童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          楠木正成

■正成は帝の下に悪党の群れが直結しようという企て

<本文から>
 「正季は、だんだん兄の考えがわかりはじめた。このことは、いつも正成が口にしていたことだ。正成は自分が水の分水樺を持ち、また略を行なって、奪った年貢を地域の民衆に分け与えているように、あくまでも地域の人々を愛していた。しかし、正成一人がいくら悪党ぶって、略を続けてもたかが知れている。日本の仕組みそのものが、大きな欠陥を持っていたからだ。仕組みの中で最も悪いのが、公家や大きな寺社の存在だ。つまり、何も働かないで、居食いをしている連中だ。正成が語った激しい言葉の中には、明らかに、
「権力者としての公家も武士も亡ぼしてしまいたい」
 という考えがあった。困窮民衆を基盤にした新しい勢力というのは、おそらく正成自身のような悪党連中をいうのだろう。正季は、胸の底を奮わせた。
 (兄は、悪党の群れでこの国を乗っ取るつもりなのだ)
 と思ったからだ。そして、その頂点に、帝を戴こうというのだろう。帝を戴いて、その下に悪党の群れが直結しようという企てだ。中間の公家も、鎌倉幕府も一挙に吹っ飛ばしてしまおうという考えだ。何と恐ろしいことを考え出したものか、と正季は興奮すると共に、果たして成功するかどうかと危うんだ。が、正成は常に静かな面持ちを湛えているので、心の中の熟さに比べて興奮の様は見せない。 

■敵の裏をかく脱出作戦

<本文から>
 城兵たちは、無言のまま正成の言葉にきき入っていた。目がキラキラと輝いている。明らかに正成の言葉に従おうという意思表示だ。かれらは満足していた。はじめこの城に籠もった時、正成は、
 「天皇のために死ぬ義理はない。去る者は去ってもいい」といった。しかし誰ひとり去った者はいない。かれらは最後まで正成に従ってきた。悪党精神の共有者として、五百人全員が楠木正成の指示に従ってきたのである。それはこの度で終わったわけではない。これからも続くのだ。正成が、もう一度兵を起こして戦うというのなら、その時また馳せ参じようと兵の一人ひとりが考えていた。
 「やむを得まい。楠木殿の言葉に従おう」
 浄仙坊がそういった。正成は浄仙坊にうなずき返した。浄仙坊がきいた。
 「しかし、敵もわれわれの脱出を予測しているのではありませんか? その辺をどうします?」
 正成は外を見た。
 「風と雨が強い。これからさらに強くなるだろう。これを利用しよう。しかし、浄仙坊のいうとおり、寄せ手も雨が強いからこそ、われわれが脱出すると警戒しているに違いない。そこで、外に出て死んだ敵兵の遺体を城中に運び込んでもらいたい。これを集めて城内に積み、火を放つのだ。われわれが万策尽き果てて、城と共に自決したと思わせるのだ。その前に、何手かに分かれておまえたちは南の尾根伝いに金剛山を目指して脱出せよ。おれはそれを見届けた上で、敵の死体に火を放つ」

■少数でも対抗して幕府の不満を爆発させる

<本文から>
 正成は、幕府大軍の動きを封じ込める最も有利な地形に、敵を誘い込む方策を練りあげていた。
 正成は、前年の赤坂城挙兵以来、自分が後醍醐天皇の綸旨に従って活動していることを天下に喧伝した。かつ、潜伏中の大塔宮と常に密接な連絡を保った。再挙兵に当たっても、大塔宮がどんな難局にも屈することなく、幕府討滅の令旨を全国に向けて流し続けることを要請した。
 天王寺の戦いの時、楠木軍の大将軍に、大塔宮の側近四条隆貞を充てたのも、二人の密接な連携を世に示すものだ。たとえ天皇の論旨があったにせよ、正成ひとりで、反幕の旗を掲げたのではほとんど無視されてしまったに違いない。せいぜい河内周辺の御家人たちとの戦いが繰り返されたにすぎないだろう。幕府も山野を埋め尽くすほどの大軍を、五百や千の田舎侍の立て籠もった山岳地帯に送り込むような真似はすまい。
 この点、正成は巧妙に世の中の反応を意識しながら、手順を追っていた。幕府の総力を挙げた大軍が、否応なく、最も攻めるに困難な、重畳とした山々と峰々が折り重なる狭隆の地に、進撃せざるを得ない形を整えていったのだ。
 そこには、正成の独特な情報活動があった。情報に素早い悪党仲間の報告によって正成はすでに鎌倉幕府に対する人心の離反と、人々の胸の底にくすぶり続けている不満の念を正確に読み取っていた。いまでいえば、民心のキャッチであり、世論把握である。
 もちろん、幕府のカは強大だ。しかし今の正成から見れば、それはあくまで表面だけのものであった。本当の実力はとうに揺らぎはじめている。しかし、幕府にしがみつくものはそれに気がついていない。妄執に目がくもっているから、事実が正確に見えないのだ。もし、幕府のカが正成がつかんだように絶対的にものでないと知りはじめたらどうなるだろうか。北条政権に対する憎しみとあなどりの心は、一気に堰を切ったように各所で爆発するに違いない。
 (それには、幕府の勢力を集めるだけ集めて、この金剛山の麓に釘付けにし、少数の兵で断固として対抗し、果敢に抵抗し続けてみせることだ)
 と正成は考えていた。

