童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小林一茶

■継母との争いでひがみが始まり、江戸に赴くことに

<本文から>
 小林一茶は、宝暦十三(一七六三)年五月五日に、信州の柏原というところで生まれた。現在の長野県上水内郡信濃町柏原である。ここは北国街道の大きな八つの宿場の一つで、特に加賀前田家が大名の参勤交代で必ず泊まる宿場でもあった。しかし、全体に標高七百メートルの火山灰地で、地味は薄い。そのため水田が少なくほとんどが畑地だった。戸数は約百五十戸で、七百人の人々が住んでいたという。米は少なく、アワ、ヒエ、ソバなどがつくられた。
 一茶の父は小林弥五兵衛といった。母は近くの実力者宮沢家からきた人だった。小林家の収入は六石五升あったという。自作農だ。この地域では「中の上」にランクされる農業経営者である。しかし父は病身だった。一茶の名は弥太郎といった。弥太郎が三歳のとき母が死んだ。
 まだ祖母が生きていたので、弥太郎は祖母が育てた。しかし、八歳のときにその祖母も死んだ。そうなると家に女手が全くなくなってしまったので、父親は後妻を迎えた。一年後に弟が生まれた。弟の名は仙六といった。
 ところがこのころから、一茶の性格は次第にかたくなになり、子供ながら全てを斜めに見るようになった。原因は、継母との争いである。
 継母は世間にはよくあることだが、かわいげのない少年一茶を敵視した。仙六が生まれると、
 「弟のお守りをしておいで」
 と、仙六を押しつけいつも子守をさせた。これもこの年頃の少年によくあることだが、子守をいいつけられてもつい遊びに夢中になって、赤ん坊をほったらかしにすることがある。そうなると預けられた赤ん坊は泣く。声を聞きつけると継母は飛んでくる。そしていきななり一茶を叩き、
 「お前は弟がそんなに憎いのか?」
 と怒った。一茶は、
 「そんなことはないよ」
 というが、継母は信用しない。
 「うまいこといってもだめだよ。赤ん坊があんなに泣いているじゃないか」
 と泣いている仙六を抱き上げ、
 「おおよしよし。かわいそうにね、え、お兄ちゃんがいじわるでお前のことをほったらかしにして遊んでばかりいるものだから。全くしょうがないお兄ちゃんだね」
 と嫌味たっぷりにいって去っていく。残った、一茶は屈辱感でいっぱいになる。
 このころから一茶はひがみ始めた。それはただ継母にいじめられるというだけではなかった。近所の目が非常に気になりだしたのだ。つまり、
 「あいつの母親は継母だ。あいつは母親のない子供だ」
 というような目で見られてはいないかと気にし始めたのである。今でいえば被害妄想であり過剰反応なのだが、この一茶の気持ちはわかる。父親にしても一茶ばかりかばうわけにはいかない。時折そっと呼んで、
 「新しく来たお母さんともう少しうまくやってくれないかな」
 という。そうなると一茶のほうは、
 (お父さんも、新しいお母さんに嫌われないために、俺をいじめるのだ)
 と思う。この険悪な空気はだんだん色漉くなっていった。父親は病身だからよけい気に病む。気に病むとまたさらに体が悪くなる。こういう悪循環を繰り返していた。
 父親は考え抜いた末、決心した。それは、
 「一茶を家から出そう」
 ということである。
 「一茶がこのまま家にいると、いつもごたごたが起こって家の中の空気が暗い。あいつも家にいないほうがかえっていいのではなかろうか。思い切って江戸に奉公に出そう」
 と思い立った。そこである日一茶を呼んで自分の考えを話した。一茶は真っ青になった。そして恨めしげに父親を上目使いに見て、
 「やっぱりそうか。お父さんは俺を見放すんだ」
 とひねくれた。父親は、
 「そうじゃない。家の暮らしも私が病身なためになかなか思うようにいかない。口減らしのためもあって、しばらくお前に江戸にいってもらったほうが助かるんだ。それとお母さんとの争いが今のように続いたのでは、お前も辛かろう。思い切って江戸に行け。そして頃合をみて帰ってきてもらいたい。わたしは決してお前を憎んではいないよ」
 そういった。
 その夜、一茶は床の中でさめざめと泣いた。ふとんが涙で濡れた。しかし、泣いているうちに一茶も次第に、
 「江戸にいった方がいいかもしれないな」
 と思い始めた。思い返してみれば、父親は一茶が憎いわけではない。一茶のことを思って江戸に行けといっているのだ。
 そう思い立つと、今度は花の都江戸のいいところだけが頭の中に浮かび始めた。

