童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          織田信長の人間学

■信長は主権の下降を嗅ぎ取った

<本文から>
  通り過ぎて行く諸々の通過者、即ち、旅の僧、商人、芸能人、乞食、浪人、土地を失った農民などを凝視しているうちに、彼等が持つ情報や、物の考え方から、その法則を嘆ぎ取ったのである。嗅ぎ取った法則とは、現代の言葉でいえば、
 「主権の下降」
 ということである。
 主権の下降というのは、そのまま、
 「政治は誰のために行わなければならないのか」
 という、その「誰」に相当する。信長がみつめる時、日本の主権というのは、かつては天皇が持っていた。その次は、藤原氏をはじめとする、貴族が握った。その後に、貴族の番犬でしかなかった武士の手に移った。その武士の中にも階層ができて、大大名が握った。将軍というようなものもできた。しかし足利氏に例を見るように、将軍は、半ば貴族化していた。はるか前の時代でも、それを、そうすまいとして頑張った源家は、結局三代で滅びた。しかし、名目上の将軍はこの戟国時代にも存在していて、陰に陽にちらちらとその影響力を垣間見せる。信長は、理念を追う武将であったが、決して現実から目を背けなかった。この将軍という、名ばかりの権威にも充分注目していた。
 しかし、前に書いた、
 「主権の下降現象」
 には、それ以上の関心と興味を持った。
 織田信長は、足利幕府が作った管領とか、守護の流れを汲む制度からいえば、その守護の番頭の家老的立場にある家の生まれである。早くいえば、陪臣だ。従って、信長は考えた。
 「主権の下降原則によれば、天皇から貴族に移り、貴族から大大名に移り、大大名から小大名に移った主権は、小大名の家臣、即ち陪臣に移ってもいいのではないか。現に三好や松永達は、そのことを実行している。それならば、俺が天下を取っても、何の不思議もあるまい」
 これが信長の発想である。従って、信長は、この段階では、まだ人民のためにとか、下層階級に主権を下降させようという意図はない。まず、自分が主権者になろうと考えていた。誰のための天下なのか、誰のための政治なのかと問われれば、信長は、ためらわずに、こう答えたであろう。
 「天下は俺のためだ。政治は俺のために行う。即ち、俺が主権者である。そして、俺が主権者になるための戦いを、これから展開する」
 こういう見方で、信長から秀吉へ、秀吉から家康へという政権の移動を見ると、分かりやすい。それは、信長は小大名の陪臣の家に生まれて天下を取り、秀吉は農民の身で天下を取った。しかし家康は小豪族の息子である。つまり、小大名の家人であった信長が取った天下は、もっと極端に農民の位置にまで下降し、それを、家康は再び小豪族の位置にまで引き戻したという事である。
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■放伐の思想に基づく信長の天下取り

<本文から>
 中国の儒学に照らしても、信長の天下取り行動は、明らかに、
 「放伐の思想」
 に依拠していたことは間違いない。
 だからこそ、信長は、明智光秀にも討たれた。明智光秀もまた教養人であり、当然、放伐の思想を知っていた。彼から見た信長は、
 「悪徳王」
 であって、決して徳のある王とは思えなかった。だから、天命に従って、信長を討つことこそ、この国のためになり、またこの国の人民のためになると信じたのである。明智光秀も、また単なる天下取りではなかった。彼の行動には、はっきり思想的根拠があったのである。
 ちなみに、明智光秀は、自分の拠点であった、京都の北にある亀岡地帯を周山と呼んだ。この名残りは、今も京北の町七周山街道として残っている。戦国武将達は、自分達の権力闘争が血まみれで、どろどろしたものであるだけに、逆に理論的根拠を、孟子の放伐思想に求めたといってよいだろう。
 話はちがうが、こういうように、歴史の法則である主億の下降という基準から見れば、日本歴史における、いわゆる、
 「三大政治変革事件」
 は、この歴史の法則に逆行するものといわざるを得ない。それは、天皇から貴族へ、貴族から武士へ、武士から下級武士へ、そして下級武士から市民へという王権の下降の原則に、全く背くからである。
 日本で三大政治変革事件というのは、大化の改新・建武の新政・明治維新の三つをいう。共通することがある。共通する事項というのは、この三大変革が、すべて、
 「王政」
 で貫かれていることである。大化の改新も天皇親政が目的であり、建武の新政も後醍醐帝による親政が目的であり、明治維新の別名は、はっきり王政復古といった。だからこそ、これらの三大変革は決して長続きしなかった。それは、反乱者が多かったからではない。歴史の法則に背くからこそ長続きしなかったのだ。我々に身近なところでは、明治維新から、百年たたないうちに、大東亜戦争というばかな事件もあったが、結局新憲法の下における民主政治に移行せざるを得なかった。民、王憲法では、主権は、明らかに、
 「国民」
 の手に渡った。もうこれ以上下がりようがない所まで、主権は下降現象を続けてきた。
 従って、これをいったん手にした市民は、あくまでもこの主権を守り抜かなければならない。
 それが、時折、妙な散発現象が起こることがある。しかし、歴史の法則というのは、こういうものであって、たとえ散発的に逆流現象が起こっても、大河のようなうねりや流れは、決して元へ遡ることはない。川を流れた水は、悠々として大海に注ぎ、溶け込んでいくのである。市民が握った主権が、二度と遡行することはない。
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■フロイスの信長に対する印

