童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          鬼作左-組織を育てる"頑固者"の研究

■慕われたオニ作左

<本文から>
  家康が合戦のときに、部下が一緒に供をする。負けても勝っても帰ってきたときに、本多作左衛門は泥まみれ、血まみれのまま、馬を走らせ城下町をひとまわりする。大声で怒鳴る。
 「家にいる、かか(女房)や子供たちよ、歩けるのならとしよりたちも外へ出てこい。おまえたちの亭主が戻ってきた。温かく迎えてやれ!」
 そう告げる。たちまち家のなかからバラバラと家人がとび出してくる。そして、疲れて戻ってくる自分の亭主や息子をみつけると、走りすがって、
 「よかった、よかった」
 と、その腕をさする。そんなとき、本多作左衛門は町の片隅に立って、家族再会の涙にくれる光景をじつと眺めている。そして、その本多作左衛門の目にも、大粒の涙が溢れころがり落ちていた。そんなことを知っているから、本多作左衛門がいくら票を起こし怒鳴っても、町の人びとは作左衛門を慕った。
「作左衛門さまの短気は、われわれのことを心配してくださっているのだ」
と思った。つまり、本多作左衛門は、
「怒っているのではなく、叱っているのだ」
 と思えた。怒ると叱るは違う。怒るというのは、
「自分の感情をむき出しにして、憎悪の念を相手に叩きつける」
ということだ。反対に叱るというのは、
「相手が可愛いから、なんとかしてその可能性を引き出してやろうと思って憎まれ口を叩くのだ」
ということである。町の人びとは、この区別を知っていた。だから作左衛門がいくらオニのようになって怒鳴りまくろうと、
 「作左衛門さまは、私たちが好きなのだ」
と思った。
そうなると、やはり三人の奉行のなかでも、
 「作左衛門さまが一番いい」
ということになる。このことは、やがてほかの奉行である高力清長や天野康景の知るところとなった。三人集まると、よくこの話が出た。そして、高カと天野は、
 「とても作左にはかなわない。こいつは人気者だ」
と笑い合った。
 このごろでは、作左衛門が高札に書いた、
 「守らぬと、作左が怒るぞ」
という一語が流行語になった。かまどを吹く女房も、薪がなかなか燃えないとこう怒鳴る。
 「早く燃えぬと、作左衛門殿が怒るぞ」
途端、火はパッと燃えあがり、炎をメラメラと立てる。女房はニンマリ笑う。そして、
 「作左衛門さまのお言葉は、実にあらたかだ」
とよろこぶ。
 こういう話は当然家康の耳にも入る。家康はニコニコ笑った。そして心のなかで、
 (おれの組み合わせもまんざらではない。三人三様に、それぞれいいところを出して民のことを考えている)
 と安心した。

■天野の一件で家康は人を失い、作左衛門は友を失った

<本文から>
作左衛門は、
 「天野殿は、ご自身のお考えによってこの岡崎を去った。ご本人の意志を重んずるべきだろう。だからといっておまえたちが天野殿に殉ずることはない。天野殿はもともとは、おまえたちの誰かが家康さまのご家来を斬り殺した罪を背負って、遠くへいかれたのだ。そっとしておくほうがいい」
そう告げた。
 本多正信がきたら、こうはいかなかった。みんなはしだいに頭を冷やし、鎮静した。
 作左衛門が帰るころは、
 「家康さまに、よろしくお執りなしをお願いいたします。わたしは、お城に勤めたいと思います」
と申し出る者が大部分だった。なかには、
 「もうつくづく勤めがいやになりました。生家へ戻って、農業の手伝いをします」
という者もいた。作左衛門はうなずいた。
 「無理強いはしない。それぞれ好きにするがいい。ただし、何度も繰り返すがおまえたちの罪は問われない。全部忘れろ」
そういった。
 城に戻った作左衛門は、このことを家康に報告した。家康は、
 「そうか」
とうなずいた。そして、
 「康景のゆくえは知れないか?」
ときいた。これをきくと作左衛門はキッとなって家康を睨みつけた。そしてこういった。
 「あなたは人を失い、わたしは友を失いました」
 「…」
作左衛門の顔をみかえし、作左衛門のことばを頭のなかで反袈していた家康は、やがてうなだれた。そして、
 「そのとおりだ」
と重くつぶやいた。作左衛門がいったのは、
「徳川家康ともあろう人が、あれだけ人を用いるのにいろいろ心遣いをした方が、なぜ天野康景のような忠臣を逐電させたのですか?あなたにとってもっとも忠義な武士が去り、お陰でわたしは一番大事な友人を失ってしまいました」
 ということであった。

