童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           小説中江藤樹 下

■当世の儒教者・林羅山に反対する

<本文から>
与右衛門の論旨は、
・真の儒者とは、自己の気質と人欲を抑え、心中に潜む明徳を明らかにして、本然の性に立ちかえることである。
・もしその説が世間に入れられる時は、人々を善導し、天下を平和に維持する。
・世に入れられない場合でも、道をおこなってわが身を全うする。
・ところが最近のわが国の儒者は、ただ聖人の書をあれやこれやと漁り、ただ広く読んで字句解釈にうつつを抜かし、実行を全く心掛けない。そのために、かえって世間の人々を惑わし、誤らせている。
・この罪は、仏教徒よりも大である。
・菅玄同は、その代表である。
・すなわち玄同は、己の博学を人にひけらかして自慢し、人間としての完成を怠った人面獣心の俗人である。
・だから、本来なら善導すべき弟子の安昌を、浅薄な学識を盾に、豚や犬に対するような扱いをした。
・弟子の安昌にも心があるから、ついに怒りとか恨みの念をもって、師を殺害するに至った。
・しかし、玄同のこの死は自ら招いたものであって、いわば天の命によるものだ。偽学者の玄同は、たとえ安昌に殺されなくても、いずれは不慮の死を遂げたに違いない。
・こんな偽学者である菅玄同を褒め諾え、真の儒者などと賞賛する林左門も、また偽学者たるを免れない。つまり、左門自身が浅薄な学識しかないために、このような過ちを犯すのである。

■失業武士を処士に

<本文から>
須卜は、陸に上がった河童としての生き様を、究極的には、
「処士」
 に求めた。完全に一農民として土着することには、かれの誇りが許さなかった。そこでかれは、自分の処士ぶりを示すために、陸地に上がって桃の花を咲かせた。そして、自らつくりだした、
「桃源郷の主」
 として、地域に仲間をつくつた。
「あれが、本当の処士の世界だったのかも知れない」
 と与右衛門は思う。
だから、
(その桃源郷が、この琵琶湖畔にできたらさぞかし楽しいことだろう)と与右衛門が考えるのも、決して単なる空想ではなかった。右衛門の胸に小さな希望が湧いた。
しかし、田畠を耕しはじめた失業武士たちに、
「処士になりませんか」
と語りかけるにしても、
「処士とは、こういうものです」
という例を示さなければならない。例を示すためには、
刀を捨てることだ。武士身分からはっきり離れることだ。大溝藩から離職した武士たちに、それができるかどうかは先のことだ。
(とにかく、わたしから範を示そう)

■学問の目的は心の明徳を明らかにする。世の中に孝を尽くす。

<本文から>
「熊沢殿がおっしゃるとおり、今は武士に限らず、あらゆる人間は、学問をしなければなりません。今は、学問をしないですまされない世の中になりました。したがって、学問はいま生きる人間が第一におこなわなければいけない急務だと思います。いったい学問はなんのためにおこなうのかといえば、わが心の明徳を明らかにすることが根本です。それには、四書五経の精神を師とし、自分自身の日常生活の経験を素材にしながら、明徳をいよいよ明らかにするように努力することです。そのためには、まず親に孝を尽くし、祖先に孝を尽くし、主君に孝を尽くし、世の中に孝を尽くし、さらに天に孝を尽くすことが、この明徳を明らかにする大きな道筋だと思います。特にあなたのように、政治に志をお持ちの方は、このように全孝を冒すことによって、やがて天地宇宙と一体となり、天道に則り得るようになれば、必ずよい時節に出会って民のためによい政治をおこなう人物になられ、天下を治める大事業を達成することでしょう。不幸にして時が得られず、窮迫することがあっても、わが身の修養完成に努め、人々の教育に尽くせば、それも真の学問だといえます」
左七郎は領いた。目が鋭く輝き出した。与右衛門の言うことが、左七郎がいま求めている学問とはなにかということを、はっきり示してくれたからだ。左七郎は緊張した。思わず固唾をのんだ。そんな左七郎の顔をしっかりと見据えながら、与右衛門は話を続けた。
「このように学問の根本は、己の心の汚れを清め、本性である明徳をあきらかにすることでありますが、たとえ字が読めなくても、このように努力する人はすべて聖人といっていいでしょう。そこにおられる馬方の又左衛門さんやそのお仲間たちは、すでに聖人の域に達しているのです。その証拠にあなたは又左衛門さんのお話を開いて、ここへやってこられました」
 与右衛門の話が自分たちに及んだ時、又左衛門たちは思わず顔を見合わせ首を縮めた。そんなに褒められるようなことはしていないと思っていたからだ。左七郎はちらりと又左衛門の顔を見て微笑み、再び与右衛門に視線を戻した。左七郎の視線が自分に戻ってくるのを待って、与右衛門はさらに続けた。
「迹というのは、聖賢が『辞』と実際に身でおこなわれた『事』のふたつです。心というのは、この辞と事によって表わされた聖賢の本心をいいます。これが、四書五経に書かれた精神です。訓話というのは四書五経の文字の読み方や解釈をいいます。したがって、順序としては四書五経を読むのにも、まず訓話を学んだのちに、その逃を辿り、究極的には聖賢の心を自分の心の導きとして、努力すれば、やがて聖賢の心がそのまま自分の心になって、その後の自分の心の働きが聖賢の心にかなうようになります。そうなれば、自分の振舞い、つまり辞と事がともに聖賢の”時中の妙”に合致するようになります。このように学ぶのがわたしは真の学問だと思っております」

