童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説近藤勇

■土佐藩巻き返しのために近藤の罪をあばこうとした

<本文から>
 「この戦争で、土佐藩の存在を示すような武功をあげる以外ない」
と思い込んで来た。だから眼を血走らせ、血眼になって、
「武功の対象になるような敵の存在」
を猟犬のように追い求めてきたのである。ところが、
「江戸開城劇」
の大舞台は完全に薩摩藩にさらわれてしまった。またもや薩摩藩の名が上がり、同時に薩摩藩の代表者である西郷隆盛の名が上がった。今、板垣退助や谷守部やこれと組む水戸出身の香川敬三にすれば、
「この事態をひっくり返す打ち駒は、大久保大和と称している近藤勇だけだ」
ということになる。この持ち駒を有効に生かすのには、近藤の罪を最大限に拡大することだ。
そしてその罪を、
「薩摩藩への巻き返し」
に結びつけることだ。それには、何としても、
「近藤と勝との解約」
にまで発展させなければならない。それは勝が決して温和な恭順論者ではなく、むしろ腹の中には、
「徹底抗戦論者」
であるという証拠を挙げることだ。旧新撰組が甲陽鎮撫隊として甲府城占領赴いたのも、また下総流山に屯集して調練を行なっていたのもすべて、
「最後まで政府軍に徹抵抗戦するため」
という目的を引き出すことがひとつ。そして、
「その密命を与えたのは、勝海舟である」
という証拠を挙げることだ。そのために、
「密約の事実を近藤自身の口から白状させる」
ということに、板垣と谷は合意した。

■近藤は個人の時代から組織の時代への移行を感じていた

<本文から>
 近藤が京都に来てからの自分の経験を分析して見て、
「個人の時代から組織の時代への移行」
という流れを感じたのはさすがだ。しかし、その個人から組織への流れを近藤は、
「自分たちと同じレベルの人間たち」
の動きでとらえていた。つまり個人というのは、志士であり、組織というのは藩のことであり、その藩を動かしているのは藩士だと感じていた。つまり京都の花街で毎晩のように官官接待を行ないながら、
「情報の収集合戦」
にうつつを抜かしている連中のことである。目線の高さでいえば、水平に見られる範囲の人間をとらえていた。

■池田屋事件

<本文から>
 しかし、新撰組はよく戦った。四国屋にはだれもいなかった。池田屋に集結していた・ここに三十数人いた。ほぼ襲った新撰組側と同人数である。しかし、新撰組は死者一人、負傷者数人という軽微な損害であったにもかかわらず。志士側は死者七人、被捕縛者二十数人だった。逃げ延びた者はほとんどいなかった。逃げても、ようやくこの頃出動して来た守護職・所司代・町奉行所・親幕大名家の軍勢などによって妨げられ、その場で逮捕されるか殺されるかした。
 乱闘が終わった後に、幕府側諸勢から、それぞれ協力の申し入れがあったが、新撰組は断った。
「始末は自分たちでやりますから」
といって、それぞれの軍からの使者を追い返した。腹が立っていた。
「今頃になって、何をのこのこ出てきやがったんだ!」
と、原田左之助などは聞こえよがしに怒鳴った。やって来た使者はきまり悪そうに首を締め去って行った。
(中略)
 「みんなを集めろ。壬生へ戻る」
 と告げた。血だらけ、泥だらけになった衣服のダンダラ羽織のまま、新撰組は整列した。近藤はいった。
 「胸を張れ。堂々と壬生村へ戻る」
 「おう!」
 頼もしい喚声が上がった。思わず近藤の胸に熱いものが込み上げてきた。こんな思いをしたのははじめてだった。近藤はこの時、
 「はじめて、隊士の気付ちが一つになった」
 と感じた。夜明けの町を、新撰組は堂々と隊を組んで壬生村へ歩いて行った。騒動の噂が町中を走っていたので、沿道は見物人で一杯だった。囁き声が聞こえた。
 「壬生の狼や」
 「人斬り新撰組や」
 決して喚声の声ではない。畏れの声だった。
(これでいい)
と思った。それは、
(この事件によって、町の人間が、新撰組の存在意義を決めてくれるのだ)
と感じたからである。しかし、いい気持ちはしない。壬生の狼だの人斬りだのといわれて喜ぶ奴がどこにいるだろうか。近藤の胸の中に、木枯らしのような風が吹き立った。しかし近藤は
(これがおれたちの行く道なのだ)
とはっきり感じた。そして、芹沢鴨がいっていた、
「近藤さんは笛吹きだ。隊士をどこへ連れて行くのかね」
という問い掛けに、今ははっきり答えることができる。
「おれが連れて行くのは狼の道だ、人斬りの道だ」
近藤は虚空にいる芹沢に向かってはっきりそう告げた。

