童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説小栗上野介

■激しい言葉で相手を傷つけて自己嫌悪に陥る

<本文から>
 「どのように伝えるか」
というようないわゆるレトリック(修辞法)にはいっさい意を用いない。こちらが正しいと思えば、感情をむき出しにして相手に言葉をたたきつける。その調子は常に激しい。相手の方は、小栗上野介のこういう態度に接すると、
 「何をいっているか」
 という内容には目を向けない。それよりも、
 「今、この男にどのように扱われているか」
 という自分の立場の方にエネルギーを注ぐ。
 「大勢の人の前で、恥をかかされている。この男は、相手をどれほど傷つけたかまったく考えない」
 というような思いで、頭の中をうず巻かせる。そうなると小栗の方は、
 「こいつは、オレのいうことをきちんときいていない」
 と思っていよいよいきりたつ。つまり、怒る小栗と怒られる相手の感情の差が、相乗効果を起こして、事態をいよいよ悪化させるのだ。こういうくり返しを、小栗上野介は今までどれほどくり返したかわからない。小栗もバカではない。人間的感情はある。
 「自分の激しい言葉が、相手をどれほど傷つけたか」
 ということは充分に知り尽くしている。そのためにかれにしても、夜寝所に入った後も眠れずに、
(オレはいい過ぎたのではないか)
 と反省し、 
(あいつもさぞかし眠れずにくやしがっていることだろう)
 と考える。そう考えると、たまらない自己嫌悪が込みあげてきて眠れない。七転八倒する。脇に寝ている妻の道子はハッと起き上がり、
「あなた、どうなさいましたか」
 と開の中で尋ねることもある。そのたびに小乗は、
「いや、なんでもない。悪い夢をみたようだ」
 とごまかす。夢ではない。今日起こったことが、生のかたちでかれの神経を鋭く突き刺しているのだ。そういう経験を小栗は、数限りなく経てきた。しかしそのたぴに、
「今は、こんな感情に溺れている時ではない。もっと大事なことがある」
 と自らを励まし、かれを襲ってやまない反省や自己嫌悪の念を、強引にねじ伏せてきた。

■日本人ではじめてノーをいった日本人

<本文から>
「だってそうでしょう。そんな切れっぱしを比較しても、本当の含有量はわかりません。実際に日本で使われているこの貨幣を、アメリカ側が今おつくりになった金貨や銀貨とを丸ごと比較しなければ、実際の含有量はわかりません。こんな削りくずでは比較するのはまっぴらです」
といった。アメリカの役人は目を丸くした。つまり小栗上野介は、この時日本人としてはじめて
「ノー」
といったからだ。呆れて小栗の顔を凝視したていた役人は、しかし笑いだした。そして大きくうなずいた。
「気にいった。あなたは立派だ。アメリカに渡ってきた日本人で、はじめてノーといった人だ」
 そういうと、かれはそれまでとはうってかわった態度をとりはじめた。言葉通り、小栗上野介に感動したのである。つまり、
「この日本人は、絶対にごまかせない」
と感じたのだ。
 この時にも、
「アメリカに渡った日本人の態度」
を細かく記したジョンストン中尉が同行していた。
 ジョンストン中尉は、
「アメリカ側では、最初理屈でオグリを説得しようとした。ところがオグリは納得していない。あくまでも自説を主張した。その態度は、実に勇気を持って堂々と自分の主張を貫いた。アメリカ役人の言葉の多い理屈に決して屈服しなかった」
と褒め称えて書いている。しかしアメリカ側としても、これは単純な試験や比較ではなくなる。つまり、
「科学的な分析」
が必要になる。そこでアメリカ役人は
「おっしゃることはよくわかるが、この分析をおこなうのは相当な時間がかかります。いいですか」
と念を押した。小栗は、
「当然です。どんな時間がかっても、正しい分析をしていただきた」
と申し入れた。
 小栗にしても、これですぐ、
「不平等条約の改正」
が行われるとは思っていない。第一、今回の使節団はハリス総領事と結んだ通商条約の批准にやってきたのであって、そんな時に押しかぶせるようにして、
「この条約は不平等だから、すぐ改正していただきた」
と申し入れるのは、いかに何でも度が過ぎる。そんなことは小栗も充分知っていた。しかし、
「日本側にも、この条約がすでに不平等であることを知っている人間がいるということを、はっきり認識してくればしれでいいのだ。その認識をもとに、今度条約改正に努力したい」
ということだ。条約改正の前段の手続きとして、
「互いの貨幣に含まれている金や銀の含有量の分析」
を、はっきりアメリカ側に印象づけようとしたのである。この試みは成功した。アメリカ側では
「オグリブンゴ(小栗豊後守の意味。この時の小栗の官名。かれが上野介を名のるのは文久二年六月、勘定奉行を命じられた時からである。しかし煩わしいので、この小説ではずっと上野介で通す)は、油断ができない鋭い日本人だ」
とあらためてかれの評価を高くした。