■大政所と旭姫の人質を薪で脅し家康を守る

<本文から>
「留守を頼む」
 「わかりました」
徳川家康はわずかな供を連れて西へ向かった。本多作左衛門は、秀吉の妹旭姫と、母である大政所が住んでいる居館にいった。そして、大勢の部下に命じた。
 「この居館のまわりに、薪を積み上げろ」
 「は?」
 部下たちはびっくりした。作左衛門は恐ろしい表情をして、
 「いいからいわれたとおり薪を積め!」
と怒鳴りつけた。部下たちは慌てて薪を取りに走った。
 居館の外が騒がしいので、障子が開けて旭姫と大政所が顔を出した。居館のまわりにどんどん薪が積み上げられている。大政所が指揮をとっている本多作左衛門にきいた。
 「本多殿、これは何のまねですか?」
 「ご覧のとおりです。薪を積んでおります」
 「なんのためですか?」
 「主人徳川家康は、ただいまあなたのご子息豊臣秀吉公のところにあいさつに参りました。しかし、いままでのいきさつからみて、油断はなりません。もしも主人家康に何かあったときは、この薪に火をつけます」
 「え−」
 大政所と池姫は思わず顔をみあわせ、ウソーというような顔をした。しかし本多作左衛門は真面目な顔でふたりを睨みつけている。目の底が爛々と燃えていて、
 (女ども、おまえの息子であり兄である秀吉のやつが、家康公にヘタに手を出すようなことをしたら、必ず薪に火をつけ、おまえたちふたり焼き殺してやるぞ!)
 という意志がありありとみえた。大政所は、若いときから苦労してきているので胆力がある。度胸がいい。が、このときだけは思わずふるえあがり、顔を真っ青にした。そして、
 「本多という武士は、まったくオニのような人間だ」
 とつぶやいた。