■小説中江藤樹に託したかったのは

<本文から>
 「小説中江藤樹」に託したかったのは、
・あらゆる権力から遠ざかり、純粋に民衆の中に身をおき、民衆とともに生き、その哲学を生んだかれの生きかたの探求
・その立場を、日本に例のない「処士」という職業に自分を位置づけることによって、独創的な次元に自分をおいたかれの生きかたの探求
  である。
 この視点は、その成否はともかく、いままでの藤樹への接近では新しいものだと思っている。そうなると、かれがなぜ、
 「近江聖人」
 とよばれるようになったのか、その淵源を丹念にたずねる必要にかられた。結果として、「淵源の大半は、かれが武士であった大洲城(愛媛県大洲市。脱藩して近江へ帰る前、かれはここで青少年時代を送った)時代にある」
と判断した。そのため、この時代の叙述が相当な分量になり、全体で当初予定した量の二倍になってしまった。わたしとしては、いままででいちばん長い小説になった。
構想したのは十年前、現地取材は滋賀県安曇川周辺(藤樹の生地や薔院の所在地)、鳥取県米子城(米子市)近辺(かれが祖父母と二年ばかりくらしたところ)、そして大洲と歩きまわった。大洲は五、六度訪ねた。そのたびに新しい発見があった。
 取材には、畏友である学陽葦屠の高橋作部長が同行してくれた。ずっとそばにいてくれる高橋部長が、わたしにささやきつづけたのは、
「あなたが中江藤樹になりきってください」
 ということである。
・藤樹はこの土地でなにを感じ、なにに苦しみ、それにどう立ち向かったのか
・自分の苦悩のどこに一般性を感じ、思索し、ことばや文章にしたことを、他人にどう伝えようとしたのか
・伝えられた側は、それをどう受けとめたのか、よろこびを感じたのか、かなしみを感じたのかというようなことである。藤樹との同化だ。
 今日性をもたせるために、いまの日本の大失業状況と、安易に生きるための、権力例のマインド・コントロール現象と、藤樹が生きた時代の相似性を状況設定として考えた。つまり、
「権力のもとめるききわけのいい人間化」
 と、
 「これに抵抗し、自主性をつらぬく人間」
との対置である。そして後者の立場に立ってもけっして、
「孤高猫介化」
 しない、つまり、
「孤独になることなく、逆に共感者をふやしていく存在」
 を、藤樹による、
「日本最初の処士」
という形で創出した。したがって気持ちとしては、孔子や孟子など中国古代の聖賢の存在も、わたしにとっては”処士のひとり″である。だからこそ藤樹は孔孟の生きかたをめざした。これが、だれいうとなく、かれを″近江聖人″とよんだゆえんだろ。

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