童門冬二著書
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          織田信長

■岐阜の楽市楽座

<本文から>
 「岐阜のまちには、どこの国の商人が住んで商売をしてもよい」
ということと、
「岐阜のまちで商売をする商人には、税金を課さない」
ということであった。つまり、商業の自由競争と無税を宣言したのである。これは当時の日本ではたいへんなことであった。
 というのは、日本の商人はすべて大名の城下町で商売をし、しかも、だれが何を売ってもいいということはまったくなく、たとえは酒でも池でも着物でも、ぜんぷ専売制であり、それぞれの商人が「権利」を持っていた。つまり「独占商人」が当時の日本の商業を支えていたのである。
 だから、これらの「独占権」は「株」とか「座」とかいわれて、ひじょうに高い金で売買されていた。何か新しく商売をはじめようと思ったら、まず、この権利を買わなけれはならなかった。権利を買わずに商売をはじめなどしたら、たちまち権利者がさしむける暴力団に半殺しの目にあわされた。
いっばう、こういう権利を保証してくれるのは、大名や神社や寺であった。したがって株利を持つ者は、こんどはそういう大名たちに高い「権利金」を納めなければならなかった。これが税である。
 権利金を納めるためには、商人はその分を品物の値段に加算する。結局、ばかをみるのは高い品物を買わされる一般庶民だった。
この「株」や「座」の制度は、当時の社会にきびしくいき渡っていて、あの、
 「美濃の大マムシ」
といわれた斎藤道三でさえ、若いころ″油売り″ になるのには、油の本家である京都・山崎の八幡神社の許可をもらうためには、莫大な権利金を納めなけれはならなかったのである。
 信長の自由競争と無税の宣言は、この仕組みをこわすものであった。日本の各地で高い権利金をしばられていた商人たちは、このことを伝えきいて、
「そんな国がほんとうにあるのか−」
と、おどりあがってよろこんだ。そして、続ぞくと、
「その夢の国に行こう」
と、岐阜にのりこんできた。
 うわさはほんとうであった。岐阜では、だれが何を売ろうと自由であった。税もかからなかった。当然、品物は安くなる。
「岐阜は楽市だ」
商人たちは、
 「楽座だ」
 とか言ってよろこびあった。
 ただし、「独占」を廃止したので同じ品物を売る商人が何人も現れることになったので、買うほうは、しだいに品物をえらびはじめた。値段もくらべた。
  結局、
 「よい品物を、安く売る商人」
だけが生きのびていった。
岐阜はにぎわった。朝から晩まで市が立ち、まちはその呼び声でやかましかった。しかし、そのやかましさは岐阜のまちがどんどん発展していくための騒音であった。信長には、だからその騒音が快かった。
 

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