■千早城籠城が、全国的に評判を高めて、武士の蜂起を促した

<本文から>
 隠岐島に流された後醍醐天皇は、確かに脱出された。伯耆国(鳥取県)に渡り、船上山に行宮を構えた。ここから、全国の志ある武士たちに向かって、
 「北条幕府を討滅せよ」
 という綸旨を出した。同時にこれに呼応するように、潜んでいた大塔宮も、同じ主旨の令旨を出した。これによって、全国武士の意気が上がった。楠木正成が志した通り、かれの千早城籠城が、全国的に評判を高めて、武士の蜂起を促したのである。全国の武士の群は、
 「悪党と呼ばれた楠木正成が、たった数百の兵で、数十万に及ぶ幕府の軍勢と戦った。機略を縦横に駆使して、ぜんざんに翻弄した。これは、楠木正成の戦略がすぐれていただけではない。幕府には、すでに楠木正成ひとりをすら、討ち滅ぼすカがなくなっているのだ」
 と考えた。もともと、状況に敏感で、理に聡いのが地方武士の特性だ。潮の流れが変わったとなれば、すぐそれに乗る。後醍醐天皇の隠岐島脱出は、こういう状況のもとで行なわれた。きくところによれば、忠義の志厚い公家千種忠顛が、天皇の脇にピタリとついているそうだ。このことをきいたとき、楠木正成は、弟の正季と顔を見合わせてほほえんだ。

■恩賞への期待裏切られ足利高氏と新田義貞が分裂

<本文から>
 こうして、鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされた。ところが、この攻撃と勝利は、かならずしも新田義貞の功績にはならなかった。それは、事前に機敏な足利高氏が手をうっていた潮らだ。高氏がうった手というのは、四歳になる自分の子義詮をすでに鎌倉に遣わし、補佐として一族の岩松経家を派遣していたからである。高氏は、すでに鎌倉幕府が滅亡することを予見していた。
 「その時は、足利の名を高めなければならぬ。新田に先を越させてはならない」と思っていた。世間の受けとめ方は、新田家より足利家の方が上位だと考えている。いままで、北条家と密接な関係を持ち、鎌倉幕府でも枢要なポストを占めてきたので、よく名を知られていた。つまりPRが行き届いていた。したがって、この時の義貞の鎌倉攻撃は、世間では次のように噂した。
 「鎌倉幕府攻撃は、足利高氏の息子義詮を総大将として行なわれた。義詮はまだ四歳だったので、足利家の下についていた新田小四郎義貞というものが先頭に立って、武蔵の国から軍を起こして駆けつけた」
 このことを聞いた新田義貞は不快に思った。(またしても高氏にしてやられた!)と歯噛みした。しかし、神かがり的な迷信を信ずるだけでなく、名家名門に弱い当時の武士たちには、いわゆる「貴種尊重」の念がみなぎっていた。そのため、たとえ四歳であっても、新田義貞よりも足利義詮の方が世間的な通りがよかったのである。これだけの大功績を立てながらも、新田義貞の鎌倉攻撃は、
 「足利義詮の部下として行動した」と受け取められてしまったのである。
  しかし、いずれにしても鎌倉滅亡の報は諸国にすぐ伝えられた。そのため、北条幕府が日本全国に設けていた探題が次々と襲われた。九州でも、長門でも、四国でも、次々と後醍醐天皇や大塔宮のために挙兵した地方武士によって滅ぼされた。
 こういう攻撃を、間髪を入れず船上山の後醍醐天皇に報告したのが足利高氏である。事実、高氏はその前から諸国に自分の密書を撒いて、
 「帝のために各地の探題を滅ぼせ」と命じていた。地方武士にとって、源氏の正統である足利高氏の指示命令は絶対であった。まだ、主従関係はなかったが、かれらは帝の綸旨と大塔宮の令旨とともに、足利高氏の手紙を大切にした。それは、
 「ここで帝や宮のために尽くせば、あるいは足利殿が間に立って、沢山の恩賞が与えられる世話をしてもらえるかもしれない」と考えたからである。当時の武士は、単に天皇への忠義などという精神的なものでは行動しない。働きに応じた利益が得られなければ容易に立ち上がらない。それが実態だ。江戸時代に生まれた武士の忠誠心を、この時代に期待することは無理である。
 したがって、足利高氏は、自分の手紙のバラ撒き作戦によって、このころから地方武士の間によく名を知られはじめていた。その点、気持ちのきれいな新田義貞の方が、一歩遅れをとっていたといっていい。そして、この遅れが、その後どんどん距離を広げ、ついに足利高氏との間にすさまじい軋轢を生じてしまうのだ。そして、この底流には、全国地方武士の後醍醐天皇や大塔宮に対する恩賞への期待と、その期待が空しく裏切られていく過程が潜んでいた。足利高氏は、そういう全国地方武士の期待を知りつくしていたがために、そっち側に立って行動しはじめる。新田義貞は、どちらかといえば天皇側について行動した。路線が真っ二つに割れたのである。これが、建武の新政における武士側の分裂でもあった。