<本文から>
 このフロイスの信長に対する印象の中には、私達が信長という人間を考える上でも、かなり参考になる事柄が含まれている。即ち、信長は、
 ○誇りの高い男であったこと。従って、侮辱にはかなり敏感であったこと。
 ○非常に短気であり、しばしば激昂するが、平素は必ずしもそうでもなかったこと。
 ○家臣のいうことにはほとんど従わなかったこと。つまり独断専行であったこと。
 ○しかし、その生活は極めて質素であり、酒も飲まず、粗食に甘んじていたこと。特に、睡眠時間が短かったこと。
 ○人の取り扱いは、極めて率直であったこと。
 ○理性と判断力に優れており、神及び仏に対する一切の礼拝や尊崇をしなかったこと。ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習を軽蔑していたこと。偶像を見下げ、墨魂の不滅や来世の賞罰等は信じていなかったこと。
 ○極めて清潔を好み、また、自分の言行に非常に良心的であったこと。
 ○会議は、要点のみで運ばれることを好み、だらだらした前置きや、いたずらに延ばされる事を嫌ったこと。良い意見だと思えば、身分に拘らずどんどん発言させたこと。
 ○やや憂鬱な面影を有していたこと。しかし困難な企てに着手するにあたっては、甚だ大胆不敵であったこと。また人々も彼の言葉に従ったこと。
 信長が霊魂不滅や、死後の世界を信じていなかったことはよく知られている。そして彼自身、
 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度び生を得て、擬せぬもののあるべきか」
 という敦盛の曲や、あるいは、
 「死のうは一定、しのびぐさにはなにをしよぞ。一定語りのこすよの」
 という小唄を好んだことは有名だ。共に、いわばニヒリズムの唄である。
 しかし、信長の場合は、これらの唄が、世の人々に受け入れられているような厭世的な考えはない。むしろ彼はこの世だけが人間の世なのであって、死んでしまえばそれまでよ、という考えを持っていた。ということは、人間の生存時間を限定していたということである。つまり死の先がないのだから、生きている間は、精一杯生きよう、生命を完全燃焼させよう、やりたいことをやろう、という心構えであった。しかし、だからといって、彼は自分の考えを、そのまま他人に押しつけたりはしなかった。
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■用意周到で勝利した長篠の戦い

