童門冬二著書
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          清盛の平家経営術

■正盛の白河上皇への奉仕

<本文から>
  北面の武士とは、平氏といわず源氏系でもノドから手が出るようなポストだったのである。北面の武士を命ぜられただけでなく、正盛は小国隠岐守から、若狭、因幡とステップアップし、永久元(二三)年には大国の備前守に任じられている。
 たとえ領地を六条院に寄進しても、土地の実際の管理(年貢などの徴収)は従来どおり正盛に任されていたので、正盛は寄進した土地に自分の部下を代官として派遣していた。したがって、収入に関する事務手続きは従来とまったく変わらない。もちろん白河上皇もそんなことは百も承知だ。
 しかし、上皇ゆかりの六条院に土地寄進があった、という事実は大いに吹聴できることでもある。それに、今伊勢に完全に根を張った平氏の棟梁が、進んで上皇に土地を寄進したという事実は、
 「白河上皇は、平氏を手兵として御支配になった」
 ということを印象づける。当時朝廷の政務を牛耳る摂関家が、その手兵としていたのは源氏である。したがって、白河上皇が平正盛の申し出でを快諾したのは、
 「摂関家に味方している源氏のカを抑え込みたい」
 という意図があった。もちろん、正盛もそんなことは百も承知していただろう。
正盛にしても、
 「日本の最高権威のお役に立つのは、平家一門でその座を占めたい」
 と考えていた。そして同時に、正盛の白河上皇への奉仕は、こういう形式的・名目的なものだけではなく、経済の面でも多くの金品を献上していたに違いない。そういう実益がなく、単に領地の寄進が名目だけのものであれば、上皇も正盛を急速に立身させるような応じ方はしなかっただろう。
 こうして、伊勢平氏は、単なる土着の地方豪族の域を脱し、急激に力を蓄えていった。この実績を企業になぞらえると、
 「前代が築いた実績をもとに、次の当主がさらにこれを増強していく」
という、骨の太い企業経営を継続していった、ということになる。
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■平忠盛は初めから「清盛の貴族化」を熱望

<本文から>
 普通の人間なら不名誉だと考えることも、彼にとっては名誉だった。だから、
 「白河上皇の子であることを隠すまい。堂々と主張しよう」
と思っていた。生まれた子は男の子だった。忠盛は喜んだ。そしてこの時に、
 「この子に、暮らしの苦労をさせずに、生まれながらの貴人であるという意識を植えつけよう」
と心を決したのであった。そのことで、長年苦しんできた公家の番犬″である武士階級から脱し得る大きな動機付けができると思ったからである。そしてそれは成功した。忠盛の野望は、
 「武士階級から飛び抜けて、武力を持った貴族になる」
ということであった。企業経営でいえばまったく新しい事業組織を立ち上げるということだ。その野望の第一段階は、石清水八幡宮で十二歳の清盛が華やかに舞い、貴族社会への第一歩を踏み出したことによって実証された。忠盛の感激はひとしおだったに違いない。のちに平家が滅びた時、
 「平家を滅ぼしたのは平家だ」
といわれた。その大きな原因は、
 「平氏一族が、武士の初心原点を忘れて、貴族になってしまったからだ」
といわれる。つまり、武士の出身でありながら、その出身階層から脱して、公家社会に入り、日々の暮らしも公家的になったために、精神が弱体化し、結局、人間カを弱めて滅亡してしまった、というのである。しかしこれは考えてみれば、忠盛が初めから意図していたことであって、途中から、
「武士の貴族化」
を考えたわけではない。忠盛は初めから、
「清盛の貴族化」
を熱望していたのであって、その意味では忠盛は当初から、
「いずれ平氏は滅亡する」
ということを含んだ航路を歩んだといっていい。つまり、
「滅びることを前提にした武士の貴族化」
を因っていたということになる。もちろんこれは結果論であって、
「当初から滅びることを意図していた」
というわけではない。
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■平忠盛は「東国武士の初心を守る」いう経営方法を気がつかなかった