■民衆を苦しめる存在は公家でも武士でも否定する正成の考え

<本文から>
 しかし、地方武士として、民衆の生活に深く関わりを持ってきた正成の考えはそんな浅いものではない。かれは、天皇に直結して、民衆の地位がもっと向上するようなことを考えていた。その中継ぎとして、自分たちの役割というものを考えていたのだ。かれの頭の中には、ただすわっているだけで、諸国から年貢を集めている公家や、妨主や、そして鎌倉幕府の存在そのものも許せなかった。したがって、同じ武士といっても、その鎌倉幕府につながりを持っていた足利高氏や新田義貞とも考えがちがう。あるいは極端にいえば、楠木正成は、尊氏や義貞も否定していたかもしれない。つまり、自分たちと民衆を苦しめるような存在は、公家であろうと武士であろうと、否定せざるを得ないのが正成の考えだ。そういう見方からすれば、建武の新政を展開している後醍醐天皇を頂点とする公家一統と、足利尊氏や新田義貞たちを頂点とする武士たちの争いは、ちょっと楠木正成とは遠い次元での戦いだ。かれは、不本意だった。

■後醍醐天皇にだけは理屈や感情を越えて忠節を尽く正成

<本文から>
 勢いに乗った足利軍は、追討軍を追ってどんどん京都にせまってきた。朝廷はまた狼狽した。楠木正成はこの時、宇治方面の防衛を命ぜられた。正成は、しだいに割り切れない気持ちを持ちはじめていた。かれの見るところによれば、(足利も新田も、結局は鎌倉幕府の再現を願っているのではないか)と思われたからである。つまり、足利尊氏も新田義貞も征夷大将軍になりたいのだ。源頼朝の跡を襲いたいのである。あるいは、北条幕府のような武家政権を確立したいのだ。これは、楠木正成にとっては歓迎すべきことではない。かれは、もともと悪党の立場から出発した。正成の夢をごらんになったという後醍醐天皇の召命に応じたのは、悪党を代表とするそのころの日本の下層民の、生活向上を実現してくれる政権樹立のために、"主上の謀反"に参加したのである。それがもう一度、勢いを得た武士たちが、政権を握り、朝廷はともかく、ふたたび地方武士や民衆に対して圧迫を加えるようならば、建武の新政というのはいったい何なのか、ということになる。楠木正成が敵と考えているのは、居食いをしている公家と、一部の武士権力者である。
 「そういう連中を払拭したい」
というのが、正成の建武の新政に対する大きな期待であった。それが、わずか一、二年でこわれてしまった。政権争いで、足利と新田は内部分裂を起こしてしまった。そのために、また多くの人間の血が流れている。
 「いったい、これは何なのか」
 そう考えると、正成は次第に気持ちが暗くなる。しかし、その正成がいまただひとり信じているのが後醍醐天皇である。かれは、後醍醐天皇にだけは、理屈や感情を越えて忠節を尽くそうと心を決めていた。
 敗走した新田軍は、京都の入口山崎近辺に陣を敷いた。しかし、追撃する足利兄弟の軍勢の足は速かった。年が変わって建武三年(一三三六)一月十日には、足利軍は山崎に着いた。そして、激戦の末、新田軍を撃破した。新田軍は京都に退いた。ところが、勢いづいた足利軍はそのまま京都に突入してきた。朝廷は狼狽し、後醍醐天皇を比叡山に動座させた。さらに比叡山の琵琶湖側のふもと坂本に行在所を定めセ。比叡山は、後醍醐天皇の皇子宗良親王が天台座主となって、僧兵を全部掌握していたからである。
 一挙に足利軍は、ここも突破するかと見えたがそうはいかなかった。というのは、勢いに乗った足利軍は、全軍をあげて追討軍の追撃に移ったために、鎌倉が空になっていた。その空になった鎌倉を、奥州から下ってきた北畠顛家軍が占領してしまった。北畠顛家は、鎌倉を占領しただけではない。一部の兵を置いて、すぐ足利軍の追撃に移った。形としては、新田義貞たち追討軍が逃げる。それを足利軍が追う。その足利軍の後方から北畠頻家軍が追う、という格好になった。そして、北畠顛家は、意外に強かった。

