童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説・小島密

■心のギアチェンジに優れている

<本文から>
  「心の変化」
 を促すときのモチベーション(動機づけ)は、非常に鮮明で輝くばかりだ。普通の人間は真似ができない。つまり、かれの、
 「事象を受け止める心の鏡」
 は、非常に優れた素材でつくられている。あるいは頭の構造を成り立たせている部品も優秀だ。この頭脳と心の鏡とによって、かれは明確に、
 「起こった事象の本体を見抜く」
 という特性を持っていた。そうなると、いましきりに努力していることも、たちまちほってしまう。
 「こんなことをやっているときではない。もっと大事なことがある」
 と、心のギアチェンジ行なってしまうのだ。こういう拘りのない、
 「新しく起こった事象に的確に対応する姿勢」
 というのは、房五郎独特のものであって、当時の同時代人には発見しにくい。多くの志士と呼ばれた連中にも必らず、
 「拘りやしきたり」
 があった。その点、房五郎には全くその気配がない。これは天性のかれの資質だ。
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■思念先行で諸国の海岸を見学

<本文から>
 「若いころは血気に駆られて奮然としていた」
 と自ら述懐している。思い込みが激しいほうだから、いわば、
 「思念先行」
で、
 「どうやって実行するか」
 などという手段など全く念頭にない。だから、無一文でもすぐ長崎へ向かった。金が無くなると野宿した。野宿してもかれは前向きに考えるから、
 「おれの体力がどのくらいあるかを試しているのだ」
 と負け惜しみの強い考え方をする。これは、物事を成し遂げようとする人間にとって絶対に欠くことのできない、
 「積極性」
 である。どんなときにも後ろへは戻らない。前へ前へと歩いていく。浦賀を去るときにペリーは、
 「来年回答を求めに来る」
 と言い残して去った。脅しだ。
 房五郎は、そんなことも念頭に置きながら安政元(一八五四)年、二十歳になったのを機に、日本国内を探索しはじめた。まず江戸から信濃路へ入り、越後路を通って故郷に立ち寄った。母と兄は健在で、
 「頑張りなさい」
 と励ました。故郷の家を出ると北陸道から山陰道へ回った。南下して下関に出た。そして船で豊前(福岡県)小倉港に着いた。九州の北岸を辿り、さらに西岸を南下して長崎に着いた。待望の佐賀藩の砲台を見学した。
 「さすがだ」
 と唸った後に、そのまま肥後(能本県)に入り、さらに日向(宮崎県)に赴いた。ほんとうは、薩摩藩の武備を見たかったのだが、この国はかなり前から藩境を閉じて絶対に他国人を入れない。守備よく入ってもすぐ発見され殺された。そこでやむを得ず日向から北へ向かい、豊後(大分県)へ入った。佐賀関から船で海を渡り、四国の伊予(愛媛県)に着いた。めざすのは土佐(高知県)だったが、ここも他国人は入れない。そこで讃岐(香川県)にいき、瀬戸内海を越えて紀伊(和歌山県)へ向かった。和歌山県を海沿いに歩き、そして伊勢から北へ向かって三河(愛知県)に着いた。当時の東海道は、伊勢の港と三河の港を繋ぐ水路が旅程になっていた。三河から伊豆下田に至り、船で江戸湾に戻った。もちろん地図なしの旅行だ。
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■行動を起こしたら学問の必要性を感じ実行

<本文から>
 「ともかく海岸はすべて歩き、大きな港はつぶさに見分した」
 という自信は持った。しかしはじめに思い立った、
 「要路に国防策の意見具申を行なう」
 という目的は投げ捨てた。それは、ここに来てまた改めてかれは、
 「おれは基礎的な学問を身につけていない」
 ということに気付いたのである。こういう発想方法もかれらしい。つまり、ひとつことを行ないながらも、同時に別なことを追い求めているのだ。いわば、
 「複数の目的を同時進行させる」
 ということをかれはしばしば行なう。次のことをやるためには、いまやっていることを終 了させてからでなければだめだ、という考え方は絶対にとらない。
 「頭の中に湧いた考えは、そのまま頭脳の働きに任せる。二つでも三つでも同時に考える」
 という思考方式を採る。そのため、歩いているうちに次第に、
 「おれは学問が不足している、全く何も知らない」
 ということを如実に感じ、歩きながらがんがん頭を叩き続けた。それは、
 「おれはこれほど愚かだったのか」
  という自己認識である。かれは、
 「深く考えてみると、これまでの自分の行動はいたずらに血気に駆られて妄動したにすぎない。学問が無いままにいたずらに妄動するのは、実に狂者の行ないだ」
 と結論づけている。相当自分に対して厳しい反省だ。
 ここでかれは改めて、
 「学問を学ぼう」
 と考えた。最初は、
 「書を捨てよ、町に出よう」
 という寺山修司さん的な志を立てたのだが、外に出てみると、今度は逆に、
 「書を捨てたのは間違っていた」
 と気付いた。そこでまた再び、
 「机の前に戻ろう」
と思い立った。机の前で勉強し、ある日思い立って机から離れ、外を歩いてみたものの、歩き続けているうちに、逆に、
 「机の前での勉強をもっとしておくのだった」
 と反省する。
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■大久保は後年に前島の言った貿易の重要性を痛感