■駿府城を秀吉に明け渡さない作左衛門は家康の気持ちがわかなかった

<本文から>
したがって秀吉が、本多作左衛門が今度駿河城を明け渡さなかったことに対して怒っているのではない。むしろ、
 「おれの母親をひどい目にあわせた。震え上がらせた」
 という過去の行為に対して憤っているのだ。これが、駿河城明け渡しを拒まれて、二重に倍加した。そのために秀吉もついに、家康に対し、
 「本多作左衛門は無礼な男だ」
と告げざるを得なかったのである。
 家康は弱った。心のなかで思わず、
 家康の気持ちとは違う。家康なら、
 「どうぞお使いください」
 といって、潔く城を明け渡し、自分はさっさとどこかの寺か何かに居を移したことだろう。本多作左衛門はそうしなかった。
 「自分は家康さまの家臣だ。豊臣秀吉公の家臣ではない。したがって家康公の命令がない限り、城を明け渡すわけにはいかない」
 と突っ張った。作左衛門にすれば、当たり前の論理だ。しかしこれではいかにも、
 「情勢をみきわめる視野の狭さ」
を指摘される。つまり家康からみれば、
 「作左衛門はおれの立場に立ってものを考えていない」
ということになる。もしも作左衛門に、
 「もし駿府城主が家康さまであれば、どうなさっただろう」
と考える柔軟性があれば、当然選択肢をいくつか考え出すはずだ。いきなり何の考えもせずに、イヌのように条件反射して、
 「いや、城は明け渡さない」
などと拒否するようなことはなかっただろう。
 (そこがあいつの欠点なのだ)
と家康は思う。そしてさらに、
(作左衛門だけではない。あいつと同じ考え方をする古い三河武士がたくさんいる)
と思う。そこで家康もやむを得ず、
 「そろそろトカゲのシッポ切りをせざるを得まい」
と決断した。家康はすぐ使いに詫びを入れ、自分の部下を駿府城に急派した。そして作左衛門に、
 「城からただちに退去し、関白殿下に明け渡せ」
と命じた。作左衛門は舌打ちをしながら城から退去した。そして、
 (家康さまも、そこまで卑屈になられたか)
と家康にも怒りの炎を燃やした。秀吉は駿府城に入ったが、気分がよくない。家康は再び長久保を経てすぐ駿府城にいった。そして秀吉に謁見した。秀吉は、
 「徳川殿、北条のほうはいかがですか?」
ときいた。家康は、
 「思うようにまいりません。このうえは殿下の思いのままに、小田原城をご攻略あってしかるべきと存じます」
といった。秀吉は、
 「わかりました。そうしましょう」
とうなずいた。そしてこのとき、
 「徳川殿」
と、宙で手を振りながら家康を間近なところに招いた。
 「はい」
近づいた家康に、秀吉はこうささやいた。
「本多作左衛門重次を、しばらくお遠ざけになってはいかがかな」
家康には秀吉の意図がよくわかった。駿府城を明け渡したとはいっても、その前に作左衛門は徹底的に抵抗している。秀吉が不快な気持ちを持ちつづけていることはよくわかった。家康は秀吉をみかえし、静かにうなずいた。
 「わかりました。しかるべく処置をいたします」
 「なにぶんにも、かつて岡崎城内においてわたしの母親と妹を震え上がらせた作左衛門だ。このたびも、素直にはこの城を明け渡さなかった。いつまでも、あのように我意を張らせておいては、この関白の威信にもかかわる。そのへんをよしなにご推察を」
 「よくわかっております。誠に申し訳ないしだいでございました」
 家康は謝った。
 豊臣秀吉が、家康の特定な部下を名ざしで、
 「処罰せよ」
といい出すのはよくよくのことだ。家康は、
 (これはきき捨てにはできない)
と思った。その場だけ、
 「はい、かしこまりました」
と応じて、その後は知らぬ顔の半兵衛を決め込むということはこの場合絶対にできないのだと自覚した。

■作左衛門の忠義一途の頑固さが不忠になった

<本文から>
「このたびの殿のご移封は、本多作左衛門の奴が原因なのだ」
 「あいつが頑固にがんばって、駿府城を明け渡さなかったから関白殿下がお怒りになったのだ」
という噂が立っているのを作左衛門も耳にしていた。
 「おい、本多よ、噂は本当か?」
ときく野次馬に対して作左衛門は怒った。
 「ばかな、そんなはずはない」
と言い返した。作左衛門が、
 「そんなはずはない」
というのは、
 「たとえ関白殿下がそんなことを指示したとしても、うちの殿様は絶対に受けるはずがない」
と信じていたからである。作左衛門にすれば、
 「家康公に限って、おれにそんな非情な真似をするはずがない」
 と思い込んでいた。が、作左衛門も半分は、
 「いつ呼び出しがくるかわからない」
と戦々恐々としていたことは事実である。作左衛門も馬鹿ではない。心の一部では、
 (殿が江戸城などという寂しいところへ移されるのも、おれが原因なのかもしれない)
とは思っていた。思い返してみれば、岡崎城でのやり方は確かに度が過ぎた。本多作左衛門ははじめて、
 「おれの頑固さは、忠義一途だと思ってきた。しかし、いまは頑固さは逆に不忠になる」
と悟った。が、割り切れないものがある。というのは、
 「そんな風に、忠と不忠の価値が逆転してしまったのも、時代のせいだ」
と思うからである。ときの流れがどんどん変わっている。作左衛門はその流れに追いつくことができなかった。
 ついに家康から呼び出しがきた。そして、どこだかわからない上総の古井戸へ行けという。
 三千石というのは、いままでかれがもらっていた石高からすればかなりの減額だ。当然いまでいう、
 「完全な左遷」
である。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