童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          米百俵と小林虎三郎

■窮乏に送られた米百俵を教育に使った

<本文から>
  そんな時に、分家の三根山藩から、
「窮乏を見るに堪えない。見舞いをお届けする」
といって、米百俵が送られて来た。長岡の城下町は、新政府軍によって徹底的に焼き払われていた。その復興作業が遅々として進まない上に、武士も民も、
 「今日一日どうやって食っていくか」
ということで悩み抜いていた。食糧が絶対的に不足していたのである。
 そんなときに、分家の三根山藩から百俵の米が送られて釆たから、土民をあげて大喜びとなった。たちまち大参事であるわたしのところに、
「三根山から送られて来たお米を、すぐ分けてていただきたい」
という声が押し寄せた。
 しかしわたしはその要望を蹴った。
「米を分ければすぐなくなる。それよりも、この米を売って今後の子弟教育のための学校につかう」
と宣言した。大騒ぎになった。武士の中には、抜き身を突き付けてわたしを胴喝したものもいる。しかしわたしは怯まなかった。それは幼年時代からわたしは、
「教育の重要さ」
を身にしみて認識していたからである。
「結局、教育が行き届かないために、人材育成に事を欠き、長岡藩牧野家は今度のような悲惨な日に遭ったのだ」
という考えを持っていた、つまり、
「危機に際して、その危機をみごとに管理する人物がいなかった」
ということだ。
 これはある意味で、河井継之助批判になる。事実わたしは河井のやり方を批判していた。世間では、河井が生きている間から、わたしと河井の関係を、
 「ライバル同士だ」
 といった。
 「意見が全くちがう敵対老だ」
とも見た。ある面では当たっている。しかしある面はちがう。 

■河井とは役割が違っていた

<本文から>
戦死者を悼む碑としては、早い時期に建てられたものだと思う。しかし、この頃、長岡の土民は塗炭の苦しみに陥っていた。それは、前に話したように、
「石高の激減」
に遭遇したからである。
 窮状を兼ねた分家三根山藩から米百俵が届けられて来た。藩の大参事になり、藩政の最高賓任者になっていたわたしは、
「救済米を分けてほしい」
 という土民の要求を断固一蹴した。答えて、
「学校建設(実際には既設の学校の強化拡充)の資に当てたい」
と宣言した。困窮土民たちは、
「米が食えぬのに、なぜ百俵の米を売って学校の建設資金など整えるのだ」
と迫った。わたしは、
「米が食えぬから、食えるように子弟を教育すろのだ。もっと先を見ろ」
と言い返した。この時はまさに命懸けだった。わたしの説得が成功するとは思わなかった。しかしわたしは完全に、
「命懸け」
だった。これが自分の信奉する、
「至誠天に通ず」
という現象を生んだ。わたしのところへ抜き身を引っ提げて怒鳴り込んで来た人びとも納得した。これは嬉しかった。互いに手を取り合って泣いた。それは、
「今後、さらに厳しくなる困窮状況を共に耐え抜こう。そのことが自分たちの子、孫のためになる」
という決意を互いに誓ったことだ。その決意の底にはやはり、
「長岡の地をこういう惨状にしてしまった、われわれ大人たちの責任」
の自覚があった。
 そしてそれは、わたし自身特に深かった。つまり、わたし自身は激動する長岡藩末期において、たとえ謹慎の身ではありながらも、自分の無力ぶりを慨嘆せざるを得なかったからである。それは単に、
 「職務上における自分の立場」
の非力さを感じただけではない。
 「学問の現実に対する効能カ」
についても、深く反省せざるを得なかったのである。
 わたしが米百俵を金に換えて、子弟を教育したいというのも、
「今後の長岡を発展させ、日本のために斥くせるような子弟の教育」
 を志していたからである。
 私がつくった学校の系譜から、のちに軍師山本五十六元帥が育った。山本五十六元帥が
 決して、
「戦争好きの大将」
でなかったことは、「米百俵」の戯曲を書いた作家山本有三さんの講演などによっても明らかだ。
が、山本有三さんも講演や作品の中で、
「長岡藩には人がいなかったためにああいう惨状を招いた」
と結論づけておられる。それは暗に、
「河井継之助の指導が間違っていた」
ということになる。しかしわたしは必ずしもそうは考えていない。
 わたしが冥界に入ったのば、明治十年(一八七七)八月二十四日のことで、わたしは五十歳だった。病翁と号した長年の闘病生活にも疲れ架て、永遠の眠りについたのである。
 あの頃のことをいろいろと思い起こしていると、結局わたしと河井継之肋は、「時代に対する役割分担があった」
ということだ。そして、
「互い承知の上で、その役割を黄任をもって果たした」

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