童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小早川隆景 毛利一族の賢将

■三本の矢の意味。隆景への戒め

<本文から>
「父上、還暦おめでとうございます」
 こもごも祝いの言葉を述べる元春と隆景に、元就はうなずいた。が、かならずしもうれしそうな表情はしていない。もともと元就は深刻癖のある性格で、いつも渋い頗をしている。
 しかし、きょうはその表情がとくに重い。
 元春と隆景は顔をみあわせた。注意してみると、元就の脇に弓の矢が何本か置いてあった。
 久しぶりに集まった三人の息子たちを前にして、元就は矢の群れから一本取り上げた。そしていきなり、ビシツと激しい音を立てて宙で折った。
 それでなくても寒気の厳しい部屋の中で、矢の折れる音が際立って大きく響いた。
 隆元はビクッと頼を引きつらせ、肩をすくませた。元春は怪訝な表情をして父親の行為をみつめている。
 しかし隆景だけは、父元就の行動の意味を敏感に悟った。隆景は、
(折られた矢はおれだ)
 と直感した。
そのとおりだった。元就はなにもいわない。黙って隆景をにらみつけていた。日の底が鋭い。激しく燃えている。まるで息子に対するそれよりも、仇敵に対するような炎が燃えている。
(親父はおれを憎んでいる)
隆景はそう思った。そして父親をみかえした。宙でふたりの視線が激突した。
やがて元就は肩からカを抜き、再び手を伸ばして矢の群れから今度は三本取り上げた。そして、懸命に折ろうとした。
隆元が薄いわらいを浮かべながら、おずおずといった。
「父上、いかな父上でも、三本の矢をまとめては折れませんよ」
これをきくと、元就は相好を崩し、可愛くてしかたがないといった衷情で隆元をみた。
 そして、再び隆景に視線を戻した。笑みは消えていた。元就はいった。
「隆元のいうとおりだ。矢は一本ではすぐ折れる。しかし三本集まれば折れぬ」
 隆景には、父親がなにを伝えようとしているのかよくわかった。
 (やりすぎるおれへの戒めだ)
 かれははっきりそう感じた。

■三本の矢の遺訓の再検討

<本文から>
「こうなると、父上の三本の矢のご遺訓も少し考えなおさなければなりませんな」
 隆景がポツンといった。元春は目をむいた。
「どういうことだ」
「三本の矢のご教訓では、われわれ兄弟が心を結び、毛利本家を支えよというお諭しだけではございませんでした。父上は、天下に目を向けてはならない、ましてや天下の争いに巻きこまれてはならないということを懇々とお諭しになりました。しかしそのお教えを守り抜くのには、世の中の変わりようが激しすぎます」
「おれもそう思う」
 元春はうなずいた。そして隆景の膝から安国寺惠瓊の手紙を取り上げ、もう一度自分が、
「興味ある見方だ」
 と告げた、織田信長と羽柴秀吉に対する惠瓊の考えが書かれている箇所を睨んだ。
「案外、惠瓊の予感は当たるかもしれない」
「わたしもそう思います。織田信長はやはり無理をしすぎます。伸びに伸びきった糸は必ず切れます」
「おまえのいうとおりだ。そこへいくと羽柴秀吉のやつは、ヘラヘラしながらも着実に播磨へ手を伸ばしてきている。油断がならない。やがては、羽柴秀吉との大決戦が毛利家にも迫ってくる。あれ以上、羽柴秀吉のやつを中国筋に入れるわけにはいかない」
「そうなると、父上が天下の争いに巻きこまれるなとおっしゃったお教えにも、背く結果になりますな」
「やむを得ない。父上があのお教えをお書きになった時とは、情勢のほうが変わってしまった。われわれ毛利一族は、あくまでも天下の争いに巻きこまれまいと努力をしてきた。しかし天下のほうが逆にわれわれを巻きこむようなことをしはじめている。放っておけば、父上が固くお命じになった現在の毛利家の領土にも、織田信長は手を伸ばしかねない。自衛上戦わざるを得ない。このことは、ご遺訓が書かれた当時と状況が違うのだから、父上もあの世でお許しになろう」
「兄上がそこまで腹をくくっておられるのなら安心です」
「うまいことをいうな。おまえだって同じ気持ちのはずだ」
「そのとおりです」
 気の合った兄弟はここで類をみあわせて大きくわらった。
一般に、この兄弟は、
「兄の元春は、豪気果断の性格で、決断力にすぐれ戦場で勇猛な働きをする武将だ。そこへいくと弟の隆景は、なにかにつけて慎重に熟慮し、なかなか決断はしない。しかし一旦決断したとなると、これもまた勇敢に戦う武将だ」
といわれてきた。この批評によれば、どちらかというと吉川元春は勇猛果敢な猛将であって、あまり文化面に心を用いなかった印象を受ける。文化人大名は隆景のほうだというふうに受け止められていた。が、実際には吉川元呑も相当な文化精神を持っている。かれは、『太平記』を愛していた。読むだけではない。あの長い書物を、暇をみては筆写していた。
「太平記の中にはおれの好きな文章がたくさんあるのだ。読むだけではもったいない。書き写して自分のものとしたい」
 よくそういっていた。隆景はそういう兄の生き方に心の底から敬愛の念を持っていた。
(兄は決して無骨な武将ではない。心に潤いのある立派な大将だ)
 と、こういう兄を持ったことを誇りに思っていた。その元春がいった。
「惠瓊はその書状の他に、おれにこういうことをいった。毛利家と織旧家のあいだに立って、仲介の労を取ってもいいと」
「ほう、なんのつもりでしょうフ⊥
「できれば、毛利家の家臣になりたいともいっていた」
「しかし惠瓊は、われわれ毛利一族に減された安芸の守護武田家の適児でしょう? 恨みがあるはずです。なにか裏があるのでは」
「いや、坊主になってからそういう恨みは忘れたそうだ。たしかにかつてはそういうことも考えた。そのために織田と組んで、毛利を滅すような気持ちを持ったと正直に告げた。が、いまは適う。われわれの父元就が目指した、中国地方での安定の確立は、やはりこの日本にとって大きな意義があるというのだ。しきりに父を諾えていた。ああいう考え方ができるとは、人間というのはなかなか複雑なものだと思ったよ」
「それが、兄上の太平記好きの理由でもありますな」
「からかうな」
 兄弟はまたわらいあった。
「しかし惠瓊にはなかなか周旋の才能がある。場合によっては、織田に対しあいつを使うことも考えられる」
「足利将軍家がわが領土内に上陸したとなると、いよいよその必要がさし迫って起こるかもしれませんな」
 兄弟は合意した。

