童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          北の王国・下

■直江兼続の恐ろしさを知る徳川家康

<本文から>
 「石田三成蜂起」
の報をきいた家康は七月二十日(即ち小山到着の翌日)、有名な”小山軍議”をひらいた。そして冒頭、「諸将の妻子は、大坂で人質として三成におさえられた。この上は家族のために、即刻大坂に戻り、石田三成に一味してもこの家康は少しもうらみに思わない」
と告げた。一同は唖然とした。家康にすれば大ハッタリのジャブだ。が、このジャブにすべてを賭けた。陣中には暗い空気が立ちこめた。諸将の胸に一様に湧いたのは、
(上杉と石田に挟撃されて、家康殿は滅びるのではないか?)
 という不安であった。
 諸将の中から、この不安をふりはらうように、つぎつぎと、
「妻子の心配はご無用です。この上は即刻反転して三成を討ちましょう」
という声が出た。これこそ家康ののぞむ声だった。というのは、東北に遠征してきて、家康も胸の中で、
(上杉に敗れるかも知れない)
と考えはじめていたからだ。家康も兼続と同じように情報を取っていた。そのどれひとつをとっても、上杉方は意気盛んだ。豪もひるんではいない。白河口に結集した大軍は、堂々と大決戦を挑んでいる。その態度は、
(何が天皇と秀頼公が承認した征伐だ? この合戦は、上杉村徳川という、豊臣家の大老村大老の決戦である。対等の戦いだ)
 というものであった。それがひどく家康を不安にさせていた。
 結局、上方軍は反転した。上杉攻めをやめてしまったのだ。そのひきあげぶりはかなりあわてていて、味方の軍がまだ渡りきらないうちに、切って落した橋もあった。それほど上方軍は上杉軍の追撃をおそれたのである。
 そして、それをもっともおそれていたのが家康であった。家康は直江兼続をおそれていた。
「上方の生き方を否定する田舎者」の実力を、こんどは自分の眼でいやというほど見たのだ。白河口での布陣ぶりを知らされて、家康は、自己圏内で戦う兼続の優位と、遠征軍の自軍の劣位をまぎまぎと感じた。
 家康は恐怖心をおさえつつ、江戸城に入った。そして、恐怖心を鎮めるためか、そのまま在城して動かなかった。
「上方に向かった諸将の動向を見届けるためだ」
といわれるが、それだけではあるまい。骨の髄まで直江兼続の恐ろしさをしみこまされたためである。
 

■徳川軍の追撃をやめた上杉

<本文から>
 こういう家康の様子を、兼続は透視していたのだろうか、
「家康を追撃しましょう」
 と景勝にいった。が、景勝は、
「いや、やめよう」
 と首をふった。兼続は景勝を見た。
「どうなさいました? 勝てますよ」
「わかっている」
「それならば、なぜ?」
「うむ」
 景勝はしばらく無言だった。
 やがて、まっすぐに兼続を見つめながらいった。
「上杉の役割はここまでだ」
「えっ?」
 真意をはかりかねるように、兼続は景勝を凝視した。
「上方の戦いは、所詮上方同士で結着をつけなければならん。われわれは家康を白河口まで誘い出した。もしそこで、一戦となれば、上杉も死力をつくして戦っただろう」
「はい」
「だが、家康は反転した。敵の主力が兵を返した以上、上杉と上方の一方の実力者との決戦は終った。上杉に背を向けた相手を、追いかけてまで討ち取らねばならない義理はない」
「しかしながら、いま、家康を追撃すれば、家康の力を確実に弱めることができます」
「うむ」
「そうすれば、石田殿の勝利はいっそうたしかなものになります」
「それはそのとおりだ。だが、それには、上杉の蟻牲も多くなる。後ろには最上や伊達の若僧が上杉領を狙って兵を集結させている。たとえ、家康に大打撃を与えられたにしても、凱旋してくる上杉に飢えた狼のように伊達の若僧が襲いかかってこよう。上杉だけで家康を完全に討ち取ってしまえるのであれば、あえて出撃するのも意味はあろう。が、自国領を空にしてまで追撃し、上杉だけで家康と家康に従う上方軍を壊滅させるだけの実力がいまのわれわれにあると思うか」
「ありません」
「上方者同士の戦いは、いずれにしろ徳川と石田の間ではっきりと結着をつけなければならない。おれもおまえも石田三成の側に賭けた。そして、ぎりぎりの危険を冒して上杉のできる最大の努力ははらった。あとは、秀頼さまの御名と石田三成の采配に命運を賭けるしかない。