■池田屋事変以降に隊士粛正が多くなった

<本文から>
池田屋への襲撃を、
「同士討ちになるからやめてほしい」
と出撃をとどめ、自らは参加を拒否した山南敬助は、池田屋事変の後に徹底的に孤立してしまった。それまでは、温和な人柄で隊士のいわば、
「人生相談」
に応じることによって、存在意義を保っていた山南敬助が、池田屋襲撃によって新撰組に対し、
「壬生の狼・人斬り新撰組」
の悪名を課せられると、憤激の極に達した。
「だから言わないこつちゃない」
と捕丈高に、自分の正しさを主張した・これに対し、真っ向から立ち向かったのが土方歳三である。土方は山南の態度を、
「局中法度にある脱するを許さずに当てはまる。切腹ものだ」
と罵った。かりそめにも隊の総長のポストにある者が、隊の方針に従わなかったのは明らかに、
「脱走と同罪だ」
というのだ。この対立はいよいよ深まった。半年後の慶応と年が改まった直後、山南はついにいたたまれず脱走してしまう。明らかに
「局ヲ脱スルヲ不許」
という法度に違反したのだ。近藤の命令で、山南の逃亡先である大津(滋賀県)まで追いかけた沖田総司が連れ戻した。憔悴仕切った山南は、近藤から、
「局中法度違反につき切腹を命ずる」
と言い渡された。山南は悪びれずに、
「有り難き幸せ」
 と一礼して、潔く切腹の座についた。介錯は沖田総が行なった。雪がちらちら降る日で、この日、切腹の行なわれた前田邸の出窓の外では、その雪の中に山南の恋人明里という島原遊女上がりの女性が、じっと立ちつくしていた。
 不祥事によって粛正される隊士が増えた。入隊者には変わり者が多かったが、当時の開国論者で有名だった佐久川象山の遺児で三捕啓之助と名乗る若者もいた。しかし、父象山の名を鼻にかけて増長の振る舞いが多く、やがて幹部の間では、
 「三浦を粛正しよう」
という声が起こつた。逸早くそれを知った啓之助は恐れて父の故郷である信州(長野県)松代へ脱走した。本来ならこれも脱走の罪によって切腹させられるところだが、近藤は、
「田舎へ戻ったやつまで追うな」
と止めた。

■権力の番犬にすぎない

<本文から>
 近藤勇はこの辺の状況と、
「その状況下における新撰組の位置づけ」
を話し合った。近藤が感じていたのは、
「新撰組は、結局はそのときの権力の番犬にすぎない」
ということだ。どんなに理想を掲げ、自分たちの行動に理念があると思うおうとしても、それは認められない。雇う側が欲しがっているのは、
 「警察力としての武力」
である。場合によってはその武力が暴力になる。しかし、雇う側はそれでもいいとしている。
 そして、
 「自分たちがためらってできないような暴力も、新撰組なら振るうことができる」
 と思っている。 

■近藤勇と新撰組はどこにも属さない勝手な組織とされた

<本文から>
 四月二十五日、判決が下された。斬罪の刑である。刑はすぐ執行された。そしてその首が板橋の刑場に晒され、次のような高札が掲げられた。
「近藤功 右は元来浮浪の者にて、初め在京新撰組の頭を勤め、後に江戸に住居致し、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山において官軍に手向かい致し、或いは徳川の内命を承り候などと偽り唱え、容易ならざる企てにおよび候段、上は朝廷、下は徳川の名を偽り候次第、その罪、数うるに暇あらず、よって死刑に行い梟首せしむる者なり」
 結局は、近藤勇と新撰組は、
 「どこにも属さない勝手な組織」
として扱われた。

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