<本文から>
 忠盛は当初から、
 「いずれ平氏は滅亡する」
ということを含んだ航路を歩んだといっていい。つまり、
 「滅びることを前提にした武士の貴族化」
を因っていたということになる。もちろんこれは結果論であって、
 「当初から滅びることを意図していた」
というわけではない。忠盛は、
 「武士階層から脱して貴族社会に入り、独自の企業経営による平氏の永久的な栄華を達成すること」
を目的にしていたといっていい。そして忠盛は、のちに平氏の世を覆す源頼朝の、
 「東国武士の初心を守る」
という素朴な経営方法の存在に気がつかなかった。忠盛自身が否定してきた武士が、そんな力を持つとは思いもよらなかったからである。
 頼朝の経営方法は、忠盛自身が感じてきた、公家の番犬″扱いに対する諸国の武士たちの不平不満を集めて、これを土台にして新しいパワーを生み、全国的なネットワークをつくるという、いってみれば、
 「地方の小企業の集積体」
としての総合企業のそれであった。忠盛はそうした総合企業の発生と成長を予測することができなかったのである。そのために、
 「平氏を滅ぼしたのは平氏自らだ」
といわれるようになってしまうのだ。しかしこの段階において忠盛にそんなことを求めるのは無理だ。歴史自体がまだそういう動き方をしていない。
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■自分の立てた功績に対する褒賞をすべて息子の清盛に与えた

<本文から>
 さて、忠盛の平氏企業発展のための基礎となる「地盤・看板・カバン」の三バン″の確保のうち、地盤とカバンは着々と実績をあげていた。忠盛は周囲から何と言われようと、日宋貿易″にかなりカを入れていたからである。これによってかれの財力は計り知れないものになっていった。忠盛は、
 「儲けた富はすべて清盛に与える」
と考えていた。もう一つの看板、すなわち「平家の名を上げる」ということについて、忠盛は独特な方法を考え始めた。それは、
 「自分の立てた功績に対する褒賞をすべて息子の清盛に与える」
というものだった。こんな例はあまりない。保延元(一一三五)年の八月二十一日、西国における海賊追討で武功を立てた忠盛は、従四位下を与えられたが、
 「わたくしは結構でございますので、息子の清盛にお与えください」
と言った。朝廷では思わず眉をひそめたが、近頃の忠盛の勢いに加え、特に鳥羽上皇の覚えがめでたいこともあり、これを認めることにした。このとき清盛は十八歳である。そしてさらに翌保延二年には、やはり父の立てた武功を譲られて清盛は中務大輔に叙任された。さらに翌保延三年には、一月三十日に父が熊野本宮造営で受ける肥後守を譲られた。朝廷内ではみんな、ただあれよあれよと驚くばかりであった。そして保延六(一一四〇)年、二十三歳の時に清盛は従四位上に叙されている。
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■保元の乱では形勢観望

