童門冬二著書
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          国僧日蓮・上

■宗教はあくまでも庶民のためのもので権力者の庇護は必要ない

<本文から>
 「これらの寺は、一体庶民の救済のために建てた寺なのか、それとも北条得宗家の救済を目的に建てられた寺なのか」
 という疑いが生じる。同時に、
「宗教家が、権力者の庇護によって存在することは、果たして是か非か」
と考える。かれは真っ向からこういう在り方を否定した。
「宗教はあくまでも庶民のためのものだ」
と考えていたからだ。そうなると、かれが上方で、
「東国の鎌倉こそ、布教に最も適した地だ。鎌倉幕府は、そういう考えを認めるはずだ」
と思ってやって来た期待は、見事に裏切られたことになる。
「鎌倉も、結局は権力者の都でしかない」
という結論になる。そして権力者たちが、
「自己権力の増大」
を図って、血眼になって争い続けている様を見ながらも、その権力者によって保護されている大寺の高僧たちも、それに対し異議申し立ては行なわない。日蓮から見れば、
「鎌倉幕府の高官も、大寺の住職もすべて、私の論理によって行動し、庶民のためという公の論理を忘れ果てている」
 と思えた。
 日蓮の弟子になった僧たちは、すべて日蓮のこの、
「公の論理」
 に共感し、賛同した者ばかりだ。かれらはかれらなりに真に弱者的立場にある庶民の救済に心を燃やしていた。だから、
「日蓮上人こそ、庶民を救い、同時にこの国を救う唯一の聖人だ」
 と思った。日蓮に私心は全くない。他宗を誹誘するのも、
「庶民を救おうという公の論理」
 を信ずるからだ。
 

■法難を受けることこそ信仰が正しい証拠

<本文から>
「北条得宗家は、日本国の守護・地頭人事を私している」
と見た。日蓮とその一派からいわせれば、
「すべて、北条得宗家の私の論理の悪用である」
ということになる。
 そして、純粋に日蓮の教える、
「法華経こそ、日本における正教である」
という考えを信奉し、身を以てそれを実現している弟子たちと、また、
「民の暮らしをよくするための努力を行なうのが、鎌倉武士の務めである」
と考える御家人たちとの依拠するところは、共に、
「公の論理」
である。しかし、その論理をあまりにもはっきり表明し、これに違う宗旨をすべて、邪教として退けた日蓮は、そのために何度も法難に遭わなければならなかった。しかし法難が重なれば重なるほどに日蓮は、
「これこそ、わが唱えが正しい証拠である」
として、むしろ喜んでその法難の渦の中に身を投げ込んで行った。そういう日蓮を見ていたから、弟子や檀越たちも、
「お上人の生き方こそ、われわれの模範である」
として、今度は弟子として、あるいは檀越として世間から投げ掛けられる非難や、言葉のつぷて礫も甘んじて受けて来た。弟子や檀越たちも共に、日蓮と同じような、
「法難を受けることこそ、われわれの信仰が正しい証拠なのだ」
と思っている。
 そして、日蓮が佐渡島へ流されたあと、鎌倉をはじめ各地に残った弟子や檀越・信徒たちが自分を支えて来たのは、
「日蓮上人の予告がすべて的中している」
という事実であった。蒙古のフビライからの国書の到来もそうだったし、鎌倉幕府内に起こる、
「政権争い」
 もそうだつた。つまり日蓮のいう、
「内憂外患」
が、予告どおり起こつていた。だからこそ、どんなに誹誘されようとも、残っていた信者は
 「お上人棟のおっしゃったことが的中している。お上人様は正しい」
 と言い返すことによって、身を保って来た。

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