<本文から>
「この機会に、いかにして勝頼をたたきのめすか」
 を考えていた。その点、つねに一歩先を考えている。
 三方ケ原戦の勝ちに乗じて勢威を増しつつある勝頼を、ここで完膚なきまでにたたいておかないと、あとあと脅威となる。仮りに勝頼が取るに足らない人物だとしても、連載連勝して大国を支配するとなれば、軽薄な人びとは錯覚して畏敬の対象としかねない。また、仮に、勝頼が非凡なる人物であるとすればなおさら、ここでたたいておかねばなるまい。天下布武の障害は、芽のうちに取り除かなければならない。
 単に、援軍を出して、引き分け、などというのではだめなのだ。勝頼を完膚なきまでにたたきのめさないといけないのだ。
 その構想が成ったとき、そしてその準備が完了したときはじめて信長は、
 「出陣!」
 と全軍に命令した。天正三年(一五七五)五月十三日のことである。
 信長の戦略構想は、守備に徹し、その配備も、
 @三段構えの鉄砲隊で応戦。
 A梯による騎馬対策。
 の二本立てからなっていた。
 @については、すでに世に名が高い。信長は国友村(滋賀県)、脚光(和歌山県)など鉄砲産地を確保していた。このとき、三千挺の鉄砲を、長篠城のある設楽原に運んでいる。鉄砲隊を三段に並べる。一段目が発射すると、その間、火縄に火を着けていた二段目が発射する。その間、一段目は弾をこめる。二段目が射つと、三段目の鉄砲隊が射つ。そのときには最初に射った隊が準備を完了している。こうして、間断なく射つ、というものである。
 三段構えの鉄砲隊を、さらに効果的にしたのがAだ。
 出陣のとき、信長は、兵のひとりひとりに柵木と縄を持たせた。そして設楽原に三重の柵を築いた。武田騎馬軍団の突撃を食い止めると同時に、ここで滞留する騎馬軍団を、一斉射撃で撃破するためである。
 柵には数十メートルごとに出口を作った。敵を誘き寄せたり、追撃したりするためのものだ。
 この柵があったからこそ、三段構えの鉄砲隊が、さらに威力を発拝した。
 決戦前夜、信長は織田・徳川連合軍の軍議をひらいた。
 「遠慮なく意見をいえ」
 普段、人の意見に耳など貸さぬ信長が珍しく上機嫌でいった。
 家康の家臣酒井忠次が提案する。
「敵の後にまわって、鳶ノ巣山の砦を奇襲したらよろしいかと存じます」
 信長は笑い飛ばした。
「″蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る″と申すぞ。そのようなこそ泥は、三河や遠江で、百か二百の小勢で闘うときにするものだ。三万八千の大軍を率いる織田と徳川が、武田と天下の雌雄を決しようというときに、そんな汚い手が使えるものか。その方など、三河や遠江で小ぜり合いでもやっていろ」
 忠次は真っ赤になって引き下がった。座もシラけて、もう意見をいう者などいない。家康も、今、信長の機嫌を損ねたらまずいと思っているから、ソッポを向いている。
 軍議はそれで終わりとなった。諸将はそれぞれ自分の陣屋に下がった。
 信長は、家康を呼び止めた。
 「酒井を呼んでくれまいか」
 酒井忠次が呼ばれると、信長はニコニコして、
「さすがは徳川殿の片腕、先ほどは感服したぞ。おれがきさまを怒ったのは、軍議の席に内通者がいたらまずいと思ったからだ。奇襲は敵に知られてはならぬ。
 直ちに鳶ノ巣山を乗っ取ってくれ。明日の戦は、きさまの乗っ取りを合図に始める」
 そして、
 「実は、鳶ノ巣山にはおれが行きたいくらいだ。あたら功名を、忠次に取られるか」
 と大笑した。
 忠次としては、狐につままれたような心地ながら、とにかく面目を施して、見事、与えられた任務を遂行した。
 この話は信長の猫疑心と緻密さをよく表わしている。
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■誠実派の利家は出世競争の中和剤