■一茶の時代が来る

<本文から>
 松平定信の厳しい政治は、俳諧の世界にも影響した。
 つまり都の中央で行われていた、華麗な俳風は次第に息をひそめ、質朴な"土くさい""田舎くさい"、いってみれば、人間の本然や自然との関わりの多い作品が、重くみられるようになってきたのである。
 ということは、一茶がそれまで都の中央に出られず、江戸と田舎の境目でかろうじて息を保ってきた俳風が、逆に光を浴びるようになってきたのだ。一茶は心をおどらせた。
 (やっと自分の時代がきた)
 という思いであった。
 十五歳の年に初めて江戸に足を踏み入れ、突然襲ったカルチャーショックに大きな打撃を受けたかれは、その華麗さと闘うことができず、土くさい江戸の片隅に引っ込んだ。
 そしてわずかに、葛飾派と呼ばれた土くさい俳風の中に身を投じ、それなりに修行を続けていた。
 しかし当時の田沼政治の下では、
 (われわれの俳風が、世の中で主流になることは絶対にあるまい)
 と考えてきた。それが突然世の中が変わった。土くさい俳風が主流になりつつある。
 これは、文芸も時の政治情勢によって変わる人々の意識と、大きく関わりを持つということである。つまり文芸にも、
 「需要と供給」
 の関係がある。需要というのは、
 「求められる量」
 というよりも、むしろ、
 「求められる質」
 といった方がいい。つまり、
 「その時その時の時代に生きている人々が、求めるもの」
 のことである。
 松平定信が老中に任命されたのは、天明七(一七八七)年のことだが、天明は九年一月二十五日に「寛政」と改元される。そのため松平定信が展開した政治改革を、
 「覚政の改革」
 と名付ける。
 小林一茶は、この寛政初年に、次のような俳句を詠んだ。
  いままでは踏まれていた花野かな
 (いままでは踏まれ続けてきたのに、急に美しい花が咲く野に変わった)

