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<本文から>
北面の武士とは、平氏といわず源氏系でもノドから手が出るようなポストだったのである。北面の武士を命ぜられただけでなく、正盛は小国隠岐守から、若狭、因幡とステップアップし、永久元(二三)年には大国の備前守に任じられている。
たとえ領地を六条院に寄進しても、土地の実際の管理(年貢などの徴収)は従来どおり正盛に任されていたので、正盛は寄進した土地に自分の部下を代官として派遣していた。したがって、収入に関する事務手続きは従来とまったく変わらない。もちろん白河上皇もそんなことは百も承知だ。
しかし、上皇ゆかりの六条院に土地寄進があった、という事実は大いに吹聴できることでもある。それに、今伊勢に完全に根を張った平氏の棟梁が、進んで上皇に土地を寄進したという事実は、
「白河上皇は、平氏を手兵として御支配になった」
ということを印象づける。当時朝廷の政務を牛耳る摂関家が、その手兵としていたのは源氏である。したがって、白河上皇が平正盛の申し出でを快諾したのは、
「摂関家に味方している源氏のカを抑え込みたい」
という意図があった。もちろん、正盛もそんなことは百も承知していただろう。
正盛にしても、
「日本の最高権威のお役に立つのは、平家一門でその座を占めたい」
と考えていた。そして同時に、正盛の白河上皇への奉仕は、こういう形式的・名目的なものだけではなく、経済の面でも多くの金品を献上していたに違いない。そういう実益がなく、単に領地の寄進が名目だけのものであれば、上皇も正盛を急速に立身させるような応じ方はしなかっただろう。
こうして、伊勢平氏は、単なる土着の地方豪族の域を脱し、急激に力を蓄えていった。この実績を企業になぞらえると、
「前代が築いた実績をもとに、次の当主がさらにこれを増強していく」
という、骨の太い企業経営を継続していった、ということになる。 |
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