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<本文から>
そんな時に、分家の三根山藩から、
「窮乏を見るに堪えない。見舞いをお届けする」
といって、米百俵が送られて来た。長岡の城下町は、新政府軍によって徹底的に焼き払われていた。その復興作業が遅々として進まない上に、武士も民も、
「今日一日どうやって食っていくか」
ということで悩み抜いていた。食糧が絶対的に不足していたのである。
そんなときに、分家の三根山藩から百俵の米が送られて釆たから、土民をあげて大喜びとなった。たちまち大参事であるわたしのところに、
「三根山から送られて来たお米を、すぐ分けてていただきたい」
という声が押し寄せた。
しかしわたしはその要望を蹴った。
「米を分ければすぐなくなる。それよりも、この米を売って今後の子弟教育のための学校につかう」
と宣言した。大騒ぎになった。武士の中には、抜き身を突き付けてわたしを胴喝したものもいる。しかしわたしは怯まなかった。それは幼年時代からわたしは、
「教育の重要さ」
を身にしみて認識していたからである。
「結局、教育が行き届かないために、人材育成に事を欠き、長岡藩牧野家は今度のような悲惨な日に遭ったのだ」
という考えを持っていた、つまり、
「危機に際して、その危機をみごとに管理する人物がいなかった」
ということだ。
これはある意味で、河井継之助批判になる。事実わたしは河井のやり方を批判していた。世間では、河井が生きている間から、わたしと河井の関係を、
「ライバル同士だ」
といった。
「意見が全くちがう敵対老だ」
とも見た。ある面では当たっている。しかしある面はちがう。 |
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