童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説二宮金次郎・上

■大神楽一行で自信にひがみを覚えた少年期

<本文から>
  父は、大神楽の連中に祝儀を渡しながら、よくそういった。父にとっても、大神楽との接触が大きな楽しみであった。しかし、その父も今はいない。しかも、残された一家は、奥の一室で居留守をつかいながら、じつと息を潜めている。金次郎は憎なくなった。涙がドツと溢れてきた。
(なぜ、こんな思いをしなければいけないのか?)
 と思うと、くやしさで胸がいっぱいになった。金次郎は鳴咽した。急に泣き出した兄の姿を見て、
バタバタ暴れていた富次郎も怪訝な顔をして、暴れるのを止めた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 と覗き込んだ。金次郎は首を撮り続け、
「シッ、黙って」
 と弟を制した。
 外で、大神楽一行は何度か大声をはりあげ、囃子を盛りあげた。それは、
「どうなさいました? 奥のほうにおいでになって、この囃子が聞こえないのですか? 歌が聞こえませんか? それなら、ホレ、ホレ、どうです? これでもまだ聞こえませんか? おなじみの大神楽がやってまいりましたよ!」
 といっているように聞こえた。しかし、金次郎には、その大神楽一行の囃子や歌の盛りあげ方が、単に、奥にいる家人に自分たちの来たことを告げているのではなく、祝儀の催促をしているように聞こえた。一行は執拗だ。これでもか、これでもか、と囃し立てる。それは、
「早くご祝儀を下さいよ!」
 という催促にほかならない。
「ああ…」
金次郎は吐息をついた。時間が無限に長く続くように思えた0金次郎は、彼らはすでに居留守をつかっていることを知っていて、嫌がらせをしているのだ、というふうにとった。つまり、太神楽一行が、嚇子や歌を盛りあげるのには、悪意があると感じたのである。
 そう思いながらも、金次郎は、
(俺のひがみだ)
と思った。今まで、こんな考え方をしたことはない。そして、大神楽一行が、嘲子を盛りあげ、歌声を高くするのは、なにも今日にはじまったことではない。例年のことだ0その家の家族がすぐ出てこなければ、囃子や歌声を大きくして、自分たちが来たことを強調するのだ。

■生家の復興

<本文から>
その感動をバネにして、もう一度改めて原点に戻ろうと考えたのである。
「生家の復興」
 を、文字どおり自分の生家に戻って、始めてみようと思ったのだ。
 荒れ果てた生家と、失われた田畑は、いってみればそのときの金次郎にとって大きな敵であった。が、この大敵ははじめからいた。にもかかわらず、大敵をそのままにして、大敵のまわりにいる小敵と向き合ってきたのではなかったか、という反省を金次郎はしていた。つまり、本当に向き合わなければいけない大敵をそのままにしておいて、結局は小敵と村き合うような姿を見せながら、ただうろうろしていただけではないのかと思った。したがって、大敵は依然として健在であった。少しも、その力を損なっていない。牙を剥いて金次郎と向き合っている。金次郎は、
「この大敵と村き合おう」
 と決意した。
 家の状態はひどかった。かろうじて、柱や壁があったものの、かなり傾いていた。金次郎は、コツコツと、独力でこの家を修理した。住めるようになると、近所の田畑を見て回った。すべて、砂と古株に埋もれていた。すぐには稲や野菜を植えられない。金次郎は、気持が落ち着かず、やたらに、うろろうろと近辺を止少き回った。
 それは、手のつけられない荒地を見て、またしても、
(逃げたい!)
 という衝動がつきあげてきたからだ。が、こんどは逃げられない。逃げてはならない。金次郎はその逃げたいという衝動をおさえつけ、鎮めるために、やたら歩き回った。そのあげく、彼は、
 「家の前の寸土から耕そう」
 と決意した。拾てられた稲の苗を、水治りで育てたことを思い出したのだ。
 あの時、金次郎は、捨てられていた苗を拾い集め、水潮りに植えた。そして育てた。やがて秋になって稲は実り、俵で議ぐらいの米の収穫があった。米の収穫を見詰めながら金次郎はあの時こう思った。
「小さいことも、根気強く積むことによって、大きくなる」
 つまり、
「小を積むことによって、大を為せるのだ」
 ということは、逆にいえば、いきなり大きなことはできない、成らないということである。
「生家復興も小さなことからはじめよう。目の前の仕事に全精魂をうちこもう」
 歩き回るのをやめて、金次郎は家の前に戻り、改めて荒地を見渡しながらそう思った。
「積小為大」
 の思想はそれだけではなかった。彼は拾った苗が米を実らせた事実を見て、人の力を越えたなにかが、この世の中に存在していることを知った。それは、
「天地自然の理」
 であった。彼はこう考えた。
「天地自然の理がこの世の小にあることは確かだ。しかし、そのままにしておけば、その天地自然の理も生きてこない。この理を生かして、なにかを為し遂げるためには、人がそれに努力を加えなければならない。天地自然の理は、人間が働くという努力を加えることによって、大きく実る。あの捨てられた稲の苗が、米を実らせたことがその証拠だ」
 金次郎は天を仰いだ。天に語りかけた。
「私はあなたの理に従います。が、あなたの理にさからうこともあります。手はじめはこれです」
そういって彼は荒地の草をむしりはじめた。彼にすれば、草を生やしたのは天だ。が、その草をむしるのは金次郎という人間だ。人間の理は天にさからって雑草を引きぬく。作業続けながら、金次郎は異様な精神の摘まりを感じた。
自分という小さな存在が、とてつもなく巨きな天にさからっているからだ。
 考えもしなかったことである。
 (おれは天にきからっている)
 そう思うとはげしい自信が湧いてきた。金次郎は、衝動的に、
 (生家は復興できる!)
と碓信した。