■誇りをもって誇りを捨てる

<本文から>
 一般に芸術家の気質のひとつに、
 「俗物や俗界を蔑視する」
 というのがある。これは俗人に対する芸術家の精神的優位を示すもので、誇り、うぬぼれ、カッコつけ、気取りなどによって示されるが、何れにしても、
 「自分は俗人より一段高い精神的次元に存在している」
 という自覚である。錯覚の場合もある。しかし本人にすれば、その高い精神性を保ち続けることによって、
 「おれは俗物ではない」
 と思い込むことが、自分の芸術活動を支える唯一のパワーになる。
 では、こういう連中が蔑視する"俗物性"というのはいったい何だろうか。
 卑しい、俗っぽい、みにくい、よごれている、欲ばり、自分のことしか考えない、ナリフリかまわない、他人をきずつける、アコギ、あくどいなどの諸行為だろう。
 一茶は俳人だ。当然、俗界から離れ、
 「高い精神的次元に生きている」
 はずだ。ところが一茶はそうではない。この父親の死によっておこる遺産争いに一茶は全精力を注ぐ。生命を燃料として完全燃焼させる。中途半端な争いではなかった。本気で争った。つまり一茶は俳人として軽蔑する"俗物性"を、完全に発揮するのだ。しかもその激しい闘いは、父親がまだ死なないうちから始まった。はっきりいえば、病の床についている父親の枕元で始められたのである。
 父親が死んだのは享和元(一八○一)年五月のことだが、弟と義母との遺産争いは、すでに四月から始まっている。弟と母親はいいつのった。
 「あんたに相続権はありません」
 「いや、ある」
 一茶はいい返す。弟は、
 「そんなことをいっても、お兄さんは十五歳のときにこの家を出たじゃありませんか。あのとき、このお父さんからなにがしかのお金をもらったはずです。それでお兄さんの分は済んでいる。お兄さんがいなくなったあとの小林家の財産は、みんなわたしとお母さんとで汗水垂らしてつくりあげたものです。お兄さんの分は一文足りともない」
 「そんなことはない。いまの小林家の財産は、何もお前とお母さんとだけでつくったわけでもなかろう。お父さんだって働いてきた。ましてわたしは小林家の長男でもあるし、家を出たときに相続権を放棄した覚えはない。相続権はある。お父さんが死んだら、必ずわたしも遺産をもらうよ」
 「そんなことはさせませんよ。お兄さんには、一文たりとも渡しません」
 「渡すさ」
 一茶は引きつった笑いを浮かべた。
 そして、父親とふたりだけになったときに、
 「お父さん、約束通り遺言状を書いてくれよ」
 と迫った。父親は、近ごろの一茶の看病ぶりが気に入っていたので遺言状を書いた。内容は、
 「この家の財産は、すべて一茶と弟の専六に二等分する」
 ということだった。いわゆる均分配分だ。
 全体に日本の遺産配分は、「長子相続」制が採られているが、この頃の信州ではこの「均分配分」がおこなわれていたという。したがって父親が遺言状を書いたのは、必ずしも小林家独特のものではない。地域一帯におこなわれていた遺産配分方法を、文書にしただけなのだ。一茶は勝ち誇った。そこで弟とつがにこの遺言状を示した。ふたりは目を見張り、顔を見合わせた。
 (一茶にしてやられた!)
 と感じた。