<本文から>
 大久保は眉を寄せた。房五郎はいいつのった。
 「さっき、この部屋にお邪魔したときに大久保さんはおっしゃつたじゃありませんか。大久保さんのおじいさまも貿易をなさっていらっしゃったと。貿易のどこが悪いのですか」
 これに対し大久保は冷ややかにこう応じた。
 「貿易など商人のやることだ」
 この答えを聞いて、房五郎は、
 (ははあ)
 と感じた。それは大久保自身が、祖父の貿易業務を必らずしも快く思っていなかったのだという気がしたからである。やはり大久保には、士農工商の身分観が厳として身についている。明らかに商人を馬鹿にしているのだ。しかし房五郎にすれば、いま日本の全大名家のほとんどが財政難に陥り、四苦八苦の経営を行なっているのはすべて、士農工商の身分観による、
 「商人蔑視・貨幣蔑視」
 の病根が巣食い、どう治療の仕様もないほど悪化していることに原因があると思っている。
 房五郎はさらにいった。
 「国益を得るのは、外国との貿易以外ありません。貿易が主です。大久保さんのおっしゃる海軍は、むしろその貿易を行なう商船の護衛に当たるべきでしょう。したがって、これからの国際社会では、商船が主であり、海軍は従だと思います。わたしは、その主である商船の事業を行ないたいのです」
 「……」
 大久保は完全に沈黙した。かれは言葉を選ぶ。うかつなことをいって相手に尻尾を握らせるような失言は絶対にしない。それが大久保の性格であり、またかれ自身自分をことさらに威厳あるように見せるゆえんでもあった。やがて大久保は領いた。しかし目の底にちらりと薄い怒りの色が走ったのを房五郎は見逃さなかった。おそらく大久保の性格として、自分がいい出したことに背いたり、拒んだりするような経験はあまり持っていないのだろう。しかし房五郎はそういう性格は、
 「人間の自由を縛り、自分の思いのままにしようとするわがままな心だ」
 と思っている。このときの大久保とのやり取りはギクシャクしたものに終わった。しかし後年、大久保は新政府の責任者になるにつれて、このとき房太郎がいった重大さを思い糾す。その必要性も感ずる。やがて二人は協力し、日本の海運のために努力していく。しかし、だからといってそうなったときも果たして、
 「心と心の結びつき」
 が強固なものであったかどうかは疑問だ。
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■優れた郵便制度の稟議書

<本文から>
 非常に要を得た簡潔な文章だ。そのときの郵便制度が、欠陥の多いことを短い指摘で掲げている。つまり、
・大した距離でもないのに、非常に時間がかかること
・一片の文書の送達が非常に高価なこと
・交通の不便な地域には、伝えたくても信書が到達できないこと
・現在の飛脚制度は、遅れが甚だしく、場合によっては信書がどこかへなくなってしまうこと
このために、新しい郵便制度を設けたいが、
・その郵便制度は官営にしたいこと
・最初の実験として、東海道から京都まで三十六時間、大阪まで三十九時間の設定をしたいこと
・信書の内容が公事私用に拘らず、安い費用で送達したいこと
・その手続きを簡略するために、現金ではなく、切手を発行したいこと
 などが簡潔に書かれている。文章の最後に「布告文」案も添えたと書いてあるが、布告文の内容もほぼ同文なのでこれは省略する。この稟議書を出したのが、明治三(一八七〇)年五月のことだった。密の予測では、おそらくこの稟議書は許可されるものと思っていたので、その後の実施案について次々と詰めた。つまり、この稟議書に書いてはあるが、
・抜本的に、郵便制度を官業にするのか民業にするのか
・送達の手段をどのようにすべきか
・運ぶ物の種類とその養
・質と量に対する手数料
・その負担の方法
・取扱所とその性格、地方における取扱い所をどう設営するか
・現金輸送にいろいろと弊害があるが、この代替をどのようにするか
・いずれは、新聞・本・雑誌の送達も行ないたいがこれをどうするか
・さらに発展させて、同氏の貯金を郵便制度で扱いたい
 など、次から次へと構想がエスカレートしていく。密の郵便制媛に対する夢は限りなく広がった。
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■郵便を名づけ

<本文から>
 「この制度を実行するには、いくつかの壁をぶち破らなければならない」
 と感じた。改革にはいうまでもなく破らなければならない壁が三つある。物理的な壁・制度的な壁・意識の壁だ。つまり、モノの壁・しくみの壁・こころの壁だ。特に、意識の壁を破るのは容易ではない。が、密はこの障害を越えなければ、郵便制度は絶対に日本に定着しないと思った。何といってもかれには、アメリカやイギリスで実際に見て来た先進的な郵便制度の見聞がある。また、イギリスで私設の飛脚制度をばかにされた悔しさもある。
「日本が欧米に肩を並べる近代国になるには、郵便制度の普及も絶対に不可欠だ」
とかれは確信した。駅逓寮の中にも、浜口のような考え方をしている人間ばかりではない。密の情熱に賛同するものもたくさんいた。最初に問題になったのが、
「新制度を何と名付けるか」
ということだ。単純に、
「飛脚便でいいではないか」
という論もあった。密は、
「それでは、官業か民業か区別がつかない」
 といって反対した。一部の者が、
「駅逓寮で扱うのだから、駅逓便ではどうですか」
といった。密は一応は領いたが、
「名称は簡便な方がいい。二字で適当な名称はないだろうか」
といって、自分でもあれこれ頭をめぐらした結果、
「郵便にしよう」
と告げた。このころはまだ教育が行き渡っていなかったので、笑い話がある。それは「郵便函」を、いまでいうトイレと間違えた者もいたという。郵便という名称が決まったあと、次にこの事業を国民一般に知らせ、同時にこれを扱う側の心得が必要になる。すなわち「郵便規則」の制定だ。が、この規則の性格付がむずかしかった。密の方針で、
 「極力易しい文字で、懇切丁寧な文章にする」
 ということは了承されたが、しかし、
 「これは一体郵便事業の案内なのか、それとも発信人の心得なのか」
 という論議も起こった。密は、
 「そのすべてだ」
と応じた。
▲UP

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