■上役の板倉によって能力発揮

<本文から>
そして内閣改造のなかで、小栗上野介に再び新しい役がまわってきた。
 文久二(一入六二)年三月に、小栗は新しく、
「御小姓組番頭」
 に任命された。
 しかしその職にあったのはわずか二カ月のことで、第十四代将軍徳川家茂の「軍制改革」の意により小栗は、
 「御軍制御用取詞」
 職に任命された。きらに、六月五日には、
 「勘定奉行」
 に任ぜられた。
 小栗が、「上野介」となるのは、この時からである。しかし、この小説では煩わしいので、終始「上野介」で通してきた。
 いよいよ小栗上野介が本領を発揮する機会がやってきた。しかしいまでもおなじだが、あらゆるポストや能力発揮は、
 「人との出合い」
 による。それも、
 「上役にどういう人物がいるか」
 によって、大きく支配される。その意味で、小栗上野介の存在を重くみ、最後まで、
 「徳川幕府のために、そして徳川家のために」
 という気持ちをしっかりと結びあった上役が、老中板倉勝静であった。
板倉勝静は、かねがね、
 「徳川幕府の勢威を復活したい」
 と念じていた。この点では、小栗上野介とまったく同じ考えだ。やはり三河譜代の精神が両者に脈々と流れていたということだろう。
 この時、板倉勝静は四十歳、小栗上野介は三十六歳である。年も近い。そのため、意見も合った。

■島崎藤村は徳川幕府の引き際に感動

<本文から>
 島崎藤村は、よく本所北二葉町の栗本鋤雲の家を訪ねたという。いくたびに、
 「よくきた」
 といって、思い出話をしてくれたという。
 藤村は、完全に栗本鋤雲の人格に魅かれていた。
 この藤村の時代感覚はすばらしい。
 「徳川幕府は滅びる」
 ということを前提にしながら、
 「同じ滅びるにしても、引き際が美しく彩られるような花道を用意することが大切だ」
 と考えていた。花道とは、
 「しんがりが力戦して、徳川幕府を美しく消えさせる」
 ということだ。そしてこの”しんがり″を引き受けたのが、前に書いた三人の岩瀬・小栗・栗本だったのである。