<本文から>
 息子清盛のために晴れ舞台を用意し、その後も花道を歩かせるべく努力した忠盛は、この時五十八歳である。息子の清盛は三十六歳だった。こうして清盛は"ステージパパ"を失い、いよいよ、
 「独立した俳優」
として、天下の舞台に躍り出ていった。それが保元の乱であった。
 この戦いで、敵味方を通じて最も活躍したのは源為朝であった。為朝は鎮西八郎″と称し、弓の名手だった。為朝が次々と射る矢に押されて、後白河天皇勢はなかなか勝敗を決することができなかった。この時、義朝の決断によって、崇徳上皇側が寵もる白河北殿に火がつけられた。この放火によって、上皇側はたちまち崩れ、 算を乱して退却を始めた。後白河天皇側が勝利したのである。頼長は死に、崇徳上皇は讃岐へ流された。弓の名手為朝も伊豆大島へ流された。
 しかしこの時の平清盛の活動は、必ずしも際立ったものではなかった。天皇側でも、もともと清盛に対してそれほど期待するところがあったとは思えない。生前、鳥羽上皇が、
 「頼むべき武士の面々」
として記録していたのは、源義朝・源義康・源頼政・平信兼・平実俊の五人だった。それに清盛の父忠盛の妻は、崇徳上皇の子である重仁親王の乳母だった。したがって清盛は重仁親王と乳兄弟にあたる。そのため、
 「乱を起こしても、清盛はおそらく上皇方に味方するだろう」
と見られていた。それを、
 「いや、清盛はこちらの味方にします」
と言って、強引に清盛に働きかけ、
 「故院(鳥羽上皇)の御遺言なので、そなたは内裏(天皇方)へまいるべし」
と引きずり込んだのが、鳥羽院の寵妃で、女性ながら権勢をほしいままにしていたといわれる美福門院である。
 だからこの時の清盛は、当初、崇徳上皇方であると見られ、そして美福門院によって強引に天皇方に引き込まれたという立場にあった。そのためか、これは筆者の推測だが、清盛はこの乱にあまり積極的ではなかったのではなかろうか。いってみれば、
「形勢観望」
という悪くいえば二股を掛けた立場にいたのではないかと思われる。つまり、あまり戦闘に身を入れていなかったのだ。この時天皇方に完全な勝利をもたらしたのは、やはり源義朝である。義朝は先頭に立って命懸けで戦った。清盛はおそらく、
 「日和見」
という曖昧な姿勢を保ったのだと思う。
 しかし、戦後の論功行賞はその清盛に厚く、必死で働いた義朝に薄かった。清盛は、播磨守に昇進した。さらに弟の頼盛、教盛の昇殿が許された。それにひきかえ
 義朝はわずかに右馬権頭に任じられただけである。これには義朝も怒った。
 「こんな不公平な恩賞はない」
と息巻いた。やむを得ず朝廷では義朝を左馬頭・正五位下に任じた。それでも、日和っていた清盛のほうがはるかに恩賞は厚い。こんなことにも、三年後に起こる平治の乱″の芽が育ち始めていた。
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■後白河天皇の院政時代に清盛は信西に接近


<本文から>
 保元の乱で後白河天皇側が胸中に抱いていた考えがある。それは、
 「いろいろと問題の多い院政を廃止して、天皇親政に戻すべきだ」
ということだ。天皇親政ということは、やはり天皇のもとにあって輔翼する「摂関家」の復活を策すということでもあった。
 後白河天皇の一番の側近が信西(藤原通憲)であった。妻が天皇の乳母であったことから、ずっと養育にかかわってきた。後白河を天皇にしたのは信西だともいわれる。保元の乱で後白河天皇側が勝利すると、信西は天皇親政を推し進めながら、つぎつぎと身内を要職につけていった。が、天皇親政というのは、この時期に咲いた一種の徒花のような夢であって、勝利者である後白河天皇は二年後に、守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇となって院政を開始する。そして日本国第一の大天狗≠ニいわれるような、辣腕を振るうのだ。それまでの院政時代とは一線を画し、その閥の組織の明確化や、人の属し方がはっきり目に見えるようになる。
 これによって、上皇・天皇・武士の三派による勢力関係がはっきり浮かび上がる。
 後白河上皇の院政は、実質的には信西の策謀によって行われていく。この信西に密着し、その策謀をはっきりした武力″をもって支えたのが、平清盛である。清盛は信西に接近すると、なりふり構わず、信西の息子成憲を自分の婿として迎えている。これは清盛が明らかに、
 「後白河の院政内に平氏の勢力基盤を築こう」
 としていることの表れであった。
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■平治の乱後、なりふり構わず平氏の皇族化をはかる

