童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説黒田如水

■腹立たずの会

<本文から>
 ”腹立たずの会”というのは、それまで短気ですぐものを決めたがる長政を心配して、父の如水が助言して設けた、現代でいえば「合議機関」である。首脳部会議といってもいい。
 腹立たずの会というのは、俗称で、正しくは、「異見会」といった。
 如水はこの会を設けた時、次のような掟を設けた。
・異見会には、誰が出席してもよい。
・異見会は、月の上旬、中旬、下旬の三回設ける。
・会議の場は大広間とする。
・異見会では、人と違った意見を述べること。
・その際、身分を忘れること。
・したがって、普通なら身分の制約がある言葉使いや、意見の内容についても、一切気を使わないこと。
・そのため、互いに言い合った意見によって、大広間を出た後しこりを残さないこと。特に上層部の者は、下の者が耳に痛いことを言ってもそれを根に持たないこと。後に、人事異動その他で報復をしないこと。
・思い切った意見が交換される際には、あるいは高度の秘密が洩らされるかも知れない。しかし、その秘密は異見会以外には洩らさないこと。
 集約すれば、
・身分を忘れること。
・しこりを残さないこと。
・秘密を守ること。
の三つの条件を核とする掟をつくったのである。
 

■織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の違い

<本文から>
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人については、
「信長がつき、秀吉がこねた天下餅を、骨も折らないで家康が食べた」
という言い方がある。また、
「啼かないホトトギス」
に対して、それぞれ詠んだ俳句がある。
 信長 啼かぬなら殺してしまえホトトギス
 秀吉 啼かぬなら啼かしてみせようホトトギス
 家康 啼かぬなら啼くまで待とうホトトギス
信長は短気、秀吉は自信家、家康は堪え性の強い人間、というふうに言われている。だからこそ、信長が鳩き、雰吉がこねた天下餅を、じつと待っていた家康が最後に食べたということだ。
合戦の仕方にもそれぞれ特性がある。信長の場合は、戦略中心の電撃作戦が得意だ。秀吉は、ほとんどが水攻めとか兵糧攻めのような長期包鞠戦をとる。この時は、当然敵の城の周朗に堤を築いたり、櫓を築いたりする・いってみれば、璽日の合戦は土木建設工事が多い。徳川家康は、野戦が得意だ。それも堂々と布陣して、相手と正面から激突するような正攻法が多い。だから家康は、
「東海山の弓取り」
 といわれた。
 こういうように、合戦の方法が違うということは、それぞれが支配している軍団組織に対する管理方法も違うということだ。
  信長 恐怖による管理
  秀吉 ニコボンとばら撒きによる管理
  家康 分断支配による巧妙な管理
 ということになる。そうなると、仕える部下の方もそれぞれ主人に対して、
「どう仕えれば、主人が一番喜ぶか」
 ということに頭を使うことになる。黒田如水は、すでにこの三人の天下人の性格を見抜いていた。だから、
「信長様に仕える時はこういう方法、秀吉様に仕える時はこういう方法、そして家康様に仕えるとなったらこういう方法」
 ということを決めていた.
 しかし、人間でつくる組織が、何でもかでもこういう理詰めで行くとは思えないが、如水の方は頭の方が先に働いてしまうので、どうしてもそうなった。
 秀吉の将棋の打ち方は、正にこのニコボンとばら撒きの発想から来たものだ。だからかれは馬鹿になれた。芝居を見抜かれても、相手の方が、
「秀吉公がそこまでなさるのだから」
 と、途中で批判や追及をやめてしまう。
(秀吉公の芝居に乗った方が得だ)
 と思う。事実、秀吉は自分の芝居に乗った者に対しては、惜しみなく褒美を与えた。
 信長・秀吉・家康の軍団組織の管理方法は、何もそれぞれの人間的な性格によるものだけではない。時代がそういう管理方法を求めていたのだ。ということは、三人の天下人が、この世の中に対して果す役割が適ったからだ。
 信長 古い考え方の破壊。特に、武士の間に添っている″一所懸命″の思想の破壊。新しい価値観の創造。
 秀吉 信長が提起した新しい価値観を実現する社会の建設。
 家康 二人の先輩が実現して行った社会の長期維持管理。
現代的な言葉を使えばこういうことになるだろ。

■黒田如水と細川幽斎は世論の動きを見極めた上で決定した

<本文から>
全体に石田三成に味方した大名たちは、確かに、
 「豊臣家に対する恩顧」
 あるいは、
 「豊臣家に対する最後のご恩奉仕」
 などという忠誠心を基礎にしている。しかし、そのほとんどが”世論″に目を向けていない。
「世の中の人心がどういう方向に流れているか」
 ということを見極めていない。世論というのは、何も武士だけがつくり出すものではない。文字の書けない同時代に生きる農庶民もつくり出す。こういう民を無視した行動は、必ずしっペ返しを受ける。ものを言わない民も、実をいえばこわい存在なのだ。徳川家康はそのことを十分に知っていた。家康の行動は、
「常に世論の動きを見極めた上で決定する」
 という慎重さを持っていた。この慎重な判断と決断が、かれを天下人への道を歩ませたのだ。その意味では、同じ世論の動きを誰よりも逸早く、適確につかんでいたのが黒田如水だったといっていいだろう。細川幽斎も同じである。こういう感覚は、あるいは黒田如水と細川幽斎に共通する文学精神によって磨かれたと見てもいい。政治一辺倒で、他に能のない連中はこういうことに気がつかなかった。その点、黒田如水も細川幽斎も、
「世渡り上手だ」
といわれたが、世渡り上手ということは単なる世を渡る技術だけではない。こういう鋭い感覚と、特に世論の動向を見極める神経を持っていたということである。
徳川家康が会津に向うと聞いて、如水はすぐ息子の長政に、
「おまえは家康殿の供をしろ」
と命じた。

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