■土から学んでそれを文字にするのが本当の学問

<本文から>
 二宮金次郎は悟った。それは、土から学んだことだった。
「今までの俺の学問の仕方は、まず学問が先にあって、それを土の世界に応用しようとしてきた。それは間違いだ。むしろ、土から学んで、それを文字にするのが本当の学問ではないか?」
 そう思うと、頭の中がパチンと割れて、もやもやが一切なくなった。頭の中に、はっきりした種があるのがわかった。そして、その種がどんどん育っていく。これもまた、小さなものが大きく育つ積小為大の精神のあらわれだ。
(万兵衝伯父が言っていたのは、そういうことだったのだ)
 万兵衛伯父は、決して金次郎に学問をするなといったわけではない。
「今、世の中で行われているような、死人だ学問をするな。農民には、農民の学問のやり方があるだろう。それを発見しろ、そして、そのキッカケになるのは自然だ。雲であり水であり土であり、そして生きとし生けるものの命なのだ。その命を謙虚にみつめ、また向き合うことによって、多くのことが学べるはずだ。それをまず学べ」
 といっていたのだ。
 二宮金次郎の学別に村する姿勢が、根底から変った。

■金を貸すことが五常の道

<本文から>
かつて金次郎は、林蔵として服部家に若党奉公をしている時に使用人たちに金を貸したことがある。このとき彼は、この金の貸し借りは人間の「五常の道」を守ることなのだと説明した。金の貸し借りが、五常の道だというのは、
●金を貸すということは、本来貸すという言葉で表現すべきではなく、多少余裕のある人から、困っている人に″差し出す”ことなのだ。これを推譲といっていい。すなわち、推譲は仁である。
●そして、借りたほうが約束を守って、正しく返済することを義という。
●借りたほうが、約束を守って返済する時、あるいはその後に、必要な金を推譲してもらったことを感謝して、その恩に報いるために冥加金を差し出したり、あるいは返済について決して貸し手に迷惑を掛けないように心を配ったり、また努力して得た余財を貸付金に当てる時も決して威張ったりしないこと、これを礼という。
●またどのようにして、借りた金を早く返そうかと努力すること、それも勤労によって余財を生むこと、再発を変えればいかに中く約水を守るかと工夫することを智という。
●そして、全体に約束を寸ることを信という。
これが五常の道と金の貸借との融合だ。今、服部十郎兵衛が、
「俺に、仏になれというのか?」
 と開かれて、金次郎が、
「そうです」
と答えたことは、
思いつきでそういったわけではない0金次郎にはそう答える根拠があった。それ
は、彼が、金の貸借を、自分の方法によって行うことを、
「観音の道」
と考えていたからだ。金の貸借が貸借の道だというのは、次のような理由からである。
●金を貸すほうは、金次郎方式によれば、観音の心の持主だ。
●借りるほうは、衆生といっていいだろう。
●すなわち楓音は人を救う立場にある。衆生は救われる立場にあるからだ。
●そして、今度は借りたほうが返すことに努力をすれば、その適した金が、巡り巡って、さらに他の困っている人を救うことになるから、返すということは観音の心につながる。つまり、人を救うという心を持って返済するからである。
 こういういわば旋回方式が、報徳金の思想である。資金がいつも旋回していて、必要な者にそれを分ける。分けられたほうは、努力してそれを返し、旋回している水源に加える。加える時に、単に返済金だけではなく、恩に報いるために冥加金を差し出す。この冥加金を加入金といっていた。たとえが適当かどうかわからないが、ちょっと″流れるプール″を思い出す。金が死蔵され、滞解しているのではなく、常に流動しているのだ。使われるために流れ動いているのである。この旋回式流動がなければ、金も生きてはこない。
 金次郎にすれば、金の徳を発見し、人々の暮しを盤かにするために活用するということは、すなわち、資金を旋回させることであった。そして、この旋回の過程において、仁の心を持って人に推譲し、義の心を持って返済し、札の心を持って人に接し、智の心を持って運転し、信の心を持って約束を守る、すなわち「人間五常の道」を守ろうというのである。これによって金に潜んでいる「徳」が掘り出され、金の持つ徳は人間に村して、自分の持っている力を全部吐き出して奉仕するのだ。
 つまり、金が自分の徳を触り出してくれた人間に村して、ご恩報じをするのだ。そういう輪廻が、人と金の関係であった。

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