<本文から>
 太政大臣になる過程で当然通過すべき左大臣・右大臣の要職を略し、飛び越えてしまったのである。平治の乱が終わってからわずか八年後のことであった。御所の公家たちはもう呆れて物も言えなかった。が、呆れる心の底には、
 「清盛ならやむを得ない」
 という納得の気持ちもあった。というのは、清盛は単に無為無策でそこまでの高位に達したわけではない。しかるべき手を打っていた。それもなりふり構わず″である。
 平家の経営戦略には、清盛の父忠盛以来三バンの確立″があった。すなわち地盤・看板・カバンの把握と安定化である。カバン(財政力)の確立については、祖父以来、しばしば「日宋貿易」によっていることはすでに書いた。そして、基盤整備には、公家の番犬から脱し、「武士としての平氏」が「貴族(公家)としての平氏」 にのし上がるための諸策を講じたことも書いた。そうなると、
 「看板の確立」
を何によって得るかである。清盛の一点集中的な戦略では、あれもこれもと考える必要はない。清盛はひたすらに目標を定めていた。それは、
 「一介の伊勢の武士であった平氏を現在とにもかくにも、貴族化(公家化)することに成功した。看板を高く掲げるためには、この貴族化をさらに上位に押し上げることだ」
 という作戦だ。貴族すなわち公家からさらに社会的立場を高くするということは、行く先は一つしかない。それは、
 「平氏の皇族化」
である。しかし清盛はじめ、平氏の男性がそのまま皇族になる道はない。結局は、平氏の家に生まれた女性を宮中に送り込み、天皇や上皇との間に婚姻を結び、願わくばその間に生まれた皇子を天皇に仕立てることだ。清盛が一点集中主義で、この点について何も悩まなかったというのは、そういう前例を、かれは今までの藤原氏の栄耀栄華の基礎としてずっと凝視してきたからである。清盛は、
 「平氏がさらに栄華を極めるためには、この方法以外ない」
とはっきり決めていた。
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■瀬戸内海に注目してつくった厳島神社の人工の竜宮″

<本文から>
 一族が心を合わせる必要がある。つまり一族の結束が必要なのである。これは単に教育や躾だけではだめだ。
 「一族の絆となるある対象」
 が必要になる。清盛はこれを、
 「安芸(広島県)の厳島信仰」
 に求めた。これは単に一族の心を厳島神社への信仰で結束させるというだけではなく、実利も含んでいた。
 清盛は、仁平元(一一五一)年の春、安芸守に任命された。かれは遥任ではなく直接現地に行った。そして厳島神社の存在を知った。経営戦略としては、
 「自分が行った先で、経験したことは必ず経営に生かす」
 ということである。したがって、住民の尊崇の念の高い厳島神社を単なる信仰の対象としただけではなかった。かれは父忠盛以来の異国との貿易″を考え、その貿易にこの地も利用しようと考えた。この地を利用するということは、そのまま瀬戸内海を活用するということである。応保二(一一六二)年、清盛は宮島に近い福原(神戸市)の地に別荘をつくる。そしてこの地を貿易と政治の一大拠点とするべく、整備を進めていく。厳島神社参拝のために音戸の瀬戸(呉市の本州と倉橋島の間にある海峡)の整備もしている。また厳島神社を美しい竜宮のようにしたのは、仁安三(一一六八)年のことだが、この頃の清盛は太政大臣を辞任して出家していた。おそらく厳島神社を、
 「海底ではなく海上の竜宮に仕立てよう」
 という意図があったのに違いない。清盛は藤原氏のやり方を踏襲する一方で、このように、
 「自らの手で創りだす」
というクリエイティブな面も見せている。福原は人工都市″である。厳島神社も人工の竜宮″だ。かれはこういう創造的な営みをこの世で行うことに大きな喜びを感じていた。いってみれば、
 「夢見る人」
だったのである。しかもその夢をつぎつぎと実現した。実現するためには、
 「パワーとマネー」
が要る。それも積極的に手に入れた。
 瀬戸内海に注目したのは、おそらく一族で乱を起こした平将門とこれに連携する藤原純友の西海の乱にヒントを得ていたに違いない。
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■後白河法皇の攻撃と重盛の死去

