童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          志の人たち

■近藤重蔵は牢に繋がれても北方の志を貫く

<本文から>
  エゾ地や千島列島などを探検して得た結果から、近藤重蔵は、
 「ロシアの侵略は、絶対に千島列島で食い止めなければならない。エゾの地がロシアに侵略されるようなことになったら、日本はそこから破れる」と高田屋嘉兵衛にも話した。この考えを幕府首脳部に建言した。受けたのが、主として老中の水野出羽守忠成であった。水野は、当時の十一代将軍徳川家斉の寵を受け、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。江戸城内を肩で風をきって歩いた。したがって、うぬぼれが強い。そのため、一与力でしかない近藤重蔵ごときが、さかしらに、
 「幕府がロシアの侵略を防ぐためにこうすべきだ」などと幕政に関与するような意見を吐かれることにがまんがならなかった。はじめのうちは、重蔵の功績を嘉していた水野も、次第に重蔵と会うのがおっくうになってきた。しまいには顔を見るのもイヤになった。
 重蔵にとって不幸なことは、息子の不始末によって、大溝藩お預けの処分が決まったとき、この窓口になったのが水野出羽守だったことである。預かることになった大溝藩の分部家は、水野出羽寺家に、いろいろ問いかけをした。近藤重蔵の扱いについてだ。当時交わされた問答を、再現してみると
 次のようになる。
「近藤の朝夕の食事はいかがつかまつりましょうか。酒を望んだときは、与えてもよろしゅうございますか?」
「食事は、粗末でよい。酒は絶対に与えてはならない」
「タバコはいかがいたしましょうか?」
「与えてはならない」
「病気になりました節は、医師、ならびに薬はいかがいたしましょうか?」
「御藩の医師の診断に任されたい」
「万一、預り所が火事になりましたときは、すぐ立ち退かせましょうか?」
「いや、しばらく火の勢いを見てその上で判断されたい」
「髪を結うとき、ハサミを使うことにつきましては?」
「本人にハサミを持たせてはならない。また、ハサミを使う場合は、先を丸めておくこと」
「毛抜きはいかがいたしましょう」
「与えてはならない」
「筆記用の筆と紙を望みましたときは?」
「与えてはならない」
「行水、入湯を望みましたときは?」
「それは望みにまかせてよい」
「爪を切りたいと申したときは?」
「そのまま長くのばさせよ」
 何ともはや冷たい答えだ。水野はそれほどまで近藤重蔵に悪感情を持っていたのである。しかし、大溝藩の分部家は水野の答えを守ったり守らなかったりした。刃物を与えることはしなかったが、しかし筆と紙はふんだんに与えた。重蔵がおしこめられた牢の中で、しきりに書き物をしたがったからである。その点、分部家は非常に理解があった。しかし、重蔵は黙っていなかった。
 牢屋の近くに大きな木があった。朝、夕、そこにカラスがたくさんきて、鳴きわめいた。童蔵は、「やかましいぞ」と怒鳴った。番人たちは、自分たちのことをいわれたのかと思って、話をやめた。
 ところが重蔵はあいかわらず、
 「やかましいぞ!」と怒鳴り続ける。牢役人がおそるおそる「何がやかましいんですか?」ときくと重蔵は、
 「カラスだ。あのカラスを何とかしろ」といった。牢役人たちは顔を見合わせたが、もともとうるさ型だということをきいていたので、カラスを長い竿で追い払った。カラスはすぐ戻ってくる。また追い払う。カラス退治に牢役人たちは大わらわになった。
 初夏がきて、近所の水田でカエルが鳴きはじめた。すると重蔵は、今度は、
 「カエルがうるさい。何とかしろ」と怒鳴った。牢役人たちは、今度はカエル退治に大わらわになった。
 しかし、牢役人たちは重蔵に接しているうちに、次第にかれが好きになった。というのは、重蔵はお預けになったことを決してぼやいたり、不平をいったりしないからだ。そんなことはみじんもいわない。かれはいつも相手がわかろうとわかるまいとこういい続けた。