<本文から>
 先の分類におけるBグループは、
「いえばすぐわかる部下」
 である。
 このグループは、いつ、いかなる時代でも主君に忠節の限りを尽くす。
「君、君たらずとも、臣は臣たるべし」
 という古風な武士道をつらぬく部下だ。
 その中で前田利家は信長の古い家臣である。しかも秀吉の大先輩である。
 したがって、
「いえばすぐわかる」
 という、そのわかり方は、単に信長の、
 「黙って、おれについて来い!」
 という、いわば説明不足″の部分を補足してもらえば、
 (ああ、そういうことか。よし、わかった、やろう)
 と意気込む、ということではない。いや、そういう理解のしかたもあるが、それ以上の意味がある。
 信長は、秀吉という農民の子と、光秀という浪人を左右両翼に据えて重用した。信長の指示・命令のかなりの部分は、この二人の意見によって出てくる。
 柴田勝家や滝川一益などの重臣群にとってこんなことが面白いはずがない。秀吉や光秀は当然憎まれ、嫉妬され、また、その出身の卑しさを笑われる。秀吉など、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を頂いて自らの姓を「羽柴」と名乗るほど、先輩たちに気を使った。それでもいじめられる。いじめられても秀吉は傷つくような人間ではない。しかし、部将たちが反目し合っていては戦に勝てない。信長は能力王義で部将を登用したから、勢い部将間の出世競争は激しい。
 そこで、中和剤が必要となる。
 その役割を果たしたのが前田利家だ。
 利家は、イキリ立つ同僚たちを、
 「まあまあ、そういわずに」
 となだめ、
 「信長公のために、ここはひとつ奮発しようではないか」
 と協力させる。
 何しろ利家は、少年時代からの信長側近である。柴田勝家が織田家の家督争いでまだ反信長派についていた頃から、信長を守って載った。弘治二年(一五五六)八月、柴田勝家が反信長の挙兵を行ったとき、前田利家はこれと戦って右眼を失っている。
 勝家も、利家には頭が上がらない。
 利家は、若い頃は乱暴者で通っていた。虎の威を借りていばる信長の寵童を斬殺して出奔したこともあったほどである。それでも、桶狭間戦の際には、追放中にもかかわらず勝手に参戟するほど、信長には忠義を尽くした。信長の死後は、かつては自分の部下同様であった秀吉に仕え、しかもその遺児秀頼に対し本当に親身になって尽くした。
 誠心誠意を絵に描いたような人生である。
 信長は、利家はじめBグループの部下の、こういう誠実な特性をよく知っていた。だから彼らを安心して使った。
 Bグループの人びとがいたため、異例の出世をした秀吉・光秀の二人がどれほど助かったかわからない。
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■ねねの手紙にみる戦国大名としては異色の女性観

<本文から>
「藤吉郎がそなたに不足を申すなど、言語道断である。けしからん。どこを探しても、あのハゲネズミがそなたほどの女性を求めることができるものか」
 ここまでは、実は前置きである。いよいよ本論に入る。本論に入るために、論理的に、しかも説得力をもった褒め方をしてきている。
「だから、今後は、気持を陽快にして、奥方らしく重々しく振舞い、やきもちなどやかぬようにしなさい。ただし、女の役目はちゃんと果たしなさい」
 これをいいたかったのである。安土で信長に会ったとき、ねねが愚痴の一つもこぼしたのかも知れない。
 「お前ほどの女がヤキモチなどやくな」
 というのがこの手紙の主旨である。最後に、
 「この手紙は藤吉郎にも見せなさい」
 と添えている。
 「そして、仲直りしなさい」
 という意味である。
 天下泰平の現代でさ、え、夫婦喧嘩は犬も食わないという。それを、血で血を洗う殺りくを繰り返す生活の中で、信長は、藤吉郎夫婦の融和を図ったりしたのである。
 そういえば龍馬も、動乱の世をよそにおりょうと新婚旅行をするような近代的センスを持っていた。幕末の志士の多くが女を愛玩の対象としか見ない世の中で、友達付き合いをする進歩性をもっていた。
 信長は、さすがにそこまではいかない。しかし、この、ねねへの手紙は、戦国大名としては異色の女性観を示している。
 ねねという女性を一個の人格として尊重している。
 そのうえで、精いっぱいの説得を試みている。暖かさと親しみと誠意に溢れる、良い手紙である。
 いつも苛立っている信長が藤吉郎だけはなぜかウマが合って気を許せる相手であるという前提は確かにあった。藤吉郎がまた誠心誠意信長に尽くし、その有能さと相まって信長にとって貴重な存在であるということもあった。ねねが賢くて、気むずかしい信長を十分満足させたということもあった。
 そういう条件のもとにこの手紙が生まれたことは否定できない。
 であるとしても、信長が、優しく、ていねいに、一人の女性の気持を解きほぐそうと努力した。
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