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<本文から>
「石田三成蜂起」
の報をきいた家康は七月二十日(即ち小山到着の翌日)、有名な”小山軍議”をひらいた。そして冒頭、「諸将の妻子は、大坂で人質として三成におさえられた。この上は家族のために、即刻大坂に戻り、石田三成に一味してもこの家康は少しもうらみに思わない」
と告げた。一同は唖然とした。家康にすれば大ハッタリのジャブだ。が、このジャブにすべてを賭けた。陣中には暗い空気が立ちこめた。諸将の胸に一様に湧いたのは、
(上杉と石田に挟撃されて、家康殿は滅びるのではないか?)
という不安であった。
諸将の中から、この不安をふりはらうように、つぎつぎと、
「妻子の心配はご無用です。この上は即刻反転して三成を討ちましょう」
という声が出た。これこそ家康ののぞむ声だった。というのは、東北に遠征してきて、家康も胸の中で、
(上杉に敗れるかも知れない)
と考えはじめていたからだ。家康も兼続と同じように情報を取っていた。そのどれひとつをとっても、上杉方は意気盛んだ。豪もひるんではいない。白河口に結集した大軍は、堂々と大決戦を挑んでいる。その態度は、
(何が天皇と秀頼公が承認した征伐だ? この合戦は、上杉村徳川という、豊臣家の大老村大老の決戦である。対等の戦いだ)
というものであった。それがひどく家康を不安にさせていた。
結局、上方軍は反転した。上杉攻めをやめてしまったのだ。そのひきあげぶりはかなりあわてていて、味方の軍がまだ渡りきらないうちに、切って落した橋もあった。それほど上方軍は上杉軍の追撃をおそれたのである。
そして、それをもっともおそれていたのが家康であった。家康は直江兼続をおそれていた。
「上方の生き方を否定する田舎者」の実力を、こんどは自分の眼でいやというほど見たのだ。白河口での布陣ぶりを知らされて、家康は、自己圏内で戦う兼続の優位と、遠征軍の自軍の劣位をまぎまぎと感じた。
家康は恐怖心をおさえつつ、江戸城に入った。そして、恐怖心を鎮めるためか、そのまま在城して動かなかった。
「上方に向かった諸将の動向を見届けるためだ」
といわれるが、それだけではあるまい。骨の髄まで直江兼続の恐ろしさをしみこまされたためである。
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