■消えない故郷愛

<本文から>
 しかしそれが揺らいだ。揺るがせたのは、かれの社会的立場である。ということは、かれの心の底では依然として故郷とのつながりの糸があって、これが切れていない。糸をたぐっていけば結局は生まれ故郷につながっている。
 ということは一茶の心の底に、
 「望郷心」
あるいは、
 「懐郷心」
 が、いつもたゆたっていたといえる。根雪のようなものだ。決して解けない。
 一茶はこの根雪の存在に気がついて、故郷に戻った。そして壮絶な財産獲得闘争を展開した。
 弟にしても継母にしても戸惑ったに違いない。面食らった。
 「なぜいまごろ一茶さんは財産を半分よこせなどというのだろう?」
 と眉をひそめた。継母と弟にしてみれば、
 「一茶さんは、すでに亡くなったおとうさ端から財産の分与を受けて、江戸へいった。その江戸へいく時に、二度とこの家には戻らないと宣言したはずだ。それなのにいまごろまたのこのこ戻ってきて、財産の半分を自分のものだというのはおかしい」
 ということだ。これは継母と弟の方が理屈が立っている。一茶の方がおかしい。そのおかしさを一茶は強引に貫いた。親戚の応援もあった。継母と弟にすれば、
 「おかしいのは一茶さんだけではない。一茶さんを応援する親戚もおかしい」
 と怒ったに違いない。
 いま思い返してみれば、さすがの一茶も、
 「オレのやったことは、少しおかしい」
 と反省する。
 むかしの人がこんなうまいことをいっている。
 「人間が激怒する時は、原因は他にあるのであって、怒っている相手に過失があるわけではない。本人が怒りたい相手は、別のところにいる」
 あるいは、
 「他人に対して妙にやさしさを発揮する人間は、どこかうしろめたいところがある」
 一茶はこの言葉が自分の気持ちにぴったり適合していることを知っている。一茶はよく弟や継母に対して怒った。しかしその怒りは、必ずしも継母や弟に原因があったわけではない。一茶自身も、財産の獲得闘争をしている時に、
 (本当に俺は正しいのだろうか?)
 と、何度も自分の行為をうたぐったことがある。
 (少し強引過ぎるのではないか)
 と反省したこともある。しかし、いったんいい出したことは貫かなければならない。
 これもよくいわれることだが、
 「例え嘘でも、その嘘をつき続ければ真実になる」
 あるいは、
 「嘘をつく時は、本人がその嘘を信じなければならない」
 というような言葉もある。したがって一茶は、継母と弟に対する財産獲得闘争にしても、一茶自身は、
 「この要求には、どこかうしろめたさがある」
 ということを知っていた。しかし、
 「そのうしろめたさも、俺が要求し続けることによって消えるはずだ」
 という、自分の気持ちの操作、あるいは管理があった。一茶はそれに成功した。継母と弟は根負けし、ついに財産を半分差し出した。一茶は勝った。しかし後味の悪い勝利である。というのは、もともとこの要求自体に、
 「これは正当ではない」
 という、一茶自身のうしろめたさが存在したからだ。
 一茶は人間が変わった。まわりの人々に器官に温かくなった。しかしそれは、
 「財産を獲得したうしろめたさの裏返し」
 といってもいい。自分が得た財産は筋が通って得たものではなく、かなり強引なやり方で得たことに、一茶自身は罪の意識を感じていた。したがって他人に対するやさしさや思いやりやいたわりは、
 「その罪を償う行為」
 であった。
 人間の行動はこういうように複雑だ。とくに一茶のように屈折した精神を持っている人間が、他人に示す行動の深層には、こういう屈折した思いがある。
 しかしいずれにせよ、他人からやさしくされ、他人にやさしくするというのはうれしいことだ。いままでに経験したことがないだけに、一茶はまるで春のぬくもりの中に浸っているような気がしていた。これは一茶自身にとっても意外だった。
 「俺にこんな素直な気持ちがあったのか」
 と、みずからを疑うような変化ぶりである。

■毎年のように続い業

<本文から>
 江戸の方でも句界に変化がおこっていた。
 「芭蕉に戻れ」
 という運動が起こり、いままでの華やかな言葉遊びから、
 「芭蕉の初心原点に戻ろう」
 という質朴な句風に戻りはじめていたのである。そのため、華やかな言葉遊びの時はその価値を認められず、結局は江戸郊外の房総方面でしか俳句をつくることのできなかった一茶の名が、急に高まった。
 「おまえさんの名が有名になっているよ」
 ときいた一茶は、すぐ調子に乗って房総各地に出かけていった。そして各地の知友を訪ねては、みんなのほめ言葉にいい気分になった。
 ところがあまり調子に乗りすぎて、十二月に松井という知人の家で酒を飲みすぎ、寝ぼけて板の間に小便をした。松井宅の家人たちは眉をひそめて一茶をにらみつけた。いま思い出しても痛恨の極みで、
 「いま思い出しても夜寝られないほど恥ずかしい。自己嫌悪で身もだえする」
 という事件であった。
 しかし一茶の業はそれで終わったわけではない。その後も毎年のように続いている。
 文化十三(一八一六)年五十四歳になった時に、遅い子長男の千太郎が生まれた。ところが一方月しか生きずにすぐ死んでしまった。そのため、精神的な痛手が体にあらわれたのか、オコリを発病した。妻のきくとはひどい険悪な状況になった。しかし思い返し、
 「おい、きのこ狩りにいこうか」
 と誘った。一茶にすれば、
 (長男の千太郎を失った心の痛手は、実際に体を傷めた妻の方が大きいだろう)
 と考えたからだ。

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