童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
                  沖田総司

■浪士隊参加

<本文から>
 永倉新八がききこんできた噂が試衛館一門の、というより沖田宗次郎のその後の運命を一変させてしまったからである。永倉がききこんできた噂というのは、
「幕府が尊壊浪士隊を募集している」
 ということであった。しかもその責任者には、牛込二合半坂に住む旗本松平上総介という男がなって、毎日、希望者に面接しているという話である。
 近藤勇の講武所指南役失格の話がそれほど漏れたわけではあるまいが、あれ以来、どうも道場はパッとしない。多摩河畔の農民門人たちの態度も、心なしか変わったような気がする。ひがみだろうか。
「どうするか……」
 試衛館一門は、永倉の話にひじょうな魅力を感じて腕をくんだ。最後までロをきかなかった土方歳三が、近藤と沖田に、
「ちょっと話がある」
 と別室へ誘った。
「何だ」
 とけげんな表情をする近藤に、土方は、
「浪士隊にはいろう」
 とはっきりいった。何かいいかける近藤をおさえて、
「近藤さん、おめえさんが講武所の指南役になれなかった理由はかんたんだ、おめえさんが百姓の子だからよ。人材登用だ、野の遺警出でよ、なんぞといってみたところで、そんなことは実のねえお題目さ。所詮、百姓の子は百姓さ。だがな、それは江戸のことで、おれは京都はすこし事情がちがうような気がする。というのは、いま、日本の政治は江戸のことで、おれは京都はすこし事情がちがうような気がする。というのは、いま、日本の政治は江戸で回っているンじゃねえ、京都で回ってるンだ。政治の渦の中にとびこめば、侍も百姓もねえ。そんな気がする。幕府が募集している浪士隊というには、おれは何かうさんくせえものを感じてしかたがねえが、とにかく京都へ行こうじやねえか。うまくいえねえが、何かおれたちがやれることのきっかけがこの京都行きにはあるような気がする・・・」

■新撰組の人事と局中法度

<本文から>
しごとの話にはまったくのらなかった芹沢も、人事の話になるとすぐとびついてきて、
「隊長にはおれがなる」
といった。
「そんなばかな。隊長は近藤先生だ」
と試衛館側が怒ると、
「それではおれも近藤君も隊長だ。そうだ、新見君も隊長にしよう」
と芹沢は酔ったいきおいで、どんどんかってにきめてしまう。
「隊長が三人もいるヘツな隊があるか!」
 と試衛館員はぶつぶついうが、どういうわけか近藤勇は、
「まあ、いいじゃねえか」
となだめる。近藤は本庄宿事件以来、けっして芹沢への恨みを忘れてはいない。いずれカタをつける気でいる。それまでは、形式なんぞどうでもいいという腹だ。結局、
 局長 芹沢鴨 近藤勇 新見錦
 副長 山南敬助 土方歳三
 という人事がきまり、残りの沖田、永倉、原田、藤堂、井上、平山、野口、平間の八人はそれぞれ「副長助勤」という幹部になった。十三人すべてが幹部職についたわけだ。
 隊則は「局中法度」と称して、
 一、士道にそむくまじきこと
 一、局を脱するをゆるさず
 一、勝手に金策をいたすべからず
 一、勝手に訴訟を取り扱うべからず
 一、私の闘争をゆるさず
の五か条をきめた。そして、この五か条のどのひとうにそむいても、
 「切腹申しつくべく候也」
と規定した。法度は順に、
 一、侍らしく行動しろ
 一、脱走するな
 一、借金するな
 一、裁判するな
 一、私闘するな
という意味だ。新しく生まれた組織を守っていくのに当然必要なものだが、それにしても、これにそむくと処罰はひとつ、すべて切腹というのはきびしい。しかし、芹沢は、
「きびしくない!尽忠の士がこのくらいの掟を守れないでどうする!」
と豪語する。芹沢派自体この掟でやがて処断されることになるのを、このころはまだ知らない。局中の局とは、役所とか組織とかいう意味で、現代の役所その他にもそのまま名称が残っている。