■地方武士は建武の新政に愛想をつかした

<本文から>
(結局のところ、建武の新政とはいっても、公家たちは依然としておれたち武士を馬鹿にしている。下賎の者、凡下として卑しんでいる。だから、さんざん苦労して手柄を立てても、一片の肉を与えてやれば、武士などというイヌはそれで満足すると思い込んでいるのだ。そういう考えは、その連中の根っこのところに厳然として存在している)正成は改めてそう考えるのであった。
 (しかし、いま改めてその事実を知ったところでどうにもならない)絶望の念が、大きく膨れ上がってきた。
 京都を追われた尊氏が、それではなぜたった三ヶ月余りの日数で、再び大軍を糾合し得たのか? 東上が可能になったのか? それをこの連中は本気で考えたことがあるだろうか。このことは、単に足利尊氏に人望があって、地方武士がくっついてきたというだけではない。地方武士は、いまははっきり、建武の新政に愛想をつかしたのだ。その姿勢の現われが、尊氏に従って都に攻め上ってくるということなのだ。地方武士ははっきりいえば建武新政府を見限ったのだ。見捨てたのである。そして代わりに足利尊氏を選んだ。それはかつて、尊氏が、不公平極まりない地方武士への恩賞の配分を、地方武士の立場に立って新政府に強く迫ったからだ。足利殿こそ、地方武士の代表だという考えは、あの持全国に広がった。それが今も生きている。古い家柄や、家系だけで、何の能力も持たない公家たちが出世し、朝廷の要職を占め、武士たちは相変らずその貴族たちの番犬扱いをされていることに我慢がならなくなったのである。

■残る七十三騎で自決

<本文から>
 楠木正成は、包囲の中で味方の数を数えさせた。
 「七十三騎です」
 部下が報告した。時刻はすでに午後四時を過ぎていた。
 正成は残った将兵を見渡した。そして、
 「よく戦ってくれた。もはや、これまでである」
 「これまでとは?」
 弟の正季がきいた。
 「自決する」正成は静かにいった。正季はうなずいた。七十三騎の部下が、全員正成に従った。正成は、湊川近辺の民家で空家を見つけると、そこに入った。いままで、正成と心を一つにしてきた七十三人の部下は、これからすぐ正成と進退も共にしようとしていた。正成と共に死のうと心に決めていたのである。
 「一心同体」が、行なわれようとしていた。
 なかに、浄仙坊も猿岩もいた。浄仙妨と猿若はわめいた。
 「お屋形! 最後の一人になるまで戦い抜きましよう!自決はつまらぬ」
 「いや」
 正成は首を振った。そして、浄仙妨と猿若に視線を当てながら、いった。
 「腹を切る前に、みんなに話しておきたい」
 死を前にした人間とは思えない程落着いた語り口である。全員耳をすました。正成は語った。
 「おれが、後醍醐天皇のお召しを受けて、赤坂に籠もったのは、一つの志があったからだ。この志とは、後醍醐帝を戴いて、おれたちのような武士がその直下に従うことだった。そのことによって、おれたちは凡下の者、悪党と呼ばれてきた連中のこれまた常に胸に抱き続けた志を遂げようとした。おれが建武の新政に期待したのはそういう政権の樹立だった。ところがうまくいかなかった。帝のお気持ちだけではどうにもならぬものがあった。それが、公家であり武家だ。かれらは結局のところ、自分たちの土地所有欲を露骨に出して、あいかわらず我々凡下、悪党の立場にはならなかった。が、おれは最後の最後まで、武士として生き抜こうと思い込んできた。しかし、武士としてのカは、完全に使い果たした。おまえたちを巻き添いにするようで気の毒だが、どうかおれの志をわかった上で、一緒にあの世へ旅立ってもらいたい。もちろん、ここから離脱して生き抜こうと思う者は止めぬ。心の赴くままにしてよい。語っておきたかったのはそういうことだ」

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