■直江兼続への地域の評価

<本文から>
 直江山城守兼続に関心を抱いたのは、いくつか理由がある。ひとつは、かれは「上杉家の名参謀」あるいは「名補佐役」として伝えられてきている。上杉謙信の頃はたしかに名補佐役であり名参謀だったかもしれないが、そのあとをついだ上杉景勝の代になると、果たして直江は名参謀であったのか、また名補佐役であったのか、ちょっと疑問な面もある。これは、直江だけに限らない。たとえば、武田信玄の名参謀といわれた山本勘介にしても、あるいは尼子氏の名参謀といわれた山中鹿之介にしても、その結果からいうと、
「果たしてかれらは名参謀だったのだろうか?」
という疑問がわく。というのは、かれらは共通して作戦を失敗させ、主人を窮地に陥らせているからだ。山本勘介は、川中島の合戦で有名なキツツキの作戦を進言し、採用された。ところが上杉謙信に作戦の裏をかかれて、武田軍は大混乱に陥った。一時は総大将の信玄すら命が危なかった。また、尼子氏の山中鹿之介にしても、結局は主家を再興することができず、彼自身も毛利軍に捕えられて首を斬られてしまう。
 直江兼績も同じである。かれが、有名な「直江状」によって、徳川家康に真っ向から挑戦し、関ケ原の合戦では西軍の石田三戌に味方した。しかし、西軍が破れると、上杉家は懲罰のために、それまで領有していた会津百二十万石を失ない、代わりに米沢三十万石を与えられた。しかし、米沢三十万石は、もともと豊臣秀吉によって、直江兼続に与えられていた領地である。いってみれば、上杉家は領土のすべてを失い、主人の上杉景勝が、重役の直江兼続の領地に転がり込んできたということだ。こういうことを考えると、直江も含め「名参謀」と伝えられている人々が、果たして名参謀だったのかどうか疑わしくなる。名参謀の作戦がすべて裏目に出ているからである。
 にもかかわらず、名参謀たちの名は依然として高い。とくに直江兼続の名は高い。そうなると、作戦以外の面で、何か偉大なことを成し遂げてきたのではなかろうか、という疑問が沸いてくる。そしてそれは歴史の上に表われなくても、むしろ直江が生きた地域の中にそういう評価が伝わっているのではないかという気がしてくる。
 それでは、直江兼続に村する地域の評価とはいったいなんだろうか、というのがこの作品のモチーフだ。それを、筆者は、
「北の王国」
と名付けて、その構想者を直江山城に指定してみた。つまり、直江兼続の本当の存在意義は、上杉景勝の参謀や補佐だけにあったのではなく、かれ自身はるかに大きな志右持っていたのではないか、ということである。では、その志とは何か。
 昔から、福島県の白河の聞から奥を「みちのく」という。これは「道の奥」 の略だ。道とは「陸」の字をあてる。陸の奥が転化して、「陸奥」に代わった。しかしみちのおくとはいったい何を指すのだろうか。明治維新のとき、東北に攻め込んだ政府軍の一将校が、「白河以北一山百文」といった。つまり、白河の開から北は、山一つでも百文で買えるというバカにしたいい方である。これに腹を立てた東北のあるジャーナリストが新聞を出した。将校がいった言葉から河という字と北の字をとり「河北新報」と名付けた。また、東北で最初の総理大臣になった原敬は、自分の号を「一山」と名付けた。これも「一山百文」が基になっている。
 こういうように、「みちのおく」というのは、東北地方全体に対する蔑称である。日本にはかねてから、「西高東低」 の考え方がある。すべて、政治・経済・文化の中心は、西方、とくに上方にあったからである。
 これに対して古代から東国に抵抗者が多く生れた。平将門はそのスターティングランナーであった。やがて奥州平泉(岩手県)に、藤原三代が生まれ、絢爛たる黄金文化を築いた。この伝統を受け継ぎながら、しかし上方に発生した中央政権、とくに豊臣氏の″桃山文化″を導入したのが、伊達政宗である。政宗は、京都伏見に生じた桃山文化の″仙台化″をはかった。現在、かれが作ったとして残された多くの国宝級の建造物は、すべて桃山文化の粋を集めたものだ。だからといって、伊達改宗は上方の政治権力に心の底から屈服していたということにはならない。むしろ、そういう導入によって、藤原三代が守り続けた″東北の自治″を保とうとし
たのだ。
 この作品で書いた直江兼続の ″北の王国″ には、そういう伝統的な発想が流れている。しかし、それだけではない。直江兼続には、″土と水と緑″ の思想があった。あくまでもかれは土の人間である。農を大切にした。いまなら第二次産業や第三次産業にも目をむけたかも知れないが、かれの生きた時代は一次産業しかない。それを大事にした。そしてかれは人を愛した。が、素朴な土と人間に対する愛情が、上方中央政権に巣くっている連中をみていると、つぎつぎと破壊される現状を見た。
「これではならない」
とかれは決意した。

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