「おれは、二十八、九歳のころから、北方の島々へ危険をおかして何度も渡った。そして、現地に住んでいた人間を日本の生活様式に変えることに努めた。みんな喜んでおれの言葉に従った。ところが、幕府の役人が腰抜けだから、すぐこれが引っくり返ってしまう。というのは、凍らない港を求めるロアが、すきを見てはこれらの島々を侵すからだ。そして、住民を自分たちに従わせる。思いきった策を講じなければ、千島列島だけでなく、エゾの国まで、ロシアに侵略されてしまう。何とかしなければいけないのだ」
 熱弁をふるう重蔵の態度に、牢役人たちは心服した。(この人は、本気で北辺のことを心配している。幕府の人たちはどうして近藤さまのいうことを受け入れないのだろうか?)と思った。牢役人たちは近藤重蔵にいろいろと教えを請うようになった。とくに北辺問題について熱心だった。重蔵も喜んだ。格子を隔てて、しきりに講義をした。このことが藩上層部に伝わった。藩上層部も、北辺問題については無縁ではいられないという良識を持っていたので、重蔵は時折牢から出されて、非公式に藩士たちに講義を行うようになった。しかし、かれのわがままな癖は直らず、あいかわらず、カラスが鳴くと、
 「うるさい。カラスを何とかしろ」とか、
 「カエルを鳴かせるな」と要求した。しかし、気心がわかってしまえば、そういう無理難題も一種の愛嬉になる。
 「近藤先生は、悪い人じゃない」
という見方がどんどん広まっていった。逆に、
 「近藤先生の志は高い。こんな牢におしこめられても、その志を曲げないところは立派だ。あの人は本当に囲を思う武士だ」という評判が高まった。
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■賀島兵助は悪習撲滅に奔走したが不遇に死す

<本文から>
(結局、環境といういれものづくりに励まなければこの悪習はなくならない)と判断した。農民たちをいくら道徳的に責めても、状況が変わらなければ、彼等はすぐまた元に戻ってしまうだろう。兵助にとって辛いことだったが、
 「この悪習をなくすのには、時間がかかる」と思った。彼は時間をかけて、前に書いたような、質屋の利子を下げたり、あるいは元捨制などを導入し、あるいは、普請奉行に対する河川改修の賄賂を廃止させたりすることを徹底して、とにかく生産者の所得が増えるような工夫を続けた。そういう環境つくりをしなければ、いくら女性の立場に立って、体を売って借銀・借米の返済金を稼ぐのを止めさせろといっても守られないからだ。女の方も、また亭主のことや家のことを本気で考えれば、ついつい、そういう方向に走ってしまうことは目に見えていた。
 しかし、変化が起こった。熱心に自分たちの話を開き、一部ではやむをえず奇習に走る男たちの気持ちを、兵助がよく理解したからである。女性たちの立場はより以上に理解された。これが、兵助のいないところで男や女の話題になった。
 「こんなことをいつまでもしていては、賀島様にすまない」という気風が生まれてきた。底無しの谷をずり落ちていた農民たちが、にわかに斜面で踏み止まったのである。そして、底を見詰めていた日を、逆に斜面の上に向けはじめた。そこには、つらい道程を越えるという前提があったが、しかし青い空が広がっていた。それが、農民たちに希望を持たせた。彼等は、次第に妻に体を売らせることをやめた。そして、賀島がどんどん改善して行った借銀・借米の返済制度の流れに入った。数年後、この奇習も完全に撲滅された。
 こういうように、賀島兵助は、田代領の農民のために奮闘努力した。しかし、彼のやったことは、村馬本藩にとっては、
 「賀島は、農民を太らせ、藩を痩せさせている」といわれた。
 そういう報告を対馬に送っている部下が何人もいたからだ。そんな部下は怠け者で、兵助が赴任する前は、賄路と酒と女の上にあぐらをかいてくらしていた。河川改修をはじめ、諸工事などもすべて権力を濫用した。困窮農民の妻の売春行為を黙認していたのも、こういう層である。黙認していただけではない。かれらは積極的に女たちを番所や自宅に呼びつけた。ことが終わって、