<本文から>
 後白河法皇は、さまざまな機会を捉えては攻撃を仕掛けてきた。清盛の娘、盛子は、仁安元(一一六六)年に夫の摂政藤原基実が亡くなってから摂関家の遣領を相続していたが、治承二(二七八)年の六月に、盛子が死ぬと、法皇は領地を摂関家に渡さず全部没収した。それだけでなく、十月には、基実の息子の基通の存在を無視して、関白基房の子師家がまだ八歳だというのに、強引に中納言に任命している。翌治承三年に清盛の嫡子重盛が亡くなると、重盛の子椎盛が継いだ越前国を突然没収した。これは明らかに清盛に対する挑戦だった。いってみれば、これでもかこれでもかという清盛への嫌がらせだ。直属兵力を持たない法皇にすれば、結局頼るところは、
 「自分の知恵」
 以外にない。その知恵(悪知恵も含め)を大いに発揮して、朝延周辺のパワーを動かすことだ。パワーというのは、
 ●公家間の勢力争い。これに費やす公家パワー
 ●武力を行使する武士パワー
 である。この二つを交互に使い分けながら、あるいは一緒に使いながら自分の敵に打撃を与えていくことである。この時代は、法皇の戦法が成功していた。清盛はこういう状況を見ていて、
 「後白河院はおそるべき経営能力をお持ちだ」
と感ずる。
 この頃、治承二(一一七八)年、徳子の懐妊がわかり、清盛は狂喜した。十一月十二日に皇子が誕生し、すぐに皇太子とされた。言仁親王、のちの安徳天皇である。だが、その後重盛が急死したことは、清盛にとって大痛事だった。重盛は暴走する父清盛をセーブするために、しばしば面を冒して諌言し、バランスを保った調和の人≠ニいわれる。清盛が露骨に後白河法皇に敵対したときも、重盛が間に入って苦慮し、
 「思ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず」
 と嘆いた話は江戸時代の詩人学者、頼山陽が書いたため有名となったが、このことばをそのまま受け止めれば、重盛は必ずしも後白河法皇に対し敵慌心を持っていない。むしろ父清盛をなだめながら、後白河法皇ともうまくやってほしいと願っていた。何といっても、皇室とその経営する朝廷は、日本で最も古く最大のコンツェルンだ。迂聞に敵対することはできない。その権威と勢威は伝統があって、重みと深さは他の経営組織とは比べようがない。
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■平清盛の反撃、外孫にあたる皇太子言仁親王が即位

<本文から>
 後白河天皇の即位は美福門院や関白藤原忠通などの推挙によって行われたが、美福門院は、天皇の生母待賢門院との関わりからいえば、対立する勢力の頭目だ。しかし、即位後の後白河天皇は、本来生母の仇である美福門院に毎朝きちんと挨拶に行った。これは怠らなかった。美福門院側では、
 「帝は実に礼儀正しい」
と好感を持って受け止めた。これが対立する美福門院派と待賢門院派とのブリッジになり朝廷内の空気を和らげた。おそらく、
 「文にも非ず、武にもあらぬ」
といわれた後白河天皇の隠れた政治的資質だったのである。天皇(多く天皇に限らず当時の皇室)は、直属の武力を持たない。したがって天皇たちが武器とするのは、その政治能力である。それも知恵をめぐらし、対立勢力の中でどう生き抜くかということを探り出す。それにはやはり、
 「その時の政治状況や、今後の民心の行方」
を敏感に察知しなければならない。後白河天皇はその点、今様″などの民間歌謡を収集することにより、民心の現状とその行方″を鋭く喚ぎ取った。そうなると、
 「今の立場上何をすればよいか」
という方策も自然に浮かび上がってくる。清盛は当時の後白河天皇のこういう点を見落としていた。というよりも、まったく歯牙に掛けなかった。しかし、後白河天皇のこういう態度は、次第に崇徳上皇派の勢力を削減していった。やがて天下は美福門院派のものになり、後白河天皇もはっきりその派に属すると見られた。崇徳上皇派の不満はいよいよ高まり、保元の乱″となって爆発したのであった。
 清盛はそれまで後白河法皇を甘く見ていたのだ。が、平家に対する嫌がらせともいえる仕打ちに、さすがに緊張した。やがて清盛は本気になった。
 「院がその気なら、こっちも対抗策をとる」
 とはっきり心を定めたのである。
 治承三(一一七九)年の十一月に、清盛は大軍を率いて福原を出発した。そして 京都に入ると、建礼門院徳子と言仁親王を八条の館に移し、法皇と高倉天皇に対し、
 「このような状況では都が不安でございます。中宮と皇太子をお連れして、都を福原に移します」
 と宣言した。法皇や天皇をはじめ、皇室や御所の公家たちは、
 「平清盛は、京都朝廷を離れて、福原朝延を設立し、独立を目指している」
と恐れおののいた。それは、
 「今の清盛なら、それが可能だ」
と思えたからである。
 法皇は、政務に関わらないと宣言し、二回目の院政停止となった。清盛は、法皇に仕える関白藤原基房など反平氏側の公家三十九人の官職を取り上げてしまった。
 しかもかれらを宮廷から追放した。自派の藤原基通を関白に任官させ、他の主要ポストもすべて平家派の勢力で固めた。その結果、平家一族郎等の地行国は三十を超えた。日本の半分が平家のものとなったのである。それだけでなく、清盛は十一月二十日に後白河法皇を鳥羽殿に押し込めてしまった。これが治承三年の政変″で ある。
 翌治承四(一一八〇)年二月には、ついにかれの外孫にあたる皇太子言仁親王が即位した。安徳天皇だ。この時、清盛は六十三歳であった。
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■清盛は一族の基盤をつくり、関東平氏に興味をもたなかった

