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<本文から>
「どのように伝えるか」
というようないわゆるレトリック(修辞法)にはいっさい意を用いない。こちらが正しいと思えば、感情をむき出しにして相手に言葉をたたきつける。その調子は常に激しい。相手の方は、小栗上野介のこういう態度に接すると、
「何をいっているか」
という内容には目を向けない。それよりも、
「今、この男にどのように扱われているか」
という自分の立場の方にエネルギーを注ぐ。
「大勢の人の前で、恥をかかされている。この男は、相手をどれほど傷つけたかまったく考えない」
というような思いで、頭の中をうず巻かせる。そうなると小栗の方は、
「こいつは、オレのいうことをきちんときいていない」
と思っていよいよいきりたつ。つまり、怒る小栗と怒られる相手の感情の差が、相乗効果を起こして、事態をいよいよ悪化させるのだ。こういうくり返しを、小栗上野介は今までどれほどくり返したかわからない。小栗もバカではない。人間的感情はある。
「自分の激しい言葉が、相手をどれほど傷つけたか」
ということは充分に知り尽くしている。そのためにかれにしても、夜寝所に入った後も眠れずに、
(オレはいい過ぎたのではないか)
と反省し、
(あいつもさぞかし眠れずにくやしがっていることだろう)
と考える。そう考えると、たまらない自己嫌悪が込みあげてきて眠れない。七転八倒する。脇に寝ている妻の道子はハッと起き上がり、
「あなた、どうなさいましたか」
と開の中で尋ねることもある。そのたびに小乗は、
「いや、なんでもない。悪い夢をみたようだ」
とごまかす。夢ではない。今日起こったことが、生のかたちでかれの神経を鋭く突き刺しているのだ。そういう経験を小栗は、数限りなく経てきた。しかしそのたぴに、
「今は、こんな感情に溺れている時ではない。もっと大事なことがある」
と自らを励まし、かれを襲ってやまない反省や自己嫌悪の念を、強引にねじ伏せてきた。 |
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