 「あの、お代を」
 と女たちがおそるおそる申し出ると、
 「ばか者、何をいうか!」
 と怒鳴りづけた。それこそ、
 「使って減るものではあるまい?」
 といわれた。泣き寝入りである。賀島兵助は苦慮した。しかし見すごすことはできない。かれは役人たちにいった。
 「改善は隗よりはじめよという。たのむ。村の悪習を正すために、おぬしたちも協力してくれ」
 役人たちは、はい、はいと答えた。が、ふたつ返事にロクな対応はない。頭からバカにし、その気がないことを示している。役人たちは改めなかった。というのは、代官は大体二年くらいのローテーションで交代してしまうからだ。現地採用の役人もいる。
 「代官はどうせすぐ代わる。そんな奴らの点数かせぎに協力なんかできない」
という気持ちを持っていた。兵助は、いつまでたっても自分のいうことをきかない役人たちに腹を立てた。
 「たのむ」といっていたのが、
 「やめろ」に変わった。それでもラチがあかないと罰を与えた。代官所内での職分も変えた。それでも改めない者はついに対馬に戻した。こういう連中が兵助をほめるはずがない。
 「賀島様はことさらに藩の不利益をはかっている」と告げられた。しまいには、豪農民と不穏な企てを立てているように告げられた。藩庁も眼を光らせはじめた。そして、ついに兵助に、
 「任を解く。対馬に戻れ」
と命じた。このことが知れると、村民はこぞって正代官に嘆願した。
 「賀島様を、このまま田代領においてほしい」と。兵助をよく知る正代官は、このことを本藩にとりついだ。が、本藩は、
 「賀島は、領民を使って留任を策している。よほど何かあるのだ」とカンぐった。領民の嘆願は却下された。
 貞享元年(一六八四)、農民たちの熱心なる嘆願にもかかわらず、兵助はついに対馬に召喚された。三郷二町の領民は、「やむをえません」とあきらめたが、
 「それでは今までのお世話になったお礼に、賀島様へのご恩報じとして対馬藩に毎年育五十石のお米を差しあげます」と申し出た。しかし、こういうことも本藩の一部重役の不快感をさそった。「賀島兵助だけが人気者になっている」と思われたからである。対馬に戻った兵助は、藩政改革の意見書をしばしば出した。それは、田代領における経験が基になっていた。藩では受け付けなかった。そして、賀島兵助はついに幽閉きれてしまった。やがて、不遇のうちに元禄十年四月九日に死んだ。しかし、彼の志は、平成の今日も立派に旧田代領の地域に生き抜いている。
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■中江藤樹は孝養を生き方の指針にする

<本文から>
 ふたりの二番家老は中江藤樹のところにやってきた。そしてしつこく、
 「本心はどこにあるのか?」と問いただした。しかし、藤樹はまっすぐにふたりを見返し、澄んだ瞳で懇々と自分の考えを述べ立てた。およそ武士にとって母に孝養を尽くすというのは、今は形骸化している。つまり、日常行為の中に溶け込んでしまっているから、とくに「孝」ということを取り出して、武士が人生信条にするということはあまりない。それを、藤樹は真っ向から取り出して、
 「その孝に殉じたい」と熱弁を振るった。その様子にふたりは打たれた。きいているうちに、ふたりとも、
 (この男の考えは本物だ)と思いはじめた。そうなると、一番家老にいわれて、裏をさぐりに来た自分たちの方がかえってうしろめたくなった。ふたりとも好人物だった。帰途こもごも、
 「中江藤樹は立派だ。本気で母親のことを心配している。しかもそれを武士の生き様の核にしている。オレたちも反省すべきだ」と語り合った。そして、そのことを一番家老に告げた。一番家老の佃は、ミイラ取りがミイラになって戻ってきたので気分を害した。
「おまえたちは単純だ。中江の申し出にはかならず裏があるはずだ。ヤツは、本藩に戻りたいのだ。しかも、待遇も改善してくれということだろう。だから、ごねるのだ」といい続けた。二番家老のふたりは首を振った。