■総司は子供たちの人気者

<本文から>
壬生寺は境内が広いので、こどもたちのいい遊び場だった。入れかわり立ちかわり、たくさんのこどもがいた。背中に幼児をくくりつけた子守もいた。
 そこでは沖田総司は人気ものだった。若くて背が高くて、目がやさしい総司は、自分がそうしなくても、自然にこどもたちに慕われた。
 こどもたちには、自分の生まれ故郷の多摩川の話をしたし、子守には自分の生い立ちの話をした。
 「おれは九つのときに父親に死なれ、十九のときに母親に死なれたよ。こどものときから剣術の道場の内弟子に出されてね。内弟子といってもお礼が払えないから小僧と同じさ。めしたき、風呂たき、洗いもの、便所掃除、何でもやったよ。冬なんか手が冷たくてね、ヒビやアカギレで手の甲がよく割れたものだよ・・・」
 そういう話をすると、子守の娘たちはすぐ涙ぐんだ。沖田がそういう経験をしてきたことがかわいそうなのと同時に、沖田が話していることは、子守の娘たちがいま経験していることであった。だから沖田が最後に、
 「・・・貧しさというのはつらいなあ」
 とつけ加えると、娘たちはもうがまんができなくなって、ぽろぽろ涙のつぶを落としながら泣きだしてしまう。
 しかし、そういう話をしても、沖田はけっして近藤周斎の妻にいじめられた話はしなかった。すぎたことである。周斎の妻は誤解をしていたのだ。江戸から遠くはなれた京都へきて、周斉の妻の悪口をいうのはいやだった。子守の娘たちも、沖田が自分の苦労をひけらかしているのではなく、逆に子守の娘たちのいまの苦労をいたわっているのだというようにうけとめた。だから泣きだすのだ。沖田のやさしさが身にしみるのである

■新撰組は志士のテロの弾圧をしたが人斬りと言われる

<本文から>
 それを長州側は、いまのことばでいうならば、
「幕府はすでに当事者能力なし」
 ときめつけ、真木和泉はさらに、
「そんな能力のない幕府はつぶしてしまえ」
という強硬策を主張している。
 ”討幕”という考えが表面化したのは、これがはじめてかもしれない。”倒幕″という思想はつねにあったが、天皇を推戴して武力で幕府をつぶそうという大胆な計画はなかった。近藤たちが、この考えにひっかかるのは、この考えを成り立たせている背景が、すべて志士と呼ばれる連中のテロ行為によって支えられていたからだ。
 「反対するものは殺す」
 という極端な言論弾圧行動を、志士側が毎日のようにくりかえしたからだ。はやくいえば、近藤たちの見るところ、真木和泉たちが強いことをいっているのも、背後にそういう暴力があるからだ。
 「あれを何とかしなければならねえ」
 近藤は大きな口をむすんでよくそういった。あれというのは志士の暴力行為だ。
 近藤たち浪士隊は、のちにこのテロを弾圧することにカを入れすぎ、近藤たち自体も、
 「壬生の狼」
 とか、
 「人斬り」
 とかいわれるようになってしまうが、はじめから近藤たちは公武合体論者で、その意味では平和路線論者だった。
 沖田総司は政治論が苦手だった。かれはふたつのことを心の底に据えていた。ひとつは、
 (どんなことでも、近藤先生のいうことには従う)
 ということであり、もうひとつは、
 (おれはどうせ長くは生きられない。だから、世の中のためにならないやつは、なるべく多くあの世の道連れにする)
 ということであった。
 総司は剣を持つと、ふしぎに体内にこみあげてくる”魔性”を経験していた。その魔性は人を殺したくなるそれではないか、と総司は、寝たあと闇の中で考えた。考えて苦しんだ。しかし、いまは、
 (そうではない)
 と信じていた。
 (おれが人を斬るときは、きっと相手が世の中のためにならないやつだということを、地獄のエンマが本能的におれに教えているのだ…)
 かってな理屈であって、殺される側はたまったものではないが、総司はそう思っていた。