<本文から>
 あくまでも都中心のものであり、また身近な親戚筋ばかりを集めていた。清盛自身の家が、桓武平氏である平貞盛の流れであるにもかかわらず、関東平氏とは裸を分かった関係となっていた。つまり清盛の頭の中に、関東平氏の存在はなかったのである。清盛の祖父正盛と父の忠盛は、都での基盤を着々とつくり、清盛を、
 「生まれながらの貴族」
として育てた。自らも、一門の子息を貴族として育て上げることに気を配ってきた。また、源義朝の田舎臭さを毛嫌いした。それらを考えると、清盛が関東平氏に興味を持つわけはない。清盛にとって平家の栄華は、伊勢平氏のそれであった。
 頼朝は違った。
 「源氏であろうと平氏であろうと藤原氏であろうと、そんなことは関係ない。あくまでも東国武士として、そのニーズを把握し、その実現に努める」
 と考え、土地至上主義″の価値観を尊重して、「御恩と奉公」という方式を考えだしたのである。この平等公平な考え方が、東国の平氏一族の胸を大いに揺さぶった。
 「頼朝殿はさすがだ。出身にこだわりを持たない」
と受け止めた。
 相模・下総・上総などの豪族は「介」という官名をそのまま姓の中に組み込んでいる。これはその官名を誇りとしていたためだろう。同時に一般の東国武士に対して、
 「おれは国府の役人だぞ」
という自慢があった。それを誇示して、
 「おまえたち平武士とは格が違うのだ」
といいたかったのだ。
 大化の改新後、日本の国は六十数か国に分割された。それぞれの国に国衛(国府)が置かれた。現在の県庁″である。役所には守・介・操などのポストが置かれ、中央から役人がやってきた。守は県知事だ。介は副知事といっていい。操は筆頭局長というところだろうか。
 ただ、院政が進んでからは、知行国制が一般的となり、高級公家や有力神社が知行国主となった。国主は、国司の長である「守」の任命権も握っていた。固守は当然国主の関係者で占められることになったが、実際に赴くわけではなく、在京のまま、いわゆる「進任」というかたちで、名目上の知事となっていた。
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■源氏に追い詰められた清盛の最期