■小早川隆景が生きていたら関ヶ原はなかったかも

<本文から>
秀吉の晩年に、小早川隆景は豊臣政権を支える五大老のひとりに加わる。
「歴史にもしはない」
 といわれる。しかし小早川隆景がその後も無事に生きていたら、あるいは関ケ原の合戦はなかったかもしれない。当然大坂の陣もなかったろう。
 しかし隆景は朝鮮に在陣中から身体を壊した。そして慶長二年(二九九七年)六月十二日に卒中のために死んだ。六十五歳である。隆景の後を継いだ秀秋は五十二万二千五百石という大領地を手にしたが、やがて慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いでは、豊臣家を裏切って徳川家康の味方をする。小早川秀秋の裏切りが関ケ原の合戦を左右したといわれる。家康はその行動に対し、備前岡山城に、ほぽ同程度の領地を与えたが、二年後に秀秋は狂死してしまう。これによって小早川家は断絶した。しかし降景は、小早川家を犠牲にすることによって毛利本家を守り抜いたのである。

■小早川隆景の雪合戦のエピソード

<本文から>
 小早川隆景についてはいろいろなエピソードがある。
 毛利元就が少年だった息子の元春と隆景に雪合戦を命じた。ふたりとも数人の遊び相手を部下として与えられた。一回目は、正攻法で戦ったために元春側が勝った。二面目に隆景は策謀を講じた。自分の仲間を何組かに分けて三方に配置した。敵の数が少なくなったのをみて元春はさっきと同じ正攻法で攻めてきた。隆景は逃げた。元春は追ってくる。すると隆景の合図で両側に障れていた子どもたちが奇襲した。元春側は破れた。これをみて
いた元就は笑った。そして心の中で思った。
(元春は内陸部における敵を攻めるのが得意だから山陰の吉川家の養子にしよう。隆景はなかなかの策謀家だから一筋縄ではいかない瀬戸内海の海賊たちの親玉にしよう)
このようにして隆景は水軍の束ねをしていた小早川家の養子に入ったのである。
 小早川隆景が常に座右の銘としていた言葉は、
「慎重」
 であった。かれは部下に対してもよくこういうことをいっている。
「オレの話をきいて、すぐわかったという人間にわかったためしはない。本当にオレの話を理解する者は必ず質問する。そして納得した後に仕事をはじめる。みんなもそうなってほしい」

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