ、天下というものはな、大きな事件だけで動くものではない。個人の小さなこだわりが世の中を動かすこともあるのだ。豊臣家が滅びたのは、あの日の聚楽第でのきさまの傲慢さにあるのだ。思い知ったか・・・」
 告げ終わると、
(どれ、自分でつくった薬を飲んで疲れを癒そう)
 と呟いた。
▲UP

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