<本文から>
 京へ戻った清盛は、本腰を入れて反乱分子の制圧を始めた。平氏が東国で無様に負けてから、都周辺でも近江源氏が勢いを増し、都に攻め入るのではないかと、公家たちは戦々恐々としていた。そんな中で、清盛は苦渋の選択をする。後白河法皇を院政に復活させたのである。高倉天皇の病は重篤で、自身は討伐軍をまとめる立
場である。政務を行う人物が必要だった。法皇を復活させることは、いわば諸刃の剣で、危険を伴うことは清盛も承知していたはずである。しかしそれだけ状況は逼迫しており、清盛も腹をくくったのだろう。
 清盛は、近畿一円から掃討を開始した。今まで手をつけていなかった興福寺、東大寺へも攻め入り、焼き討ちにした。のちに「南都焼き討ち」と呼ばれる事件だ。興福寺は藤原氏の氏寺であり、東大寺も多くの皇族の氏寺であった。このことでさらに敵が増えたのは想像にかたくない。もちろん後白河法皇も快く思わなかったに違いない。
 治承五(一一八一)年一月十二日に、高倉上皇の容態が急に悪化し、十四日に亡くなった。同時に、後白河法皇の院政が正式に再開した。
 清盛は、東の頼朝に対抗すべく、畿内を中心に、宗盛をトップとした新しい軍制を整えようと画策していた。兵士と兵糧米を確保しようとしたのであった。さらに陸奥の鎮守府将軍藤原秀衡に頼朝追討の宣旨を出し、背後から衝かせようとした。そして、一月二十五日、法皇の後宮に自分の娘を入れた。清盛の行動には、どこか焦りが見える。あるいは自分の体調の異変に気づいていたのだろうか。 この年、閏二月四日、ついに清盛はこの世を去った。六十四歳であった。この時、福原について行かず、京に居残っていた九条兼実は、「過分の栄華」や「天下に苛酷の刑罰」を行ったことを非難し、
「ほんとうなら首を矛にかけられて戦場に骸をさらすべきなのに、病床で亡くなるとは運のいいことだ。しかし、神罰によることは間違いない」
と言っている。
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■不易と流行の論

<本文から>
 こういう永遠の課題を考えると、わたしは元禄年間に俳聖といわれた松尾芭蕉の、
 「不易と流行の論」
 を思い出す。不易というのは文字どおり、
 「どんな世の中でも変わらないこと、あるいは変えてはいけないこと」
 をいう。一方の流行というのは、
 「時の流れをきちんと見極め、それに乗った形での事業を行う」
ということだ。一般的には不易のほうを「恒久的なもの」と考え流行を「一時的なもの、一過性のもの」と考える。
 しかし芭蕉の論は違う。この不易流行論はいろいろな解釈があるが、わたしは次のように解釈している。
・たしかに不易は大事だ。守らなければいけない
・しかし、人間の世の中はつぎつぎと変わる。この変化する社会を無視するわけに はいかない。ある場合には、その変化する社会が求めるものを提供することも大事ではないか
・変えてはならないものを保持すると同時に、アップ・トウー・デイト(今日的)な課題にもきちんと対応していかなければならない
 しかし、願わくば、今は流行″に見えたことでも、やがて歳月が経つにつれ、いつの間にかその流行″が、不易″の中に入り込み、溶け込んでいるような 仕事が望ましい
 元禄という華麗な時代に生きた芭蕉の門人たちの中にも、古典的な不易を嫌い、直ちにもてはやされるような流行″的な俳句を詠む者が沢山いた。門人の中にはこれに反発し、
 「そんな一過性的な俳句ばかり詠むな。それは世の中に迎合していることだ」
と非難する者もいた。これに対し流行派は流行派で、
 「おまえたちのように古いことばかり言っていると、結局は俳句そのものが廃れてしまう」
  と反論する。
 この両者の主張の上に立って、さすがに師の芭蕉は大乗的な判断を下した。それがここに書いたような不易流行の解釈だ。簡単にいえば、
 「たとえ、今日ただいまの社会に生きる人々のニーズに応えたように見えても、やがてはそれが不易の古典として残るような俳句をつくろう」
▲UP

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