■新撰組が政治に巻き込まれる、総司はついていけない

<本文から>
京都にいる幕府出張勢力から見れば、こういう状況の軒では大坂は長州の延長線上にある拠点だ。長州の最前線である。これをほうっておけば、京都は侵略されてしまう。大坂を守ることは京都を守ることになる。
 「なるほどな」
 守護職からの話をうけた近藤勇は、感心したようにうなずいた。
 「時代はうごいている。思わぬことがつぎつぎと起こる」
  そういう感想だ
政局はたしかに京でまわっている。しかし、京だけでまわっているのではない。京は政治の核だ。核は拡散作用を起こす。そのひろがりの最大の場所が大坂だ。
 「なるほどな・・・」
近藤はくりかえす。江戸では想像もしなかった政治という無気味なものが持つ運動法則がひろげていく局面に、いまさらながらおどろいたのだ。
「山南の言いぐさじやないが、新撰組もこれからは政治の勉強もしなければだめだな」
 近藤はそういった。そして、
「どこでもいい、新撰組は出動する」
といった。
 沖田総司にとってすこしずつ、ついていけない状次がはじまっていた。状況のものが理解できないのではない。状況の質がしだいに複雑になってきたのだ。いま流にいえば、政略・政争がはげしくなり、謀略戦争に全体が突入しはじめているのだが、多摩川のほとりで純粋な育ちかたをした総司にはわからない。わからないというより、わかることを拒みたい。

■池田屋事件で市民から罵声を浴びる

<本文から>
あの日の激闘で、新撰組は七人の志士を殺し、二十三人の志士を捕らえた。大戦果であった。三十人の人数で三十人の志士を全部やっつけてしまったのだ。
 しかし、暗い勝利であった。あのとき、大量の血を吐いて昏倒した沖田総司は、しばらく経って起き上がったが、そのときは夜が明けていた。周囲は表、血の海である。斬った志士たちの指や髪があちこちに落ちている。死体は三条大橋の向こう側の三縁寺に葬ったという。
 総司が気がついたので安心した近藤は、昼ちかくなって、
 「ひきあげよう」
といった。
 二列にならんで河原町三条の通りに出、壬生の屯所に向かって歩きだした新撰組を、京都の市民はけっして賛嘆の目では見なかった。あるのは恐れと怒りと、そして蔑みの目であった。やがて市民の間から、
 「・・・壬生の人斬り」
 とか、
 「人殺しの新撰組」
 「壬生の狼…」
 などというささやきが漏れた。それはしだいにつぶやきから声に変わり、突然、
 「新撰組、京から出ていけ」
 という罵声に変わった。
 「おまえらのおかげで祇園祭りが台なしや!」
 と叫ぶ市民もいた。年に一度の民衆行事祇園祭りを、血でめちゃめちゃにしたのだ。そういう怒りが市民たちにあった。
 はじめからほめられようとも思わない。英雄になろうとも思わない。しかし、この市民の罵声は痛かった。

■新撰組は負けることを承知で滅びのスピードを遅らせた珍しい集団

<本文から>
事実、新撰組の絶頂期は池田屋事変であり、以後は徳川幕府の衰退とともに新撰組も衰退していく。しかし、新撰組の衰退ぶりはいっきょに崩れてしまうのではなく、すこしずつじりじりと滅びていった。それは、滅びるときの節目、節目を、隊のすべての人間が必死に守り、支えたからだ。つまり滅びのスピードをおそくしたのだ。こんな集団もめずらしい。負けることを承知で、新撰組はその敗ける速度を一秒もおくらせようと努力したのである。

■山南切腹後に血の粛清が進む、総司はそれぞれの役目と思うようにする

<本文から>
沖田総司は埋葬がすんだあと、ひとりで山南の墓の前に立って語りかけた。
「山南さん、私は悲しみませんよ。いつかいったでしょう? 新撰組は滅びの道を歩いているのだって。そして幹部や隊士のひとりひとりが、その役割に応じて滅びの速さに歯どめをしていくのだって。山南さんもそうなのです。山南さんは脱走して切腹することが役割だったのですよ。今日までは、土方さんのいうことにすべて反対しながらね。山南さん、ゆっくりおやすみなさい、もう疲れることは何もありませんもの・・・」
 総司の山南に対する鎮魂歌であった。ことばでは一見非情なことをいいながら、総司の頼にはふたすじの水の糸が流れていた。涙はいつまでもいつまでもつづいた。
 そして − 総司のいうとおり、山南の死によって新撰組内における良識的タガがはずれた。近藤・土方ラインは局中法度をタテに、つぎつぜと違背隊士を処断した。血の粛清で新撰組の結束は保たれていた。結束の底流は″恐怖″であった。総司も、そういう隊士の切腹の介錯をした。斬首もした。暗殺もした。しかし、総司はそのつど、隊士に心の中で、
(今日で、滅びの道をたどるきみの役目は終わった。さようなら)
 と惜別の辞をのべた。

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