■勘定奉行に返り咲いてからが最も輝かしい仕事をする

<本文から>
 小栗上野介は、この、
 「長州再征伐」
 に、残存している幕府の総力を注ぎ込もうと考えていた。そのための横須賀製鉄所・造船所の建設であり、国辱をこらえてフランスに接近して、
 「フランスかぶれ」
 と悪口をいわれながらも幕府の体制をもう一度立て直そうと努力していた。
 考えてみれば、慶応元年五月四日に勘定奉行に返り咲いてから、その後慶応二年入月に海軍奉行を兼務し、さらに慶応三年十二月に陸軍奉行を兼務した頃の小栗が、最も輝いていたといっていいだろう。ほとんど思う通りに仕事ができた。もちろん、抵抗はある。しかし小栗の目が輝き、その後の行動が反対派を片端からはじき飛ばして、
 「幕威の回復」
に総力を注いでいた時期だ。そう思うと、人間の一生で、
 「やりたいことがやれる時期」
 というのは、そうそうあるものではない。
 やはり、
「天の時(運)・地の利(状況・条件)・人の和(人間関係)」
 の三つがそろわなければ、どんなに力があっても思うようにいかない場合がある。
 慶応元年八月には、勘定奉行の名で、
「兵庫商社建設の伺い書」
を提出したが、この時は、
 「今は、そんなことをやっている時ではない。目前の飯をどうするかが大問題だ」
といわれた。目の前の飯というのは、いうまでもなく、
 「長州再征伐」
 のことだ。それもそうだと小栗もこの時は潔く自分の案を引っ込めた。九月二十七日に横須賀製鉄所で鍬入れ式がおこなわれたことは前に書いた。そして翌慶応二年四月に再び、
 「兵庫商社創立の建議書」
 を提出した。承認された。六月五日に兵庫商社の役員組織をつくつた。
 さらに、七月二十七日、幕府は、横須賀製鉄所内に
「教育施設」の開設を許可した。ここでは主としてフランス語を学習する。
 そしてその直後に小栗は海軍奉行を兼務した。九月三十日には、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の調練の教官として、フランスからシヤノワンたちがやってきた。
 十一月十九日に、横浜太田陣屋で陸軍伝習蹄を開いた。シヤノワンたちの指導によって、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の士官の養成を開始した。

■幻の小栗の官軍一掃作戦

<本文から>
 徳川慶書は、慶応三年十月十四日に「大政奉還」を申し出た。翌日許可された。そして、それから約二カ月たらずで、突然岩倉具視の率いる討幕派が京都御所で、
 「小御所合議」
 を開いた。この会議で岩倉は強引に天皇の命によって、
 「王政復古の大号令」
 を発布させた。つまり、
 「今後、日本の政治は天皇が自らおこなう」
 という宣言である。事実上徳川幕府は消滅する。そうなると、徳川幕府の諸ポストも全部なくなる。しかし、混乱が起きるので慶喜はしばらくそのままにしておいた。
 かれが、
 「幕府のポストを一切廃し、今後は徳川家の家職とする」
 という指示を出すのは、翌年の二月になってからである。
 それまでの慶喜の動きはどうもはっきりしない。
 前にも述ペたが、産摩藩の西郷吉之助の謀略によって御用党事件が起こり、結局これが鳥羽伏見の戦いの導火線になった。幕府軍は敗退した。
 慶喜は、敗北を知るとすぐ数人の僕を連れて海路江戸に戻ってしまった。いってみれば、
「総司令官の敵前逃亡」
である。
 江戸城で慶喜を迎えた小栗上野介は歯噛みした。
 「なぜ、大坂城で一戦なさらなかったのですか」
 と迫った。慶喜はジロリと小栗を見返し、
 「江戸城にいるおま、えには、上方の政治状況はわからぬ」
 と冷たくいい捨てて奥へ去ってしまった。
 「今後どうするか」
 という対策合議が毎日のように開かれた。主戦論を唱えたのは、京都守護職だった会津藩主松平容保と、その弟で京都所司代をつとめた桑名藩主松平定敬、それに勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介、海軍の代表である榎本釜次郎あるいは、新撰組代表の近藤勇や土方歳三などであった。この時小栗が主張したのは、
 「敵を箱根以東に誘い込んで、幕府海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断つ。箱根を越えた敵は、幕府陸軍のフランス式歩兵・騎兵・砲兵部隊で一挙に粉砕する。さらに海軍の一部を神戸方面に派遣して、薩摩軍や長州軍の退路を遮断する」
 というものであった。慶喜はこの案を蹴った。慶喜は、
 「徹底恭順を守る」
 といい放った。しかしこの小栗の作戦は後に新政府軍に参謀として籍を置き、「国民皆兵」による日本陸軍の創始者である大村益次郎が、
 「もしも小栗の案が実行されていたら、我々の首もとっくになくなっている」
 と驚嘆したという。

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