 「中江は決してそんな人間ではありません。あの男は立派です」と抵抗した。
 一方、中江藤樹のほうも二番家老が帰ったあと、ふたりのいうことをかならずしも信じなかった。それは、一番家老の佃の対応で懲りていたからである。
 翌寛永十一年(一六三四)藤樹はついに脱藩した。無断で藩を捨てた。書き置きは残した。それには、
 「これ以上母をひとりにしておくことは忍びないので、ふるさとに戻ります」と書いてあった。
 大洲藩は追手を差し向けなかった。おそらく、二番家老の平田や加藤たちが必死に上層部を説得したのだろう。藩はそのまま黙認してしまった。ふるさとの小川村に戻った藤樹は、すぐ生活に困った。そこでかれは持っていた刀を売り払って、酒を買った。この酒を農民に売った。得た金で今度は米を買った。その米を農民に貸した。得た利子を元手にして農民や商人に貸した。金融業まではじめたのである。こういう藤樹の生き方に、村の人たちははじめ反発した。
 「学者が、商人のマネをして金もうけをしている」と非難した。ところが、藤樹の日々の生き方が、あくまでも母の市に孝養を尽くし、学問に専念しているのでしだいに見方が変わってきた。なかには、藤樹のところに来て、
 「学問を教えてほしい」と申し出る者もいた。藤樹は快くこういう連中に学問を教えた。しかし、かれの教えるのは死んだ学問ではなかった。生きた学問だった。現実の村の生活に役立つことを教えた。これが評判になった。どんどん門人が増えた。有名な話がいくつも生まれた。たとえば、この付近を通過した商人が、宿に着くと、途中で持っていた金をすっかりなくしたことに気がついた。商人は真っ青になった。ところが夜になると、昼間かれを馬に乗せた馬方が訪ねてきた。そして数百両の金を出して、
 「これは、あなたのお金でしょう」といって返した。感謝した商人は、そのうちの一割を取り分けて馬方に礼として与えた。馬方は首を振った。絶対に取らないという。商人がさらに金を受け取ることを強要するので、馬方はこういった。
 「それでは、二宮文だけください。ここまできた駄賃です」
そして二宮文受け取ると、すぐその金を宿屋の亭主に渡して酒を持って来させ、商人たちにふるまって帰っていった。商人はふしぎに思って宿屋の主人にきいた。
 「馬方はなぜあんなに正直なのだろうか?」宿の主は答えた。
 「柑に中江藤樹先生という学者さんがおられて、村の人々はその教えを守っているのです。この村では、もう人の物を盗む人間はだれもおりません。ですから、夜でも家々は全部戸を開け放しております」商人は非常に感心して、この話をあちこちで伝えた。この話をきいて、やはり近江内の祖母のところで貧しい学究生活を送っていた熊沢蕃山が訪ねてきた。蕃山は、何としても藤樹の門人になりたいと願った。が、藤樹は承知しない。
 「おまえの学問に対する志のほどがよくわからない」といった。蕃山は、それでもへこたれずに藤樹の家の前に座り込みをはじめた。見かねた母の市が、
 「せめて、家の中に入れてあげなさい」といった。蕃山は藤樹の弟子になる。そして、蕃山がやがて岡山藩の家老職になったとき、かれは藤樹から学んだ「心学」を広める。ところが、この心学が、そのころの幕府の学問に対する考え方とははなはだしく異なっていたので、蕃山はやがて藩から追放される。蕃山は藤樹の忠実な弟子であった。
 こうして、完全に小川村に腰を据え、多くの弟子たちを教えながら生き抜いた藤樹であったが、その根幹には常に母市に対する孝養が据えられていた。かれの考える孝というのは、
 「孝は、いってみれば人間生活の鏡である。すべてが映し出される。そして孝を貫けば、人間に対する愛と敬に発展する」と説き続けた。中江藤樹は、慶応元年(一六四八)八月十五日に死んだ。まだ四十一歳である。母親の市は、その後も生き続けた。市が死んだのは寛文五年(一六六五)のことである。八十八歳であった。
▲UP

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