童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          港湾にみなぎる進取の気風

■河村瑞賢によって日本海側最大の港に発展した酒田港

<本文から>
(このさい一挙に、庄内米をこの酒田から江戸まで運び込んだらどうだろうか)ということである。日本海を西航して、下関海峡を突っ切り、瀬戸内海を通って江戸までの航路を確立しようということだ。
 瑞賢は自分の考えに夢中になった。
 そして、(できないことではない)と自信を持った。つまり、瀬戸内海を高瀬川に見立てるということは、すでに本土と四国の間に挟まれた、大きな水路が存在しているということだ。新しく掘る必要はない。ただ、航路上には、いろいろの難関があるから、これを確かめ、ここを通ってはいけない、ここを通るべきだというルートを設定することが大事なのだ。
(よし、俺はその事業をやろう)と瑞賢は決意した。
 こうして拓かれたのが、瑞賢による北前航路である。日本海を、船が西に向かうので西廻航路≠ニも呼ばれた。
 おもしろいのは、このころの海図を見ると、今の中国・朝鮮・韓国・ソ連の陸続きの大陸側から日本列島を眺めていることだ。今の地図とは、北と南がひっくり返っている。つまり、北前船にとっては、大陸側が南側に描かれ、日本列島が北側に描かれている。これも、いわば一種の発想の転換であって、今の日本人でもなかなかこういう眺め方で、自分の国を見る人は少なかろう。当時の海に生きる人たちの発想は素朴で、しかも説得性があった。
 こうして、寛文十二年、河村瑞賢によって、日本海側から大坂、そして江戸に直結する航路が拓かれたのである。この北前航路の最大の拠点が酒田港になった。
 もちろん、そのころの日本海側にも、いろいろな港があった。しかしそれらの港は、その国だけの港という意味で国津″と呼ばれていた。これにたいして、酒田港は全国的な港という意味で諸国往還之津≠ニ呼ばれた。いってみれば、海のターミナルステーションに酒田が選ばれたということである。蝦夷地との交易が積極的になるのは十八世紀に入ってからなので、そういう意味からいえば、酒田港は、当時の日本の日本海側における海港の北限″でもあったといっていいだろう。
 北前航路を拓く過程で、瑞賢は今まで調査したデータや港の地形などを頭の中に思い浮かべながら、幕府にいくつも番所を設けてもらった。番所というのは、単に航行する船を取り締まるというのが目的ではなかった。逆に航行する船の安全をはかって、積荷の状況や、吃水の状況などを、番所から番所に連絡しあい、船が無事に日本海か
ら瀬戸内海に入り、大坂や江戸に着けるようにしたのである。
 寄港地は、酒田を起点に、佐渡小和(新潟県佐渡郡小木町)・能登福浦(石川県羽くい郡富来町)・但馬柴山(兵庫県城崎郡香住町)・岩見温泉津(島根県にま郡温泉津町)・長門下関(山口県下開市)・大坂・紀伊大島(和歌山県西牟婁郡串本町)・伊勢方座(三重県渡会郡南島町)・志摩畔乗(三重県志摩郡阿児町)・伊豆下田(静岡県下田市)であった。
 特に岩礁の多い下関海峡には、番所に水先案内船を置いて先導させた。また同じように、暗礁が数キロも続く志摩鳥羽港付近では、その出口にある菅島の白崎山に工夫をして土壁の家をつくった。家の壁を青く塗って、ここでのろしをあげさせ、火の光が青い壁に反射して、遠い海上の船に見えるようにしたのである。
 つまり、酒田港が栄えはじめたといっても、それは酒田港単独で栄えたのではなく、瑞賢によってこういうように北前航路の各地にきめ細かい心配りの行き届いた整備が行なわれてはじめて、立体的に栄えはじめたのだといっていい。港という各地の点≠、それぞれ整備し、つなげることによって線≠ニしたのである。この線をたどって、酒田から直接うまい庄内米が、大坂や江戸に陸揚げされるようになった。
 だがそれは米だけではなかった。酒田港からは、最上川を通じて、大豆・小豆・紅花・朝芋・真綿・蝋・漆・荏油・水油・紙・葉煙草、あるいは秋田の木材、松前の干魚が出荷された。反対に、上方からは、塩・繰り綿・木綿・瀬戸物・茶のほか、まぐろなどの魚類、出雲の鉄などが運び込まれた。
 こうして、酒田港をターミナル港とすることによって、北と南、あるいは東と西を網羅した日本列島上の各地の産品が、一斉に酒田に運び込まれ、あるいは出ていくようになった。
 酒田港は、日本海側最大の港に発展した。このキッカケをつくったのは、何といっても河村瑞賢である。
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