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<本文から>
家康が合戦のときに、部下が一緒に供をする。負けても勝っても帰ってきたときに、本多作左衛門は泥まみれ、血まみれのまま、馬を走らせ城下町をひとまわりする。大声で怒鳴る。
「家にいる、かか(女房)や子供たちよ、歩けるのならとしよりたちも外へ出てこい。おまえたちの亭主が戻ってきた。温かく迎えてやれ!」
そう告げる。たちまち家のなかからバラバラと家人がとび出してくる。そして、疲れて戻ってくる自分の亭主や息子をみつけると、走りすがって、
「よかった、よかった」
と、その腕をさする。そんなとき、本多作左衛門は町の片隅に立って、家族再会の涙にくれる光景をじつと眺めている。そして、その本多作左衛門の目にも、大粒の涙が溢れころがり落ちていた。そんなことを知っているから、本多作左衛門がいくら票を起こし怒鳴っても、町の人びとは作左衛門を慕った。
「作左衛門さまの短気は、われわれのことを心配してくださっているのだ」
と思った。つまり、本多作左衛門は、
「怒っているのではなく、叱っているのだ」
と思えた。怒ると叱るは違う。怒るというのは、
「自分の感情をむき出しにして、憎悪の念を相手に叩きつける」
ということだ。反対に叱るというのは、
「相手が可愛いから、なんとかしてその可能性を引き出してやろうと思って憎まれ口を叩くのだ」
ということである。町の人びとは、この区別を知っていた。だから作左衛門がいくらオニのようになって怒鳴りまくろうと、
「作左衛門さまは、私たちが好きなのだ」
と思った。
そうなると、やはり三人の奉行のなかでも、
「作左衛門さまが一番いい」
ということになる。このことは、やがてほかの奉行である高力清長や天野康景の知るところとなった。三人集まると、よくこの話が出た。そして、高カと天野は、
「とても作左にはかなわない。こいつは人気者だ」
と笑い合った。
このごろでは、作左衛門が高札に書いた、
「守らぬと、作左が怒るぞ」
という一語が流行語になった。かまどを吹く女房も、薪がなかなか燃えないとこう怒鳴る。
「早く燃えぬと、作左衛門殿が怒るぞ」
途端、火はパッと燃えあがり、炎をメラメラと立てる。女房はニンマリ笑う。そして、
「作左衛門さまのお言葉は、実にあらたかだ」
とよろこぶ。
こういう話は当然家康の耳にも入る。家康はニコニコ笑った。そして心のなかで、
(おれの組み合わせもまんざらではない。三人三様に、それぞれいいところを出して民のことを考えている)
と安心した。 |
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