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<本文から>
この不動明王の背後にある炎の解釈は、成田山に絶った二宮金次郎にとって、一つの悟りであった。ここに来た時、金次郎は自分が山裾に近い霧の中にいると思っていた。
しかし違う
「霧ではない。炎なのだ」
自分の身を焼き尽くす炎なのだ、と思ったのである。
彼はすでに不動明王の絵を、自分から切り離した存在として見ていなかった。彼は、
「俺も、不動明王だ」
と思っていた。それはなにも絵に描かれた不動明王のように、衆生を救う存在としてではなく、自らの欲望の炎に身を焼く存在として、自分を重ねたのである0そしてこの考え方は、金次郎をひどくよろこばせた。
金次郎は、それは自分の勇気だと思った。自分の勇気は、困難にプチ当った時に掘り起こされるのだ。だから、自分自身に潜んでいる勇気は、俺における″徳″のひとつなのだ。つまり新しい ″はたらき″を呼び起こしてくれるのである。金次郎は、
(成田山に篭もった甲斐があった)
と思った。肝心な岸右衛門の起こした鳥居事件や、七郎治の起こした革刈り場の事件の意味は、完全につかみきれなかったが、それはそれで、
「もし、納得できなければ、桜町に戻って彼らに開けばいいのだ」
という淡々たる気持になっていた。金次郎の目の前の霧は、どんどんはれていった。桜町の里の光景が、はっきりと見えてきた。それは、彼がもがき、苦しみ、しかしその底から、少しずつ″徳″を掘り起こしている桜町の光景であった。金次郎は、その光景を愛しむように凝視した。目の裡に写る桜町の光景は、もう、金次郎を耕しめるそれではなかった。 |
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